2017年07月17日

栗栖野で丹波酒井氏の歴史を調べる

まだ篠山に出戻る前、酒井一族の山城・栗栖野城に登ろうと栗栖野集落を訪ねた。そのとき、市議・酒井さんという方と出会い、地元に関する歴史をうかがった。それから十年ばかり経った今年の春、突然、酒井さんがいまの職場に訪ねてこられ、ライフワークにされているという篠山城の石垣についての話をうかがった。

酒井さんが住まれている栗栖野は、篠山城石垣の切り出し場の一つで、いまも山中に当時の矢穴や刻印が残る残念石が残っている。酒井さんはそれらの石調査をされ自費をはたいて残念石を利用した公園も作られている方だ。せっかくの訪問を受けながら、酒井さんがもたれている課題にお役立ちできなかった。

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今回、改めて丹波酒井氏の歴史を調べるにあたって、頼みの綱としていたガイド先輩の酒井さんが怪我をされどうしたものか?と思っていたとき栗栖野の酒井さんを思いだした。あつかましく、酒井氏の歴史についてあれこれお話を伺いたいと申し込んだところ、了承をいただき今日の訪問となった。酒井さんの知人で丹波荒木氏の小説執筆を進められているというHさんも同席され、丹波酒井氏の歴史についておおいに語り合った。

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夕暮れも近くなったころ話をきりあげ、フィールドに出て行った。まず、栗栖野酒井氏にゆかりの若林寺を訪ね境内の墓地にお邪魔すると酒井家の墓石があり、丹波酒井家では初見の「剣花菱」紋が刻まれていた。ついで、酒井さんのお宅の隣に鎮座する大歳神社を訪ね、栗栖野の村墓地に案内してくださった。

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この墓地はこれまで見落とししていたところで、踏み込むと酒井家の墓石が並び立ち「三つ巴」と「剣カタバミ」紋との二つの流れに分かれていた。この栗栖野墓地踏査で、ほぼ丹波酒井家の家紋調査はは終えたといえそうだ。

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ところで、福住の籾井城山麓にある禅昌寺にあった旧山門が新築され、旧山門に刻まれていた桐紋が行方知れずとなっていた。おそらく焼却されたのであろうと思っていたが、なんと家紋の彫られた部材が酒井さんのお宅に保存されていたのだった。思いもかけず、何年ぶりかに出会った桐紋は当時のままであった。

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最後に酒井一統の氏寺とされる高仙寺に伝来しているであろう、『酒井四家連署寄進状』の実物を拝見したいのですが、とあつかましいお願いをした。骨を折ってみますとの回答をいただき、長時間の取材にお礼を述べ酒井さんたちとお別れした。寄進状の実物拝見が現実化すれば文字通りに欣喜雀躍と言うしかない。楽しみである。
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2017年07月16日

本郷でおもゼミ・国人編の下調べ

昨年、「篠山おもしろゼミナール」の講師依頼を受け「篠山の国人−東部編」を務めさせていただいた。ありがたいことに好評だったそうで、今年は「篠山の国人−西部編」を努めることになった。
篠山の戦国時代は八上城主波多野氏を盟主として国人衆が割拠する状況にあり、西部では関東御家人の系譜をひく中澤氏、酒井氏をはじめ、有力武家として細見氏、山名氏、久下氏らが知られる。そして、それら武家たちが拠った山城が残り、後裔である家々がいまも在所に続いている。

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篠山に住み暮らしてより、もともと好きだった戦国史と武家の歴史を家紋探索と併せて訪ね歩き、ホームページなどで発信してきた。それらの成果をベースとして西部編のたたき台を作成、改めて国人・土豪ゆかりの地を訪ね、後裔にあたる家に取材を重ねることにした。

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今日は、篠山の北西に位置する本郷一帯に勢力を張った細見氏の歴史探索に出かけた。まず、細見氏の菩提寺という松隣寺を訪ねたが、生憎、住職さんが不在でご母堂さんより地元の歴史に詳しい細見さんを教えていただいた。ちょうど在宅されていた細見さんにいろいろとお話をうかがい、さらに、細見氏の居館跡、かつての城域を示す地名、細見株の墓地などなどを案内していただいた。

