2017年05月16日

赤松氏の紋を訪ねて書写山円教寺に登る

戦国末期、龍野城主・赤松下野守政秀が書写山円教寺開山堂の傍に寄進した護法堂の蟇股に刻まれた「二つ引両」と「三つ巴」を見に書写山円教寺に参拝した。

書写山円教寺は三十余年前、当時、勤めていた会社の社員研修というか研修ティストの社員旅行で来て以来のこと。改めて来てみると見どころがいっぱいあるではないか。

0514_IMG_1215.jpg

0514_IMG_1216.jpg
せっかくなので鐘楼の「慈悲の鐘」を一突き

SYOSYA_map.jpg
書写算ホームページ : http://www.shosha.or.jp/ より

まずはロープウェーを降りてから山内の寺院をめぐる山道の寂び寂びとした佇まい、播磨征討戦に際して羽柴秀吉が本陣を置いたという歴史を語る曲輪跡であろう土塁を伴う平坦地、なによりも西の比叡山といわれるだけに豪壮な堂塔伽藍の数々。

0514_IMG_1349.jpg
秀吉時代の曲輪跡か

0514_IMG_1222.jpg


若干、荒れた空気も無きにしも非ずだが、よく整備されていて飽きることがない。円教寺の中核をなす大講堂・常行堂、食堂は映画やテレビ時代劇撮影のロケ地にも利用されたところだけに、中世のままといっても過言ではない佇まいと空気を漂わしている。

0516_syosya01.jpg

0516_syosya02.jpg

さて、今日の目的である赤松下野守政秀の家紋に関する聞き取りをしたが、どなたもご存じないのであった。ともあれ、開山・性空上人を祀る開山堂を目指した。なるほど、開山堂の傍らに護法堂がある、


0516_syosya04.jpg

0516_syosya06.jpg

0516_syosya05.jpg 赤松氏の家紋

逸る心で蟇股の裏側を覗いてみると「二つ引両」「桐」「三つ巴」紋が彫られているではないか。やっと赤松氏の唯一ともいわれる家紋の遺物と邂逅できた!のであった。

0516_syosya07.jpg クリンソウの花

0516_syosya03.jpg

0516_syosya08.jpg

今日の目的を達し、ぶらぶらと書写山を歩いていると、沢のあたりに鹿の食害のなすものともいうべきクリンソウが咲いている。書写山中に営まれている松平家、本多家、まつだいら榊原家など姫路藩主であった大名墓、重要文化財指定を受けている建造物などを見ているとあっという間に時間が経ってしまった。
書写山円教寺、昼ごはんに食べた山菜うどんも含めて思いがけず堪能してしまった。
posted by うさくま at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2017年05月13日

丹波一宮・出雲大神宮の祭祀を担う七苗の家紋を探索

丹波国の一宮・出雲大神宮は、亀岡盆地の東部に立つ御影山の山麓に鎮座する古社。和銅二年(708)創建といい、旧称は『出雲神社』で「元出雲」とも称されている。明治維新まで出雲国の出雲大社は「杵築大社」を称し、「出雲の神」といえば丹波の出雲大神宮を指したといわれる。

0514_kame01.jpg

kameoka_MAP.png

この古い神社の祭祀に関わったのは、出雲村の松崎・広瀬・谷尻、中村の谷尻・山田・西田・野々村・広瀬、小口村の名倉、江島里村の広瀬・野々村であったと資料で知った。それぞれ江戸時代には「四ヶ村侍惣中」と称されたという由緒を伝える古い名字である。とくに出雲村の松崎、広瀬は「両苗」と称され別格に扱われていたようだ。

さて、先日に続いて亀岡での家紋探索。今日はあらかじめ検索、チェックした出雲大神宮の南北に散在する氏子集落の寺院、村墓地を訪ね歩いた。
まず資料の出雲村にあたる出雲区の村墓地からスタート。「三つ鱗」の廣瀬家、「隅切角」の谷尻家、「横木瓜」の杉崎家をチェック。つづいて出雲区の極楽寺墓地、ここでも「三つ鱗」の廣瀬家、「隅切角」の谷尻家、「横木瓜」の杉崎家の墓石群。

0514_kame_hirose.jpg 0514_kame_taniziri.jpg 0514_kame_sugizaki.jpg

中村にあたる中区の村墓地では、「梅鉢」の野々村家、「九曜」の谷尻家、「横木瓜」の山田家。同じく中区の金光寺墓地では「梅鉢」の野々村家、「五三桐」の山田家、西田家「立葵」。

0514_kame_nonomura.jpg 0514_kame_taniziri2.jpg 

0514_kame_yamada.jpg 0514_kame_nisida.jpg

江島里村にあたる江島里の蔵宝寺では、「梅鉢」の野々村家、「三つ巴」の廣瀬家を採取。そして、小口村にあたる小口の古刹・東光寺墓地で名倉家の墓石を発見、家紋は「月に立浪(大潮か)」というのだろうか初見のものであった。

