2017年04月22日

須知城オフ、京都丹波の中世城砦をめぐる

昨秋、文さんをコアとした山城登山グループの皆さんと企画した須知城跡と京都丹波の山城攻めが雨で流れてから半年、やっと仕切り直し登山を決行。
天気は快晴。集合は京都縦貫道丹波インターチェンジすぐにあるマーケスに10時、大阪、東北などから総勢10人での城攻めとなった。

須知城は中世の須知一帯領した国人・須知氏が築いた山城であり、丹波を平定した明智光秀が改修して石の城化、中でも主郭に残る高石垣は最大の見所となっている。

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0422_IMG_0075.jpg 丹波ICが眼下に

山上の城址からは眼下に丹波インターチェンジが見え、木々なども伐採されていて以前に登った時より眺望、城址の状態はよくなっている。石垣を有する主体部と堀切で区画された土の城とが並存しているのも特徴である。

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須知城に攻め込む
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主郭部の石垣虎口
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主郭部後方を防御する高石垣
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石垣をバックに記念撮影
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石の城と土の城を隔てる堀切
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土の城の切岸

上野山城と上野館は、須知氏の依ったところといい、詰めの城と日常居館とのセットであろうか。
上野山城は上野館に比べると小振りな山城だがシッカリ掘られた土橋付の堀切は美女山に続く尾根を遮断している。山麓の館方面に続く?と思われる山道があり、両者の距離感を確認したかったが今日はお預けとした。

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竪堀状の虎口
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曲輪と切岸
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土塁を伴った堀切

上野館は西方の曲輪群が破壊されているが、東方曲輪に残る土塁、大堀切は見応えがある。

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曲輪を区画する堀切(横堀とも)
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土塁と曲輪
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当時の石垣か

 
マーケスで、思い思いに昼ごはんをとったあと、日吉の大戸塩貝城跡へ。この城は尾根先の鍛治屋敷と称される土塁囲みの方形居館と、山上の山城遺構とがある。昨年、下見をかねて訪れたとき、地元の人が鍛冶屋さんが住んでいたことから鍛治屋敷と呼ばれるようになったおっしゃっていたが、チョッと信じられない。

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鍛冶屋敷の土塁
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尾根側より土塁を見る

城址へは、城主と伝えられる塩貝将監の墓として祀られる無縫塔より山道が通じている。チョッと迷った末にたどりついた鍛冶屋敷は、きれいに木々も伐採され見通しも利くように整備されていた。やはり、鍛冶屋の作業場というものではなく、山城遺構として意識されているのであろう。

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大戸塩貝城の切岸
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広い曲輪と高い切岸

大戸城は鍛冶屋敷から逆方向に尾根を登っていくとうすい堀切、そして城址西方を防御する大堀切と高さのある切岸があらわれる。切岸を登るとキレイに削平された曲輪と主郭の切岸、そして西側に帯曲輪を持った遺構の残存度は高い。主郭からの眺望は日吉駅方面が開けているばかりで、総じて見晴らしは望めなかった。大戸塩貝城は丹波守護代・内藤氏に属した勢力が拠った城というだけに、西方勢力への備えを意識していることが実感される縄張りだった。

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花蘇芳越しに野化館跡を遠望

塩貝城のつぎは同じく内藤氏に属したという日吉の土豪・宇野氏の居館跡・野化館を攻略。居館跡は江戸時代初期まで宇野氏が暮らしていたといい、一帯は宇野姓の家がいまも多く、たまたま声をかけた男性も宇野さんであった。居館跡は大きな主郭を主体に後方尾根、西方尾根に曲輪が設けられている。そして、主郭の後方を大堀切と土塁、前方を大堀切で遮断、北方の集落側は高い自然の崖で防御した要害であった。獣防柵代りの網、生い茂る雑草で城址の探索は難儀したが、大堀切と土塁の見事さは居館遺構を十分に堪能できた。