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篠山の歴史をつづった「多紀郷土史考」に記述された細見氏の部分に「細見将監館跡」の石碑の写真が紹介され、できれば実見したいと思っていた。ところが、
細見さんの若かかりし昭和三十年代のはじめには確かに存在していたが、圃場整備によって行方不明になってしまったとのこと。三十年代は全国的に土地改革、宅地造成のラッシュ時代で多くの史跡、遺跡が調査や保護の手が入ることもなく無残に破壊された。ここもその例外ではなかったわけで、残念なことというしかない。もっとも、圃場整備された田圃のどこかに埋まっていることは確からしいが・・・。

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本郷にはかつて庄屋だったという細見家があり、そのお宅も教えてくださった。しかし、ちょうど昼時になっていたことでもあり次の機会に伺うことにして細見さんと別れた。思いがけず願ってもない方との出会いで、多くの収穫をえることができた。やはり、現地に足を運べば、運んだだけの収穫があるということだ。
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2017年07月12日

家紋講座 in 播磨町 ・次女に男子誕生!

播磨町中央公民館ことぶき大学における家紋講座、「戦国武将の家紋と名字に探る我が家のルーツ」一時間半の持ち時間を無事に終えることができた。

会場でパソコンを準備、いざ、本番となったところでパワーポイントがうまく作動しない。やや焦りながらも、なんとか講座を続けたがパソコンとトークとがゴッチャになる形となり、聴講者の皆さんには分かりにくかったのではなかったろうか?質問タイムで発言いただいた方が、水戸黄門の葵紋とか天皇の菊の紋の話が聞きたかったです とおっしゃられたのには「なるほど!」と今日一番の勉強になった。

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講座後、公民館館長との雑談のなかで、主催者側として年間の講座プログラムを企画する難しさ、講師をチョイスする大変さというものを聞かせていただいた。話しぶりから察するに今日の講座の点数は、結構、辛いものだったのでは?とチョッと凹んだことだった。

 
★ 次女・麻衣に男子誕生

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ノルウェーで暮らす女に元気な赤ちゃんができました。が、あまりに遠くに住んでいるため、当分の間、写真で見るだけです。名前は「Utarou」と付けるそうだが・・・、う〜む。ま、かれらがよいというなら、それが一番なのだろう。
posted by うさくま at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2017年07月10日

みんなで甲冑づくり、第1日目

毎年、秋に行われる「いざ出陣!篠山城戦国祭」に向けて
スタッフによる甲冑づくりがスタートした。

甲冑とはいうものの、戦国祭における着用が目的で
プラスチック素材を使って作成する。
指導者に篠山在住の甲冑づくりを趣味にされているT氏
その趣味を越えた技術で、いまでは知る人ぞ知る有名人。
戦国祭がスタートして以来、展示、着用している甲冑は
すべてT氏の手になるもの。

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昨年より、ただ依頼するだけではなく、氏の指導を受けながら
スタッフの手で甲冑づくりをしようということになり
今年は武田信玄の甲冑を作ることになった。

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第1日目の今日は、T先生が用意されたプラスチック素材より
甲冑のパーツを切り出し、縅糸を通す穴明け作業。
そして、パーツに縅糸を通す作業に終始した。
もちろん、みんなシロウトばかり。さて仕上がりやいかに?
posted by うさくま at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 手作り兜教室

2017年07月03日

北海道の旅最終目・チャシを攻める

最終日。朝、せっかくなので札幌定山渓を散策。

定山渓は緑豊かな渓谷の湯で、支笏洞爺国立公園内に位置しているところ。そもそも慶応2年(1866年)修験僧・美泉定山がアイヌの人々の案内で泉源と出会った時に始まり、温泉の礎を築いた定山の功績から、「定山渓」と命名されたという。北海道の名づけ親とされる幕末の探検家・松浦武四郎も立ち寄ったといわれている。
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この旅の前半、道南に散らばる本土より蝦夷に渡ってきた渡り党と呼ばれた和人たちの館群を巡ってきた。が、北海道といえば先住民のアイヌが築いた城砦跡とも祭祀跡ともいうチャシを一つぐらい踏破したい。昨晩、ネットでチャシをチェックしたところ、開発で消失、雑木の繁茂などでこれはというところがない。そのようななかで、遺構が見られる数少ないチャシ・桜丘チャシを発見。札幌からはチョッと遠いところではあるが、この旅最後のドライブがてら訪問してきた。