0514_kame_nonomura.jpg 0514_kame_hirose2.jpg 0514_kame_nagura.jpg

こうして、出雲大神宮の氏子という村々を訪ね歩くと、古い名字がよく残っていることに感動した。これまで馬路の両苗と三苗、保津の五苗、河原尻の五苗、そして、今日の出雲大神宮の祭祀に関わってきた名字群、亀岡の保津川北東部一帯は実に名字の歴史博物館ともえいるところだ。
ところで実際に足を運んでみると、資料に記された出雲区の松崎姓は見当たらなかった。杉崎姓が分布していることから、資料の記述は間違いで「杉崎・廣瀬・谷尻・山田・西田・野々村・名倉」の七つの姓(苗)が祭祀に関わっていたのであろう。

0514_kame02.jpg

また、真継「二つ巴」・川勝「立ち葵」・森川「三つ巴」・矢田「蔦」などの名字と家紋の組み合わせにも目を引かれた。

0514_kame_hirose3.jpg 0514_kame_kawakatu.jpg 

余談ながら、出雲大神宮の神体山とされた御影山の中腹には、戦国期の山城・御影山城の遺構が残っている。
posted by うさくま at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年05月10日

丹波河原林、河原尻集落の五苗を探索

河原林町河原尻に鎮座する日吉神社は、嘉吉三年(1443)に近江国坂本から再勧請したとの記録があり、室町時代より宮座(宮の 党・長桟)が存し、かつては中世郷士の家柄である「五苗」が当番制で祭礼を行なっていたという。

五苗とは、資料によれば「茨木、湯浅、遠山、山田、八木」と言われる。そのなかの遠山家は美濃国の出身で、観応三年八月日「中津河秀家軍忠状写」で知られる中津川氏の子孫で遠山に改めた。そして、江戸期には旗本領の大庄屋や代官を勤めた旧家とのこと。今日は年休を取っていることだし、「家紋が気になる!」と止まらない。早速、遠山家を主体に河原林五苗の家紋を調べに出かけてきた。

kameoka_MAP.png

河原尻は亀岡駅の北方、中川・人見の両苗の家紋調査に訪れた馬路の南に位置した集落。まず、日吉神社を訪ね神社の駐車場に車を駐車、日吉神社は小さな神域だが、よく手入れされていていい雰囲気だ。河原尻集落もいい感じの佇まいで、古い家並もしっとりとして好ましいところだ。

051013_kame01.jpg

0510_02.jpg

0510_IMG_0703.jpg

まず、超願寺の境内墓地にお邪魔すると、「隅切鉄砲角に算木」を刻んだ「山木」姓の墓石が林立し「剣唐花」の「八木」姓も。つぎの寶光禅寺の墓地では「茨木」姓が「州浜」、「遠山」姓が「二つ引両」、そして丹波ではおなじみ「湯浅」姓が「九曜」をそれぞれ刻んだ古い墓石が並び、彫られた家紋もほどよく風化してゆかしい。
さて、国の重要文化財にも指定されている遠山家住宅は?とネットで地図を検索すると、河原尻集落から離れた位置にあるらしい。で、移動したのだが見当たらない、で改めて検索すると先に訪れた超願寺すぐのところだった。

0510_03.jpg

0510_04.jpg

訪ねあてた遠山家住宅は、長屋門、寂び寂びとした母屋など立派なもので、屋根の破風・瓦屋根を見ると「二つ引両」が打たれている。遠山家は美濃土岐氏の流れを汲むと伝えられているが、家紋を見る限り美濃東部から信濃北部に勢力を有した遠山家の流れであろう。

遠山家の家紋を確認したあと、さらに五姓の家紋を調べるため河原尻墓地をチェックし、勢いあまって保津村墓地まで足を伸ばした。
実際に現地を訪ねてみて、資料にあるところの茨木・湯浅・遠山・八木の四姓は発見できたのだが、山田姓は見当たらなかった。おそらく山木姓の間違いではないだろうかと思われたのだが、どうだろう? 

五苗の家紋

051013_kame_ibaraki.jpg 051013_kame_toyama.jpg 051013_kame_yuasa.jpg
茨木家・遠山家・湯浅家

051013_kame_yamaki.jpg 051013_kame_yagi.jpg
山木家・八木家

また、保津村墓地では河原尻の五苗と思しき名字の墓石はなかったが、保津五苗といわれる「桂」「長尾」「村上」などの墓石が多数派を占めていたの「然もありなん」であった。 

posted by うさくま at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年05月05日

恒例、多紀連山山開きにガイド出役

昨年より五月五日にフィックスされた「多紀連山山開き」
ルーチンとなった栗柄コースからの登山ガイドで出役。

いつもは十数人という少人数での登山だが
今年はありがたいことに30人近い大人数となった。

山登りの注意事項、主催者の挨拶などのセレモニーと
山歩きの会の方による準備体操で身体をほぐしてのち、0915栗柄の公園をスタート。

0505_01.jpg

まずは、修験道に係る伝承をもつ愛染窟までひた登り、小休止。
愛染窟からは滑りそうな山道をゆっくりゆっくり、途中にビューポイントで
疲れを癒しながら登っていく。どうしてもバラついてしまう参加者を
ポイントポイントで待ちながら、西の覗きを経て御嶽と西ケ嶽の
分岐点となる尾根に登り着いた。あっぷあっぷの登りであったが
ツツジやシャクナゲの花、若葉が匂い立つ木々の緑など、いい感じだ。