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尾根をガッツリ掘り切った大堀切
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土塁と堀切
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主郭土塁越しに集落を見る

さて、今日最後の訪問地となるのは亀田城。こちらは最近古文書が発見された小林氏が拠った城で、山城というよりは居館とよぶべきものだ。以前に訪れたときは植林が育ち、城址への谷も湿気がすごかったが、法面の木々は伐採され谷川もよく乾いている。

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斜面の木々が見事に伐採された亀田城跡

南西尾根筋の小曲輪より取り付き主郭へ、広い主郭の山側は土塁が築かれ、その向うの尾根は二重堀切で防御されている。堀切は大規模なもので、先の野化館を彷彿とさせるものであった。

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曲輪と切岸を登る
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主郭の山側は土塁で防御される
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堀切を歩く
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力の入った二重堀切

今回、訪ね歩いた京丹波から南丹の諸城砦は、それぞれ石垣、土塁、堀切など見るべきところが多かった。とくに、上野館、野化館、亀田城などは山城というよりは居館であり、構造も共通するところが少なくなった。うっすらと、城造りにも地域性があるのだろうと感じたことだった。
posted by うさくま at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2017年01月13日

山城一揆、ゆかりの山城をめぐる

今月22日に予定されている「ささやま市民センターまつり」の振替休日を取って、山城一揆にゆかりの山城を訪ねてきた。篠山から南山城まで京都縦貫自動車道から大山崎ジャンクションを経て京滋バイパスから一般道をドライブすること約二時間、丹波と南山城は近くなった。

0113_IMG_8985.jpg 井出城跡を遠望

まず、井手城攻めからスタート。登り口となる「井手町高齢者福祉センター・いでの里」横の山道を登っていくと、「弥勒石仏」と書かれたカンバンを発見、ほどよい空き地に停車して磨崖仏をウォッチ。磨崖仏は井手の地に営まれた、橘諸兄の館建立に際し鬼門除けとして刻まれたものという。しかし、実際は鎌倉〜室町時代の戦乱に苦しんだ農民たちが心の平安を求めて刻んだものであろうとのことだ。いったん林道に戻り、竹やぶが生い茂るなかをテクテクと城址を目指す。

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手持ちの地図を確認しながら、ここらあたりかな?と目星をつけた斜面を登っていくとドンピシャ井手城跡の竪堀が現れた。竪堀に接する曲輪を越えると堀切、そこを登れば主郭である。城址は主郭を主体に西と南に腰曲輪を構え、さらに西方尾根に数段の小曲輪が築かれている小さなものだ。雑木に邪魔されて眺望は利かないが、西方の岩清水八幡宮領石垣庄を見下ろす立地を占めている。

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井手城のすぐ近くに橘諸兄相楽別業と呼ばれた館跡があり、その別業にちなんで諸兄は「井手左大臣」とも呼ばれた。整備された館跡には、立派な石碑、供養塔が建立されている。諸兄は別業に山吹を植えたといわれ、橘氏の流れを汲む武家が「橘」紋を好んで用いるのはそれに由来したもので、供養塔にも「橘」紋が刻まれていた。

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二つ目は稲八妻(稲屋妻)城。戦乱に苦しむ応仁・文明の乱において国人を中心に自治支配を行った山城一揆。かねてより一揆のことは心に掛かっていて、狛氏、木津氏、椿井氏ら一揆を結んだ国人たちの歴史・家紋、寺院・館跡・城砦などの史跡を折々に訪ね歩いた。山城国人一揆の歴史のなかにおける稲八妻城は、一揆方が最後に拠って敗北、一揆解体の地となったところだ。ここは外せないと思っていた史跡である。
その所在地については諸説あるようだが、今回、郷土史家・奥田裕之氏の調査された資料(30年以上前のもので簡単な縄張り図がうれしい)を拠り所として、南稲八妻にあるとされる城跡を訪ねた。

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城址を遠望

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曲輪と切岸

inaya_MAP.jpg赤線が京奈和道

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土塁

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シッカリ残る切岸と曲輪

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切岸と横堀?