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たずね当てた桜丘チャシは、堀切、切岸、腰曲輪など本州の山城を彷彿させるもので、それなりに見ごたえはあった。しかし、道南の館はともかく、本州の山城群と比べると、やは、り小さな城砦遺構というしかないものであった。でも、三泊4日の北海道の旅は十分に満足のいくものであった。孝行息子に感謝である。

かくして、北海道の旅はここまで。5日ぶりに関西に飛行帰り、思えば今日は64回目の誕生日。心に残るいい旅ができた。
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2017年07月02日

4日目・さくら石狩データセンターをウォッチ

四日目、今日は城なしです。
朝食後、今日のメーンとなる「さくらインターネット石狩データセンター」を長男にガイドしてもらうため苫小牧を出発。

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その前に昼ごはんをということで、長男おすすめの厚田港にある「お食事処前浜」に寄り道、ボリュームたっぷりの海鮮ラーメンを食す。日本海に面した厚田港は、これまで見たことのない寂さびとした風景で北の旅を実感させるところであった。

 
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今日のメーンであるさくらインターネット石狩データセンター、その大きさに驚かされるとともにセキュリティの高さ、働く人の少なさ(日曜日ということもあるが)など、ITのインフラを担う設備だな〜と実感させられた。

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データセンター前で親子ショット

センターでわが子のスゴサにびっくりしたのち、札幌駅で長男と別れて今夜の宿泊地・定山渓温泉に移動。その途中で見つけた墓地に寄り道しながら夕刻、定山渓のホテルに到着。むかしながらの温泉街でホテルもこの旅一番のものであった。温泉に浸り、ゴージャスな夜ご飯に舌鼓を打つ。かくして、北海道の旅も残すところ一日となったのである。
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2017年07月01日

3日目・館、町、ドライブ、湖を堪能

三日目。昨晩の民宿、立地は海が目の前でまずまずだったが、寿司屋さんというネットのコピーから御飯もバッチリであろうと思っていた。ところが、いっちゃお終いだが、チョッと期待はずれだったな〜 (次は行かない、きっと)。

朝霧の中、昨日行きそびれた勝山館跡ガイダンス施設を訪ねたが未だ開館前。城跡北方に展開する中世墓群を見る、その多さに驚かされるとともに、勝山館一帯は城を中核とした中世都市といえる存在であったことを実感した。勝山館のシンボル医王山に登る、山頂には松前氏の祖・武田信広を祀る医王山神社が鎮座している。晴れていれば勝山館から海までが一望間違いないところだが、霧のため無念の下山となった。

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今日の最初の館は、和人が蝦夷に築いた最初の拠点という花沢館。コシャマインの乱当時の館主は蠣崎季繁で、客人として滞在していた武田信広とともにアイヌの攻撃から堅守した館である。宿の情報では草茫々とのことだったが、登山口も山道も明確、城址は下草が目立つものの遺構探索に困るようなことはない。先の勝山館と比べると小規模ではあるが、天ノ川を自然の濠として、曲輪の削平も丁寧、切岸も高く、後方尾根を遮断する堀切も深い。なかなか、見ごたえのある館であった。

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つづいて、天ノ川を隔てた北方に位置する洲崎館。コシャマインの乱に活躍した信広が、季繁の娘を娶り花沢館の出城として築いた館という。主郭に砂館神社が鎮座し、その後方に横堀が切られ、周囲を曲輪群がとりまき、なかなか規模の大きな館だ。全体的に雑木藪化が進み、遺構探索が躊躇われたが武田信広が蝦夷の覇者になっていく最初の拠点となっただけの館跡であった。