0505_04.jpg
愛染窟で小休止
0505_05.jpg
ビューポイントから春日町方面を見る
0505_06.jpg
鼓峠を見る

尾根に登ると、一気に視界が広がる。
右手に篠山盆地、左手に西紀から本郷に抜ける谷を見ながら
御嶽までの尾根歩きを堪能、天気も好し、いい山歩きであった。

0505_02.jpg
分岐に到着
0505_03.jpg
ツツジが鮮やか
0505_07.jpg
吹く風もサワヤカ

予定の時間を大幅に超えたが、全員、無事に御嶽を踏破。
ここで火打岩コースを登ってきたグループと合流。

0505_08.jpg
御嶽山頂に到着

昨年までなら御嶽山頂で弁当を使い、大タワまで下山したところで
一年の無事を祈る護摩焚きが行われるところだが、今年は中止とのこと。
理由は様々にあるのだろうが、一度、止めると再開するのは難しいのではないか。
色々な意味で残念なことというしかない。
御嶽山頂で弁当を使ってのち、1230西ケ嶽経由での下山をスタート。
案内役は、DSG山ガイドの先輩M氏。

0505_09.jpg
分岐を越えると若葉の尾根を歩く
0505_10.jpg
振り返ると、さっき踏破した御嶽
0505_11.jpg
岩場を登る、修験の山だ

尾根筋をアップダウンしながら1340西ケ嶽に到着。
山頂付近には石楠花、つつじなどの花々が見ごろ
360度の展望は望めないが、下界ウォッチを楽しむ。
みんなで記念撮影をしてのち1354栗柄へ下山開始。

IMG_4730.JPG
山頂で記念撮影
0505_12.jpg
いい感じの斜面を奥だって行く。

ひたすら下っていくこと一時間余、
1508栗柄集落に無事下山。そこから集合場所・運動公園まで最後の一踏ん張り
運動公園に帰着したのは1530、約六時間の山歩きを楽しんだ。
参加者にけがもなく、今日のガイドミッションを無事に終了できた。
posted by うさくま at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2017年05月03日

戦国倶楽部オフ会「明智越えの道を歩く」。

今日は戦国倶楽部のオフ会の先達として出陣。
丹波亀岡と京の清滝とを水尾・愛宕経由で結ぶ「明智越えの道」を踏破しょうという企画、一度、倶楽部オフ会の俎上にのせたが参加者のあまりの少なさに頓挫したこともあった。
明智越えの道は明智光秀が信長の宿泊している本能寺に兵を進めたルートの一つと伝えられる山道、明智ファンならずとも戦国好きには歩いてほしい歴史の道だ。とはいえ、正直、何人の参加者があるのか?ひょっとして二、三人での山歩きになるのかな?と思っていたら参加者十一名。意外な多さにチョッとびっくり。
ともあれ、亀岡駅に9時半集合、登り口となる保津集落へタクシーに分乗して移動。丹波亀岡より京の清滝まで、ひたすら山歩きとなった。

0503_01.jpg
コース行程マップ

18199066_1508267405910438_4114117972952816406_n.jpg
レジュメを配布

0503_02.jpg
亀岡駅より明智越えを見る

明智越えに踏み入る前に参加者十一人、元気な状態の記念撮影。おそらく5時ごろには清滝に着けるであろうと想定、気合いを入れて保津集落をあとにした。

IMG_0422.JPG
登山前、全員で記念撮影

IMG_0425.JPG

0503_002.jpg
明智越え登山口に残る保津城址

登り口は「スズメ蜂注意!」と書かれたカンバンが目印の細〜〜い山道。分け入ったとすぐのところに、南北朝時代、中津川氏が軍功をあげた文書に記載される保津城址である。曲輪、切岸、堀切などなど、意外に山城パーツがしっかり残っている。保津に残る五苗と呼ばれる中世武家の系譜をひく家々が拠ったと想像されるが、確証はない。京都の山城などに取り上げられることにない山城だが、見ごたえのある山城だ。

0503_003.jpg

0503_004.jpg
雑木が適度に日陰を作ってくれる快適な山道が続く

保津城址からはシッカリとした山道が続く。途中、清和天皇にゆかりの史跡ともいう峰の堂、明智越えを越えていった明智軍が渇きを潤したという土用の霊泉などをウォッチしながら、山道をひたすら歩く。

0503_005.jpg 
0503_006.jpg
丹波と山城の境目に存在する水尾集落が見えた

亀岡を出て、まずは水尾集落に下り、そこで一休みしてのち愛宕山を目指して登り続け、京側からの愛宕山登山道入り口になる清滝へと下っていく。水尾は清和天皇陵、清和源氏の祖経基王ゆかりの寺、清和天皇をまつる清和天王社などがあり、柚子の郷としても知られたところで、ひなびた中に漂う優雅な気配がゆかしいところだ。