目指す城跡は京奈和道で分断され、藪化が進んでいる。藪をかき分け城址であろう山に踏み込むと、なるほど山城に見える。逸る心で登るとシッカリ削平された曲輪に土塁、切岸など、間違いない山城であった。さらに城址を歩くと、曲輪群が連なり、堀切や塹壕状の横堀なども築かれている。

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曲輪が連なる

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竹に覆われた大堀切

縄張り図と見比べると、城そのもの規模は小さくなく、京奈和道で分断された西側にあたるようで、それだけでも相当な広さである。一揆勢が守護体制に最後の戦いを挑んだ場所にふさわしい山城であった。もっとも、いまに残る城跡は、一揆時代のものではなく後世の手が入っているように見えた。可能性としては南山城を制圧した松永久秀あたりが鹿背山城の出城として改修したと思われたが、当たらずとも遠からず…か?

三つ目は一揆の中心的な国人・狛氏の詰めの城ともいわれる東山城(高ノ林城)。上狛駅側にある「ぬくもりの里」そばの登り口に車を停め、軽トラや軽の4WDなら楽に入れそうな山道に踏み込んだ。


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竹林の山道

印象としては登り口からすぐのところにありそうな感じだったので、「あそこか?ここか?」と迷走を繰り返すも城址と断定できる遺構は現れない。 『まだか!まだか?』 と不安になる心を励ましながら明確な林道を40分以上歩いて、あきらめかけた頃に城跡への進入路の目印を発見。

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城址の土塁

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主郭切岸があらわれた

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ヤットの思いでたどり着いた東山城跡は、最高部の主郭をコアとして西方尾根を土塁で防護し、北東の桜峠に続く尾根は堀切で遮断、南に伸びる二つの尾根に曲輪を設けている。曲輪の削平も丁寧で切岸も高い、曲輪を堀切で区画し、しっかりとした井戸も残っている。規模の大きさかから推して、狛氏単独の詰め城というより一揆衆が共同で営み維持したものであろうと思われた。


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堀切
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尾根側から見た堀切
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曲輪
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連なる曲輪
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竹藪に埋もれた井戸
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腰曲輪と主郭切岸
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竹で埋もれた堀切

東山城から下りてくると、駐車したすぐ近くの山側に「東山城こちら」のカンバンを発見。とはいえ、そのカンバンを頼りに行ってもアッサリと城址にたどりつけたかどうか?、うろうろと山道を歩いたことも城址探索には無駄でなかったと思いたい。

三つの山城をめぐった今日の遠征、思いがけぬ収穫の多さに大満足であった。来た道を帰っていくと、丹波に入ったあたりから雪がチラホラ。本格的な冬は近い。

posted by うさくま at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2011年10月16日

元亀争乱の道、白鳥越えを歩く

京と近江の境をなす京都東山の山並み、そこには、逢坂山越え・山中越え(志賀越え)・途中越・白鳥越えなどの古道が残っている。それらの道々は、古代から中世、戦国時代における数多の戦乱のなかで兵が往来した。


■ 京と近江を結ぶ道 (新修大津市史より)

白鳥_峠マップ

戦国時代、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は天下布武に邁進したが、義昭との不和から諸国に割拠する群雄との戦いを繰り返すようになった。その発端となったのは元亀元年(1570)、越前朝倉攻めの陣をおこした信長に対して、浅井長政が信長陣営から離脱、その年の六月、信長は姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍を撃破したものの滅亡にまでは追いこめなかった。その結果、朝倉・浅井氏らは一向宗、三好三人集、甲斐武田氏ら反信長勢力と結び、巻き返しを図った。
元亀元年九月中ごろ、浅井・朝倉連合軍は比叡山の支援もえて、近江湖西に進出、大津宇佐山城を攻め守将森三左衛門を打ち取り、大坂本願寺攻めに苦戦する信長を脅かした。