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上ノ国で北海道の城館巡りはひとまず一段落、あとは今日の宿泊地である苫小牧に向かいつつ観光地を経巡った。まずは江差のまち、ここも二度目の訪問になる。まず横山家住宅を訪ね、ついで旧中村家住宅、姥神大神宮、そして、横山家住宅で蕎麦に舌鼓を打つ。むかし来たときに比べて、まちがずい分手入れされているように見受けられたのは、北海道で初の「日本遺産」認定のまちになったことも大いに関係しているのだろう。

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江差をあとに、雲石国道を抜けて八雲インターチェンジから虻田洞爺湖インターチェンジまで道央自動車道を突っ走り洞爺湖見物。展望台近くに墓地を発見、早速家紋をウォッチしたのち洞爺湖の眺望を楽しむ。観光客を見ると中国人、韓国人が多い、なるほどインバウンドの大勢を占めるのは彼らなのだな〜と思わざるをえない。洞爺湖からは230号線→276号線を突っ走って支笏湖で一休み。その間、北海道の道路標識に「クマ注意」が登場、なるほど北の大地である。

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0701_IMG_3106.jpg クマ注意の道路標識

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夕方、ホテル近くの居酒屋で夕食がてら呑み。ふとFBを見ると、かつての同僚・杉本さんが亡くなったようなコメントを発見、これも旧同僚・重田に電話するも出ず、則ちゃんに電話したら昨日亡くなりはって家族葬で送られたとのことだった。享年68歳、膵臓癌だったらしい。呆気ない死に、なんともやりきれない。同年輩の知人が鬼籍に入る歳になったのだな〜と切ないことである。
夜、東京から移動してきた長男と合流、居酒屋で呑みを始めたところ大きな揺れ。ネットでチェックすると苫小牧周辺を震源とする地震だった。これは!と身構えたが続く揺れはなく、家族三人ワイワイと飲みかつ食い、酔っぱらってホテルに帰投したのであった。

posted by うさくま at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2017年06月30日

2日目・館、城三昧

二日目は、蝦夷管領とも蝦夷守護ともいわれた安東氏の一族・下国氏が拠った茂別館からスタート。茂辺地川を外堀にした小丘にあり、主郭部には矢不来天満宮が鎮座している。周囲は土塁が取り巻き、城粋の東部から北部は自然の切岸が要害性を高めている。コシャマインの乱では、館が相次いで落ちる中でよく落城をまぬかれた。

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素晴らしい好天の下、白神岬経由で松前町へと移動。最初の目的地は、武田信広の孫・義広が拠ったという松前大館。のちに松前城を築くまで、武田蠣崎氏の本拠として機能した。『図説中世城郭事典』の縄張り図によれば土塁・空堀などおおいに興味をそそられていた。が、実際に来てみると生い茂る雑木林、そばにあった郷土資料館で状況をうかがうと、熊も生息していることでもあり入山禁止とのことであった。山麓に鎮座する徳山大神宮の傍らにはゴローニンの幽閉された牢跡があるらしいが割愛した。

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徳山大神宮、左手の山が大館

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ということで、松前城に移動、松前城は二度目の訪問、以前にはなかった城門や城壁などが復元され面目を一新していた。復興天主は相変わらずだが、以前には見落としていた土塁や空堀など見所も多い。ぶらぶらと松前城北方の寺町に足を伸ばし、松前藩士のものと思われる墓石をウォッチ、松前藩主家の墓所も訪ねる。古い墓地は荒れ気味の感はあるが、下国家、蠣崎家の墓石などなど総じてよく残っているなと思われた。小林家の歴史を尋ねた資料館の学芸員の方が、うれしいことにみずから案内をしてくださり、思いがけず松前城下の墓石ウォッチを堪能できたことだった。

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重職松前家の家紋              重職下国家の家紋

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松前藩主家の墓所              重職蠣崎家の墓所