0503_007.jpg
清和天王社、おりから祭礼の当日であった

0503_008.jpg
水尾から愛宕神社へ

0503_009.jpg
ひたすら登っていくと愛宕山分岐に到着

0503_010.jpg

0503_011.jpg
落雷で避けた杉の木の根元に祀られた祠

水尾の郷から愛宕神社分岐まで、ひたすら大味な林道を登る。はたしてこの明智越えを明智光秀が本能寺に駒を歩ませたのか?実際に歩いてみてその可能性は低いと思わざるを得ないが、まったく否定もできない。確かなことは、本能寺の変を前にした光秀が愛宕神社に参拝し、連歌の会を開いたこと。そのおりには、この道を登って行ったことであろう(もっとも、当時に林道はなかったであろうが)

0503_012.jpg

IMG_0554.JPG

清滝に到着、改めて記念撮影

こうして、落伍者もなく明智越えの道を踏破。なんとも酔狂ともいえる歴史ウォークであった。この酔狂さが戦国倶楽部らしさともいえるが、どうだろう?
posted by うさくま at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国倶楽部

2017年04月30日

丹波木津城、整備作業に登る

先月、有志での下見登山をすまし、公民館の担当者の方が地元の方への根回しもすまされ、いよいよお毎年のおもゼミ山城編の恒例となった整備作業を行うことになった。

0430_IMG_0388.jpg

で、その第一回目の作業に着手、メンバーはガイドのTさんをリーダーに公民館のMさん、サポーターのDさん、Mさん、そしてわたしの五人。
登山道の邪魔な木々を伐採しながら山上の城址を目指し、一息入れてのち、まずは見所である南尾根の虎口と堀切の整備作業を行う。生い茂った雑木をひたすら伐採、五人掛でやると作業もはかどり土橋も明確になった堀切がスッキリ見やすくなった。

0430_IMG_0390.jpg

0430_IMG_0395.jpg
雑木が茂る堀切

0430_IMG_0402.jpg
一気に雑木を伐採

0430_IMG_0411.jpg
主郭、帯曲輪の状態

続いて曲輪群に見学ルートを開け、次の作業計画の下見をしたのち下山、きょうの作業を完了した。今後、月一回のペースで整備作業を行うことになるが、何となく心躍ることだ。
posted by うさくま at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2017年04月29日

歴史ウォーキングで篠山の町&農村歩き に出動!

今日は篠山市四文化施設企画による「歴史ウォーキングで篠山の町&農村歩き」に裏方&ミニガイドとして出役。
今朝の天気予報「一時、山沿いで雷雨」というのが気になりつつ、篠山口駅集合の参加者を拾い、全員集合地である篠山城三の丸駐車場へ。今日の参加者は定員いっぱいの20人、時間通り、九時半に歴史ウォーキングがスタート。

0429_01.jpg

今日の行程
root_img0429.jpg

ウォーキングの目的地は、伝統的建造物群保存(いわゆる伝建)地区に認定された福住集落、隠れ里として密かな人気の丸山集落、そして、国の登録有形文化財指定を受ける西尾家住宅と大山の里、それをつなぐバス移動の間およばずながら篠山の歴史ガイドをさせていただいた。

まず福住集落、地元のガイドさんによる案内で福住の街並みをそぞろ歩き、中世の山城・籾井城跡を見上げ、かつての篠山線の終着駅福住駅跡、そして、古い家並みが続く福住の町を歩き、先年、廃校となった福住小学校跡を訪ね歩いた。伝建地区としての整備は端緒に着いたばかりだが、これからどのように整備、発展していくのか楽しみなところだ。

0429_02.jpg
福住の歴史を拝聴
0429_03.jpg
0429_hukuzumi.jpg
福住の町をウォーキング

福住の町をウォーキング中にお日さんも出てきて、次の丸山集落のそぞろ歩きに期待が膨らんだ。途中、荒木城、車塚古墳、大売神社の紹介をしている間に丸山集落に到着。

0429_04.jpg
IMG_4605.JPG
丸山集落をウォーキング
0429_hana1.jpg
0429_hana2.jpg

丸山集落の再生と活性化に取り組まれ、いまの「集落丸山」運営の中心人物であるSさんのガイドで、山野草も咲きそろった懐かしい景色の集落内をウォーキング。ここで、雨女といわれる市担当のTさんと雨男という同僚のKくんが合流、すると好天だった空がにわかに曇ってきた!と言う間に雷雨となったから驚いた。

0429_maruyama.jpg
雨宿りがてら山野草の花を拝聴

そんなことで。かつて篠山の水源地のひつとでもあった山麓の池までの野草見ながらウォーキングは中止として、公民館で丸山集落における野草群のお話を聞かせていただいた。しかし、せっかくなのでバスの中からでも自然にふれようということで、集落と池を往来したことだった。しかし、雨女・雨男の威力おそるべしであった。

丸山集落でお弁当を使ったあと、中世、東寺の荘園として全国的に知られる大山庄に江戸時代より続く旧家・西尾家住宅へ。
西尾家は俳人西尾武陵の生家であり、かつて酒造も営んだ素封家で、その門前を旧山陰道が通じている。その街道をはさんで鎮座する神田神社は式内社、古くは平安時代の国司、足利将軍、篠山藩主らが進行を寄せた篠山きっての古い神社。山陰道をはさんで西尾家、神田神社が響きあった光景は、近代以前のままではないかと思わせる癒しの風景であった。