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posted by うさくま at 17:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 京都の山城

2009年04月11日

静原、二つの城址に登る

先月の二十二日、戦国時代の岩倉に勢力を有した山本氏の居城址を訪ねてきた。山本氏は岩倉の小倉山城を本城として、さらに、箕浦ヶ岳の北方にある静原にも城を築いていた。それが、静原城であり、伝によれば山本対馬守(資幹)が、明応年間(1492〜1502)に築いたものという。しかし、確かな記録によれば、弘治三年(1557)、三好長慶が山城五十四郷に夫役を課して築城したものであるようだ。三月の岩倉散策は静原城を攻略するための前準備であり、今回、ウサを誘って静原城に登ってきた。城址は城谷山山頂部に築かれた城谷山城と、城谷山から南東に延びる尾根筋の先端部に築かれた城山の二つがある。いずれも、京から近江を経て敦賀に通じる敦賀街道を眼下に見下ろし、西方の薬王峠越えで鞍馬街道に通じる要衝の地を占めている。

静原-遠望
静原口から城山城址(右の尾根先)、城谷山城址(左手の高み)を遠望

城址へは出町柳九時二十分発の京都バスに乗り約五十分、静原学校前で下車。バス停の北方すぐに見える山上に城山城址、その先の山上に城谷山城址がある。天気は快晴、ウサと城址を目指す。まずは、どこから山に分け入るか、あらかじめ想定した登り口を探す。おりから農作業中の方から声を掛けられ、しばし雑談。子供のころ山にのぼって石を転がして遊んだというが、その石って石垣ではなかろうか。歴史のことなど忖度しない子供にしてみれば、石垣があり、段々のついた地形は格好の遊び場となったのだろうが、城址ファンとしては複雑な心持だ。とはいえ、昔の悪がきたるその方に登り道を教えていただき、山道に分け入ったが、ほとんど獣道状態で汗をかいての直登であった。
なんとか迷うこともなく、城山城址の南曲輪にたどり着く。意外な広さで北側の切岸も高い。北方の主郭へと続く段曲輪を上ると、見事な土塁と堀切を思わせる道が現れ、さらに曲輪群が階段状に連なっている。主郭下の曲輪は南の曲輪に劣らない広さで、その南西にも曲輪が設けられている。それぞれ切岸が見事に残り、なかなか見応え十分だ。主郭は三段で構成され、一段目には虎口を思わせる石垣遺構、溜め池跡と思われる窪地に石垣、さらに二段目東南の切岸には見事な石垣が残っている。改めて、城址を振り返るとそこかしこに崩落した石垣が散乱している。おそらく、往時は石垣の見事な構えが、敦賀街道を往来する人々を威圧したものと想像される。主郭三段目の曲輪北端には三メートルを越える土塁が築かれ、その北方直下には見事な土橋を持った大堀切が穿たれている。その北方尾根には竪堀が設けられており、決して大きな城ではないが、石垣、土塁、堀切、竪堀など、戦国山城としては先進的な技術をもって造られていることが実感された。