松前の次は今日の宿泊地である上ノ国に残る勝山館。公園として整備されていることは知っていたが、実際に訪ねてみるとまるで分譲地のように往時の武家屋敷の区画が連なり、説明板もアカデミックな内容である。城域は南北を谷川に囲まれた高地を占有し、海側に二重の堀切、北側も竪堀を伴った堀切で遮断している。勝山館で特徴的なのは、城域の北方斜面にアイヌの人々、松前氏やその一族らのものも含む中世募跡が広がっていることだ。言ってみればひとつの町がそのまま営まれていたところ、それが勝山館の印象であった。
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下山したころには夕暮れが迫っていたが、登山口の上国寺・境内墓地をウォッチ。これという珍しい家紋はなかったが、墓石に屋号を彫っているのが印象に残った。

posted by うさくま at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2017年06月29日

北海道の旅、まずは函館から

孝行息子の心尽しで四泊五日北海道の旅、大阪空港より函館空港へ出発。

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初日は、函館空港で車をレンタル。最初の訪問地は空港すぐ近くにある志苔館。道南十二館の一つで小林良景が拠ったといい、コシャマインの乱で陥落したという館。土塁で囲繞された主郭を主体として、二重堀切が特徴的。南側には津軽海峡の海、その向こうに函館山が見える立地は、要害性はともかくよい景色であった。
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昼食は函館朝市で海鮮三色丼を喰らい、すぐ近くにある青函連絡船記念館摩周丸を見学。いまは鉄路で繋がった北海道と本州だが、かつては連絡船が数々の歴史を刻んできたのであった。

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チョッと感傷的になったあとは五稜郭へ移動、ずっと昔、仕事の延長で訪れて以来の再訪である。当時は仕事絡みだったこともありショボかった記憶があったが、今回、ジックリ歩いてみて、外堀、内堀、石垣、土塁、空堀などなど実に面白かった。もっとも、城塞としての評価は低いが、城郭遺構としてはガッツリ堪能できたことだった。

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最後は、お約束の函館山登山。自動車道を利用すれば、アッサリと登りつける。頂上からの展望は素晴らしいもので、眼下に函館の街並み、津軽海峡越しに本州北端の町大町が見える。本来ならば夜景を楽しむところなのだろうが、太陽の下の眺望も十分に満足できるものだった。

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2017年06月24日

木津城整備、第三ラウンド

丹波は晴れ。月一で実施している丹波木津城の整備作業に出動!今日のメンバーは四人、予定作業部分は西尾根曲輪群。
木津城址を歩くと、下見登山に来たときに比べて城址遺構も見やすくなり。格段に歩きやすくなった。山城整備は、擬似築城体験でもあり、木津城跡もどんどん城らしくなってきたといえそうだ。

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主郭、南西に位置する帯曲輪もスッキリ

T先輩たちが西尾根曲輪の土塁あたりを整備さているのを横目に、前から気になっていた主郭西方の横堀から竪堀に続く部分の木々伐採に精を出した。整備作業が進んだとはいえ、実際に作業をやってみると未だ道遠しではある。

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横堀

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西尾根曲輪群、雑木が茂る

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木々の伐採で土塁と曲輪が明確に

可能ならば、建物を設けられるぐらいに木々を伐採、当時、見えていたであろう眺望を取り戻したいものだが、それは遣り過ぎというものだ。昨今の山城整備が木々をバッサリ切り払ってしまって禿山状態にして、返って城址を損ねていることが多い。それらの失敗を他山の石とし、山の雰囲気を残しながら程のよい伐採作業を進める、それが重要なのだ。

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横堀も程よく雑木を残してスッキリ

西尾根曲輪群の木々を伐採すると、谷筋を隔てた西方に聳える清水寺のある山が間近となった。もっと木を伐れば、もっと見やすくなるのだろうが、ここも遣り過ぎには注意というところで我慢。

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今日も厳しい暑さの中、汗だくでの作業となった。ということで七月と八月は作業を行わず、次は九月に実施るつこととなった。帰って、ビールを飲んでシャワーを浴びる。ふと何かが付着しているな?と見るとダニにやられていた。やはり、夏の整備作業はいろいろと厭な奴らが登場してくることだ。
posted by うさくま at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城