0429_05.jpg
神田神社
0429_06.jpg
歴史を感じさせる西尾家

西尾家は人数の制限により西尾家見学組と神田神社見学組の二班に分かれての見学となり、いわゆる時間調整の神田神社ガイドをやらせていただいた。
神田神社が古いことは先述の通りだが、見ものとしては丹波の寺社建築に腕を振るった中井権次一統の初代の彫り物が目の当たりにできることだ。昨年のウォーキングのときは生憎の雨だったが、今日はよい天気で彫り物をジックリと見ていただくことができた。

かくして、篠山の農村をめぐった歴史ウォーキングは、途中雨にたたられるということもあったが、無事、スケジュール通りに終えることができた。この企画は全五回を予定していて、次の出役は十二月初旬の「二つの城をめぐる」の裏方&ガイドである。
posted by うさくま at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山歩き

2017年04月24日

関ヶ原家紋豆皿をプロデュース

かつての篠山藩主・青山家がおこした藩窯である丹波青磁王地山焼、関ケ原合戦で活躍した西軍武将の家紋を描いた豆皿の試作品ができました (^_^)まずは、石田三成と島津義弘です。

kamonmamezara.jpg

着手するに際して、SNSで「関ヶ原の合戦」に参戦した武将の家紋といえば、誰の家紋を思い浮かべますか? 石田三成? 徳川家康? ・・・ それとも・・・??と尋ねてみた。
いただいた結果は、島津義弘、石田三成、宇喜多秀家が三強で、それに大谷吉継、井伊直政が続きました。敗れた西軍側諸将に人気が集まったカタチとなりました。選ばれた武将たちは、三成憎しで家康に加担した豊臣子飼いの武将たちや本心を隠して戦場に身を置いた武将たちと違い、自分の思うところをズバッと戦場であらわした面々、それが選ばれた要因だと思いました。人間、進退は潔くありたいですね。 ちなみに、徳川に味方した大名のうち選ばれたのは先の井伊直政、小早川あたり、小早川はともかくとして直政は奮戦中に被った鉄砲傷がもとでのちに死去しました。やはり、武将は戦う姿にこそ真骨頂があるっちゅうことでしょうか。徳川家康は人気なかったが、それは勝ち残ったもののしたたかさといおうか、しぶとさがやはり重いのでしょうか。戦は勝ってナンボなのですが、人気というのは不思議なところで左右されるのですね ( ´ ▽ ` )

追記
その後、宇喜多秀家の「児の字」、青山家にちなむ「無文銭」もリリース。まずは「関ヶ原合戦家紋豆皿」3点セット(箱付)として篠山城大書院などで販売。売れると嬉しいのだが…。

mame_POP01.jpg 自家製のPOP

posted by うさくま at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年04月22日

須知城オフ、京都丹波の中世城砦をめぐる

昨秋、文さんをコアとした山城登山グループの皆さんと企画した須知城跡と京都丹波の山城攻めが雨で流れてから半年、やっと仕切り直し登山を決行。
天気は快晴。集合は京都縦貫道丹波インターチェンジすぐにあるマーケスに10時、大阪、東北などから総勢10人での城攻めとなった。

須知城は中世の須知一帯領した国人・須知氏が築いた山城であり、丹波を平定した明智光秀が改修して石の城化、中でも主郭に残る高石垣は最大の見所となっている。

IMG_0047.JPG

0422_IMG_0075.jpg 丹波ICが眼下に

山上の城址からは眼下に丹波インターチェンジが見え、木々なども伐採されていて以前に登った時より眺望、城址の状態はよくなっている。石垣を有する主体部と堀切で区画された土の城とが並存しているのも特徴である。

0422_IMG_0059.jpg
須知城に攻め込む
0422_01.jpg
主郭部の石垣虎口
0422_02.jpg
主郭部後方を防御する高石垣
IMG_7199.JPG
石垣をバックに記念撮影
0422_IMG_4354.jpg
石の城と土の城を隔てる堀切
0422_IMG_0105.jpg
土の城の切岸

上野山城と上野館は、須知氏の依ったところといい、詰めの城と日常居館とのセットであろうか。
上野山城は上野館に比べると小振りな山城だがシッカリ掘られた土橋付の堀切は美女山に続く尾根を遮断している。山麓の館方面に続く?と思われる山道があり、両者の距離感を確認したかったが今日はお預けとした。

0422_IMG_0128.jpg
竪堀状の虎口
0422_03.jpg
曲輪と切岸
0422_04.jpg
土塁を伴った堀切

上野館は西方の曲輪群が破壊されているが、東方曲輪に残る土塁、大堀切は見応えがある。

0422_05.jpg
曲輪を区画する堀切(横堀とも)
0422_06.jpg
土塁と曲輪
0422_IMG_0184.jpg
当時の石垣か

 
マーケスで、思い思いに昼ごはんをとったあと、日吉の大戸塩貝城跡へ。この城は尾根先の鍛治屋敷と称される土塁囲みの方形居館と、山上の山城遺構とがある。昨年、下見をかねて訪れたとき、地元の人が鍛冶屋さんが住んでいたことから鍛治屋敷と呼ばれるようになったおっしゃっていたが、チョッと信じられない。