静原-城山城址 静原-切岸と曲輪 静原-主郭へ
城址は山上に眠る  見事な切岸と腰曲輪  主郭に続く道

静原−石垣 静原-土塁 静原-大堀切
要所に石垣が残る  北曲輪北端の土塁  北曲輪直下の大堀切 

城山城址を堪能したのち、大堀切の土橋を渡り北尾根に取り付き城谷山城址を目指す。北尾根に設けられた竪堀を見つつ、さらに北方へ登り続けると、倒木が散乱する尾根道の傍らにひっそりと咲く藪椿が目にやさしい。三等三角点を過ぎたあたりに出曲輪と思われる地形があらわれ、さらに登ると城谷山城の曲輪に到達だ。
城址は主郭を中心として北・西・南の三方の尾根に曲輪が築かれ、先の城山城址と比べると縄張りは随分と趣が異なっている。主郭東南にある曲輪を経て西南尾根に設けられた曲輪へ取り付くと、窪地に石垣が残った区画があり、どうやら虎口遺構であるようだ。そこから主郭西南部をまいて、北西尾根に設けられた曲輪を目指す。それぞれの曲輪はなかなかの広さで、切岸も見事な高さで切られている。細長く伸びた北西曲輪の先端には土塁が築かれ、その先の尾根とは堀切で防御されている。主郭北東の帯曲を経て、南西部より主郭に取り付く。見ると、虎口のあたりには石段跡とおぼしき石が散乱、切岸には城山ほどではないが石垣が積まれていたことが確認できた。石垣が多用された城山城址と比べれば、いささか旧式の山城であることは否めないが、曲輪・切岸など城址そのものの保存状態は悪くない。

静原谷-石垣 静原谷-主郭と腰曲輪 静原谷-土塁
曲輪に散乱する石垣  主郭と東腰曲輪  北端曲輪下の堀切

さて、岩倉山本氏は三好氏に従って洛北で一定の勢力を保ったが、永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて織田信長が上洛してくると三好氏を離れて信長・義昭に通じたようだ。そして、元亀元年(1570)、信長の浅井・朝倉攻めに際して、山本対馬守(実尚)は田中の渡辺氏、上高野の佐竹氏らとともに信長勢に加わった。翌年の比叡山攻めにも山本尚治(修理大夫)が一族とともに参陣している。ところが、義昭と信長の間が険悪になってくると、一乗寺の渡辺氏、山中の磯谷氏らとともに義昭に味方した。
元亀四年(1573=天正元年)、義昭が槙島城によって信長に反旗を翻すと、山本対馬守は岩倉を離れて静原城へ立て籠もった。信長は明智光秀に命じて静原城を攻撃させたが、対馬守はよく城を堅守、三ヶ月に渡って明智軍に抗戦を続けた。しかし、八月には「京都静原山に楯籠候御敵山本対馬、明智十兵衛調略を以て生害させ、頸を北伊勢東別所まで持来り進上」と『信長公記』に記されように、静原城は落ち山本対馬守は殺害された。一説には、山本尚治は義昭に味方して渡辺氏、磯谷氏らとともに一乗寺山城に籠った。あるいは、渡辺宮内少輔とともに静原城に籠ったが、明智光秀に諭されて降伏、以後、光秀に従ったともいう。いずれにしろ、山本氏は光秀に敗れて静原を失ったことは疑いないところだ。
城山城は山上の城谷山を攻撃する際に、光秀が付城として築いたという。たしかに北曲輪北端の土塁、その直下に穿たれた大堀切からみて、山上の城谷山からの攻撃に備えているように見える。しかし、主郭の位置と南尾根に連続する曲輪群、土塁などをみると、眼下の街道を押さえる縄張りとなっている。おそらく、城谷山の出曲輪として築かれたものを、交戦中に攻略した光秀が付城とし、落城後は山上の本城を廃して街道を見下ろす位置にある城山を修築したものであろうと思うのだが、どうだろうか。
城址を探索したあとは城谷山北方に続く尾根を経て、天ヶ岳から薬王峠に出て鞍馬までと足を伸ばそうとした。ところが、途中で道を見失い計画を変更、尾根に薄い道を見つけながら下りることにした。最期は道なき尾根から谷筋に下り、どうにか静原に降り立つことができたが、忘れられつつある山城探索は毎度のことながら一筋縄ではいかないものだ。とはいえ、南尾根に残る城山城址、その山上に位置する城谷山城の二つに登れば、時代が微妙に異なった山城遺構を堪能できること請け合いだ。 by kuma

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2009年03月30日

峰ヶ堂城址を探索する

峰ヶ堂城址は、阪急京都線の桂駅の西方に見える低丘陵上にあった山城だ。バブル真っ只中の昭和58年(1983)から建設が進められた桂坂ニュータウンによって、かつての城域のうち南曲輪群は完全に失われてしまった。昨今の土木技術による宅地開発は、山城などザクザクッと壊滅させてしまうパワーを持っている。これまでも多くの遺跡が宅地開発によって消滅していったが、まことに愚かな行為であり残念なことだ。