0422_07.jpg
鍛冶屋敷の土塁
0422_IMG_0217.jpg
尾根側より土塁を見る

城址へは、城主と伝えられる塩貝将監の墓として祀られる無縫塔より山道が通じている。チョッと迷った末にたどりついた鍛冶屋敷は、きれいに木々も伐採され見通しも利くように整備されていた。やはり、鍛冶屋の作業場というものではなく、山城遺構として意識されているのであろう。

0422_08.jpg
大戸塩貝城の切岸
0422_09.jpg
広い曲輪と高い切岸

大戸城は鍛冶屋敷から逆方向に尾根を登っていくとうすい堀切、そして城址西方を防御する大堀切と高さのある切岸があらわれる。切岸を登るとキレイに削平された曲輪と主郭の切岸、そして西側に帯曲輪を持った遺構の残存度は高い。主郭からの眺望は日吉駅方面が開けているばかりで、総じて見晴らしは望めなかった。大戸塩貝城は丹波守護代・内藤氏に属した勢力が拠った城というだけに、西方勢力への備えを意識していることが実感される縄張りだった。

0422_IMG_0260.jpg
花蘇芳越しに野化館跡を遠望

塩貝城のつぎは同じく内藤氏に属したという日吉の土豪・宇野氏の居館跡・野化館を攻略。居館跡は江戸時代初期まで宇野氏が暮らしていたといい、一帯は宇野姓の家がいまも多く、たまたま声をかけた男性も宇野さんであった。居館跡は大きな主郭を主体に後方尾根、西方尾根に曲輪が設けられている。そして、主郭の後方を大堀切と土塁、前方を大堀切で遮断、北方の集落側は高い自然の崖で防御した要害であった。獣防柵代りの網、生い茂る雑草で城址の探索は難儀したが、大堀切と土塁の見事さは居館遺構を十分に堪能できた。

0422_IMG_0274.jpg
尾根をガッツリ掘り切った大堀切
0422_10.jpg
土塁と堀切
0422_11.jpg
主郭土塁越しに集落を見る

さて、今日最後の訪問地となるのは亀田城。こちらは最近古文書が発見された小林氏が拠った城で、山城というよりは居館とよぶべきものだ。以前に訪れたときは植林が育ち、城址への谷も湿気がすごかったが、法面の木々は伐採され谷川もよく乾いている。

0422_IMG_4474.jpg
斜面の木々が見事に伐採された亀田城跡

南西尾根筋の小曲輪より取り付き主郭へ、広い主郭の山側は土塁が築かれ、その向うの尾根は二重堀切で防御されている。堀切は大規模なもので、先の野化館を彷彿とさせるものであった。

0422_12.jpg
曲輪と切岸を登る
0422_IMG_4487.jpg
主郭の山側は土塁で防御される
IMG_7200.JPG
堀切を歩く
0422_14.jpg
力の入った二重堀切

今回、訪ね歩いた京丹波から南丹の諸城砦は、それぞれ石垣、土塁、堀切など見るべきところが多かった。とくに、上野館、野化館、亀田城などは山城というよりは居館であり、構造も共通するところが少なくなった。うっすらと、城造りにも地域性があるのだろうと感じたことだった。
posted by うさくま at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2017年04月20日

高校生をガイドして三岳登山

今日は高校生の皆さんをガイドして、篠山の最高峰で修験の山・御嶽に登った。

0420_mitake01.jpg

今年で三回目の出役となるこのガイド、昨年は雨の中、大タワで登って行った。今年はまずまずの天気で、三岳会館より火打岩より尾根に登り、そこから大岳寺を経由して岩場を登り山頂へ。

0420_mitake02.jpg

0420_mitake03.jpg

0420_mitake04.jpg


そこから大タワをめざして危険な岩場を経て下山するというコース。ワイワイ、ガヤガヤ、楽しい山歩きができた(と思う)。

0420_mitake05.jpg

0420_mitake06.jpg

0420_mitake07.jpg

怪我人も落伍者もなく無事に下山。高校生、チョッとおっちょこちょいな子、やんちゃな子もいましたが、おおむね素直な良いお子たちでした (*´?`*)
posted by うさくま at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2017年04月16日

木内さんらと感状山城に登る

先月、上月城登山にご一緒した木内さんからのお誘いを受けて、感状山城登山会に混ざってきた。集合場所の相生羅漢の郷に到着すると山名会のKさんら見知った顔が数人、なんといおうか山城好きの世界の狭さを感じたことだった。

0416_IMG_9941.JPG

登山に先立って木内さんのミニ山城講座を拝聴、木内さ んのトークはみう名人の域に入っていると言っても過言ではないおもしろさ。もっとも、木内説に異論を挟む山城ファンも少なくないが、長年、自分の足と目で見た探ってこられた山城を独自のスタイルで描かれてきた木内さんの山城談は説得力があった。