峰堂-老坂遠望
城址南端曲輪から老ノ坂方面を見る。眼下には桂坂ニュータウンが広がる。

さて、峰ヶ堂城城址は丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあり、南方には沓掛から老ノ坂を越えて丹波に通じる山陰道(現国道九号線)が走っていた。文字通り、丹波から京への入り口を扼する要衝の地にあった山城だ。そもそも、城址一帯には法華山寺という山岳寺院があり、通称「峰ヶ堂」とよばれていた。そして、盛時には『東の清水寺、西の法華山寺』といわれたほどの大伽藍を誇り、室町幕府の祈願寺にもなり、将軍をはじめ公家、皇族などが参拝したことが記録に残っている。法華山寺は戦乱のなかで衰微していき、十六世紀のはじめ細川晴元の家臣木沢長政が寺院跡に城を構え、西岡一帯の支配拠点として機能した。
城址へは、阪急上桂駅より丹波方面へと続く唐櫃越の道を辿っていく。住宅街が途切れ竹林を過ぎると、中世以来の墓地である桜谷墓地が眼前に広がる。墓石に刻まれた家紋を見ながら唐櫃越の道を峰ヶ堂へ、墓地上方に古い墓地が集められた一角があり、見ると、松室家、東家など松尾大社神職の家のものであった。そこから道は山中に入っていくが、振り返れば京都市街が一望できる素晴らしい眺めである。中世以来の松室家、東家の墓、両家の家紋、加えて素晴らしい展望、さすがに中世以来の墓地であるな〜、と妙に感動してしまった。

峰堂-市街遠望 峰堂-墓地 峰堂-石仏
墓地より京都市街を見る  松尾大社社家の墓地  山中に散在する石仏

山中の道に入ると、何やら曲輪のような地形があらわれ、登ってみると石仏がそこかしこに散乱している。すでに、かつての法華山寺の寺域であるようだ。唐櫃越の道はよく踏み固められ、急な登りもなく、一部、土橋状の尾根道があるが快調そのものだ。やがて、左手に広い削平地があらわれ、迷わず入っていくと見事な土塁、堀切、曲輪群が目に入る。縄張り図を見ると法華山寺の主要部で、城址においては北方の曲輪群にあたるところであった。曲輪は上段がもっとも広く、東方に向かって二段の曲輪が連なっている。削平もしっかりとしたもので、切岸も高い、見ると縁には石垣状の遺構が見える。もっとも東方の曲輪には経塚と思われる石組みがあり、城址が山岳寺院の跡地にあることが実感される。

峰堂-山道 峰堂-北土塁 峰堂-東石垣
よく踏み締められた唐櫃越の道  城址北曲輪の高土塁  城址東曲輪群の石垣跡?