0416_02.jpg
虎口の石段
0416_IMG_9952.jpg
虎口横の井戸跡

さて、数回目となる感状山城跡攻め、前城の虎口から城域に入り、木内さんの解説を聞きながら曲輪を巡り、主郭のある後の城へと攻め登った。前の城は広い曲輪が特徴的なのに対して、後の城は石垣が見ものである。
感状山城はその規模の大きさと近世城郭を彷彿させる縄張りを有した山城だが、その歴史はといえば不明な点が多い。また、主郭に残る礎石群から屋形建築が存在していたこと、腰曲輪に残る石垣で組まれた埋み門遺構など、大名クラスの持ち城であったと思われる。伝承では赤松氏が南北朝時代に築いたといい、その通りであろうが、今に残る遺構は備前の戦国大名宇喜多氏が播磨矢野庄を押える拠点城郭として改修したものと思いたい。

0416_03.jpg

IMG_4289.JPG
曲輪切岸
0416_04.jpg
矢野庄を眺望
0416_05.jpg
主郭部への石積
0416_08.jpg
見事な石積−埋門

主郭で昼ごはんをとったのち、木内さんの感状山城の発掘に係る解説を拝聴、主郭西方に構えられた土造りの帯曲輪群を下り、石積みを残す井戸曲輪を経て前の城曲輪群にユーターン。

0416_IMG_0042.jpg
本丸で解説を聴く
0416_10.jpg 
主郭部の礎石

そこから南尾根を下ったが、出曲輪であったともいう岩山部が宗教的機能を有していた(葬送の場であったかも)という解説は、チョッと受け入れ難かった。

0416_IMG_0045.jpg
土の城部分の切岸
IMG_4290.JPG
井戸曲輪に残る石組

ともあれ、感状山城の前と後の二つの曲輪群は、前の城は兵糧や武具などの兵站区、後の城は主殿を中心とした居住区として機能し、番城として部将が守っていたのだろう。その歴史は分かりずらいものだが、城址遺構は並ではない歴史を語り続けるに違いない。

0416_IMG_0078.jpg

0416_IMG_0081.jpg 空風輪がチョッと変

下山したのち羅漢の郷を散策、なかなか見ごたえのある石仏、五輪塔などが散在、それなりに楽しめた。このあと、二つめの山城・下土井城跡に登る予定だったが、相方が足の不調を訴えたこともあって、今日は感状山城だけで木内さんらと分けれて帰丹した。
posted by うさくま at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 播磨の山城

2017年04月01日

訳あり企画に乗っかって中道子山城に登る

中道子山城登山会に混ざって、登ってきました。素晴らしい城跡、それを史跡にも指定せず、災害用電波塔などといい加減なことを言って工事を強行するツクヅク阿呆な自治体やな??と思ったことです。ホントッ、もったいない !

0401_01.jpg

0401_02.jpg

かつて、相方と次女と登ったときと、基本的に景色は変わっていない。と思って登っていくと、城址にたどり着いた途端、工事用の資材を運び上げる軌道が我が物顔に城址を横切っている。しかも切岸を踏み越え、曲輪を横断しているではないか。山城ファンとしてはチョッと受け入れがたい光景ではある。

0401_03.jpg

0401_04.jpg

0401_05.jpg
切岸、土塁などは破壊を逃れている。

0401_06.jpg

城址を進んでいくと、主郭の後方に建設されるらしい商業用(市は公共用と説明しているそうだが)電波塔の基礎部分がシッカリと造営されている。聞けば、仮に建設がノーとなったとしても、決められた契約期間、電波塔施設は城址に存在し続けるらしい。国指定史跡も視野に入った遺跡でありながら、この体たらく、言いたくないが加古川市の行政は文化度が低すぎると言われても返す言葉はないだろう。

0401_07.jpg

尤も、工事は電波塔建設はされるものの城址遺構に留意、遠慮をしながら進められているという。完成した暁には景観が相当そこなわれるだろう。しかし、主要な部分が残るのであれば、それはそれで救われたともいえそうだ。

0401_08.jpg

0401_09.jpg
曲輪切岸もシッカリ残っている

0401_10.jpg

0401_11.jpg

0401_12.jpg
堀切もガッツリ残っている

アレヤコレヤ思いつつ、電波塔の建設が進む主郭部から離れれば、いまだ、当時の遺構がシッカリ残っている。残念なことになりつつある中道子山城だが、おおむね、中世山城としての存在は守られたといえそうだ。

山城は電波設備を置くには最高の場所、ではありますが、列島改造論が日本をメチャメチャにしたことをを経験した今の時代に、このようなことをやる。しかも、いい加減なことを言って市民をダマし企業にすり寄る行政、納税者をナメるな、見るべき方向を誤るな!と言ってもお役人さん方は市民の声を盥廻しするだけで知らんぷりなんでしょうね (*´-`) 。
posted by うさくま at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 播磨の山城

2017年03月26日

出石で「このすみありこ歴史講演会」を聴講

今日は豊岡出石で、山名氏城跡保存会の主催になる「このすみありこ歴史講演会」を聴講するため但馬に遠征。

0326_YAMANA01.jpg

昨日、延伸開通した北近畿豊岡自動車道の日高神鍋高原インターチェンジを利用して、豊岡市出石町・福住地区交流センターへ一直線。新しいインターチェンジの開通で、出石はさらに近くなりました。ただ、ほとんどトンネルですけど。

20170326_2.jpg

20170326_01.jpg


 
第八回を数える講演会のお題は『縄張入門「高田式 城の見方・楽しみ方」』、講師は城郭談話会の有力会員である高田徹氏。わたしも二度ばかり城址探索をご一緒する機会があり、その山城に対する熱さは目の当たりにさせていただいた。そんな高田氏の講演、独特の話口と実際に経験されてきた山城ウォッチへのあれこれを面白おかしく語られた。文字通り、山名城跡保存会にふさわしいものであった。

0326_SOBA.jpg

講演会が終わったのち、西尾会長、川見事務局長らとあいさつを交わしたのち、遅い昼食。もうおなじみとなった「そば庄」で皿そばに舌鼓を打ち、日高神鍋高原インターチェンジより丹波に帰っていった。
posted by うさくま at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 山名氏城跡保存会

2017年03月25日

おもしろゼミナール山城編・木津城下見登山

今年のおもしろゼミナールの十一月に予定されている木津城・市原城の見学会。城址のある今田町は、中世、国人・小野原氏が支配したことが史料などから知られる。ところが、小野原氏はまるで消えてしまったかのように消息を絶ち、いまに城址を残すという不思議な中世武家である。一時、小野原氏を追いかけてみたが全くの謎のままである。ただ、和田寺に位牌が祀られているとも聞くことから、全くの幻であったようでもない。何とも心もとないことである。
先日、下調べも兼ねてなん年ぶりかに登った木津城跡は雑木に覆われ、おもゼミの見学会にはいささか厳しい状態。ともあれ、ガイド役のT先輩を案内して登山道と城址の状況確認登山、サポータ予定のDさんも同行となった。

0325_IMG_9647.jpg

先日、付けておいたガムテープの目印が功を奏して、今日は迷うことなく城址にたどり着いた。T先輩が用意されていた縄張り図を見ながら、見どころをチェック、堀切、主郭部の切岸と帯曲輪、竪堀、西尾根曲輪の土塁など、いずこも雑木が茂っている。

0325_IMG_9654.jpg
堀切

0325_IMG_9657.jpg
主郭南西部の帯曲輪

0325_IMG_9658.jpg
西尾根先の土塁

ともあれ、これから回数を重ねて整備作業をすることにし、肩慣らし程度に若干の木々を伐採して今日のところは下山。
ついで、山麓に残る居館跡と思われる民家の後方に残る横堀、土塁を確認、ここも草木が生い茂っている。整備をすれば見応えがある遺構と思われるのだが、民家があることとてどうするかは今後の課題とした。

0325_IMG_9670.jpg
雑草が繁茂する横堀

木津城のあと、もう一つの市原城にも下調べ登山。こちらは山上に祀られるお稲荷さんへの参道があり、整備作業の必要はなさそうだ。

0325_IMG_9684.jpg

0325_IMG_9676.jpg

とはいえ、神社の建築に際して城址遺構は相当の改変を受けていることは間違いない。そんなことを思いながらお稲荷さんから降りて来て、ふと道端を見ると土筆が群生している。いよいよ、春本番を実感したことだった。
posted by うさくま at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2017年03月18日

早春の丹波金山城に同僚と登る

今日は快晴。かねて予定していた職場の仲間と丹波金山城に登山。
朝、TY子さんが家族ともども迎えに来てくれはり、柏原から参加するSY子さんとの待ち合わせ場所大山の追手神社に向かった。追手神社は山野草の撮影ポイントとしって知られたところで、境内を散策したところユキワリイチゲが、わずかに咲き残っていた。

さて、全員そろったところで、追入神社側の登り口より金山を目指して登山をスタート。まず、誰が付けたのか「パワーツリー」を撫でなでし、赤坂観音で行程の無事を祈って、尾根筋に通じる山道を登っていった。

0318_IMG_7606.jpg

尾根筋からは緩やかな登りとなり、途中、地元の方の手入れになるビュースポットより大山の里から遠く八上城の眺望を楽しむ。山腹のお寺跡で一服し、金山城跡へと踏み込んだ。思えば、金山城跡は、もう何回めの登山だろう?

0318_07.jpg

今日のメンバーは山歩きが目的だが、山城である金山跡のガイドをやらせていただきながら、名勝・鬼の架橋に到着。ここで、記念撮影をし、岩山に登ったりして、いよいよ山頂に残る金山城跡に攻め込んだ。おりから天気がよいこともあって、北に黒井城跡、東に夏栗山・黒頭峰・三尾山、その向うに御岳が見える。南には篠山盆地と八上城が一望であった。

0318_IMG_7630.jpg

0318_04.jpg

0318_03.jpg

眺望を楽しんだのち、ワイワイがやがやと弁当を使う。一休みしたのち、せっかくなので城址を案内。石垣跡をじかに見い、虎口や切岸といった曲輪のことなどを話したが、面白かったかどうかは分からない。

0318_01.jpg

0318_05.jpg

下りは大乗寺コースを休みやすみしながらたどり、全員、怪我することもなく無事下山できた。いつも、山城登りはせわしなく展開するが、こういう緩〜い山城登山(山登りだが)も悪くない。

posted by うさくま at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き