北曲輪群の東端から東海自然歩道へと下り、自然道を沓掛方面へとたどる。自然道の標識がある右手に広がる谷が、かつて法華山寺の伽藍があったところで、一部には崩落した石垣が残されている。標識を過ぎたあたり、谷を隔てた東方尾根に東曲輪群が残っている。尾根に取り付くと曲輪があらわれ、土塁や高櫓跡を思わせる遺構が目をひく。さらに先の尾根に続く曲輪には石垣跡を思わせる崩落跡があり、ここもかつての寺院跡を城址として再構築したようだ。おそらく北曲輪と呼応しながら、東海自然歩道の通る谷を登ってきた敵兵を迎撃せんとしたものであろう。ついで、法華山寺主要部の谷を取り巻く南方尾根へと取り付き、主郭を目指す。こちらも結構な広さと高い切岸で区画された曲輪が連続し、上部の広い削平地には寺院跡を思わせる遺構、石仏などが残っている。そこから主郭を目指して、藪を漕ぎながら急尾根を登っていく。やがて尾根を穿つ堀切があらわれ、その向うに見える小さなピークが主郭だ。主郭の周囲は腰曲輪が設けられ、南方に続く細長い曲輪を歩いていくと、予想していたものの驚くべき光景が目に飛び込んできた。びっしりと立ち並んだ桂坂ニュウタウンの住宅群で、はるか西方には老ノ坂の山並み、南方には大原野一帯が遠望できる。開発される前は沓掛方向に向かってひな壇式に曲輪が構えられていたが、いまは住宅の屋根が連なるばかりで往時を想像させる名残はまったくない。
細川晴元に仕え峰ヶ堂城を西岡一帯の支配拠点長政は、晴元から自立する動きをみせるなど野心のおもむくままに行動する下剋上の人物であった。のちに畿内随一の権力者へとなりあがったが、最後は河内において戦死してしまった。長政が滅亡したのちは、峰ヶ堂城が記録にあらわれることはなく、法華山寺の遺構とともに風化していったのである。

峰堂-南曲輪 峰堂-南寺院跡 峰堂-堀切
城址南曲輪  南曲輪群寺院跡を思わせる地形  主郭と北尾根を穿つ堀切

峰ヶ堂城址(法華山寺跡)一帯、唐櫃越の道は戦乱のたびに、否応なくその舞台とならざるを得ないところであった。南北朝時代には足利尊氏に与した西岡衆が法華山寺に拠り、明徳の乱では山名氏が唐櫃越を越えて京に攻め込み、敗走した。そして、木沢長政の野望を育み、本能寺の変においては明智軍が本能寺へ攻め寄せた。できれば、唐櫃越の道を丹波方面まで踏破したかったのだが、城址の意外な広さに時間をとられ、丹波越はつぎの機会にゆずって桂駅へと下山した。 by kuma
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2009年03月16日

現代に続く戦国領主の家系、一乗寺山城

先日、ウサと北白川から石鳥居、そして修学院まで山歩きをしたとき、途中で一乗寺山城址に立ち寄った。その後、一乗寺山城址のことを調べると、城主は渡辺氏で、足利将軍に仕えて信長に抵抗したことを知った。さらに、城主渡辺氏の後裔にあたる渡辺家が、近世、一乗寺村の庄屋として続きいまも堀の内という地名のところに豪壮な屋敷を構えておられることも知った。せっかちなクマとしては花粉症のウサを置いて、早速、一乗寺村の渡辺家見学と一乗寺山城址再探索に出かけてきた。

一乗寺-渡辺屋敷
重厚な渡辺家の門、門前には「宮内少輔城址」の碑が立ち、周囲には土塁、堀跡が残っている

戦国領主渡辺氏は、現渡辺屋敷を日常の生活の場とし、いざというとき一乗寺山上に築いた城址へ籠ったものであろう。屋敷から東南方向には将軍義輝が拠った中尾城址がみえ、後方には一乗寺山、比叡山が見えている。前回、一乗寺山城址へは寄り道をしたというものだったが、今回は一乗寺山城址探索がメーンであり、気合を入れて曼殊院横の山道から往時の大手道という古道に分け入って城址を目指した。

一乗寺-遠望
渡辺家の土塁と濠、右手後方に見える山上に一乗寺山城址がある
 
旧大手道は落ち葉が降り積もりフカフカで歩きにくいが、道そのものはしっかりしている。とはいえ、一部崩壊しているところ、這うようにして登るところもあり油断はできない。葛篭折れにつづく道は、ときに竪堀状、切岸、堀切かと思われる場所があり、攻め上る敵に対する防御と攻撃を意識して作道したことを感じさせる。

一乗寺-曼殊院 space_w 一乗寺-山道 space_w 一乗寺-大手道1
曼殊院山門前を右へ  曼殊院横の山道  旧大手道

一乗寺-大手道2 space_w 一乗寺-城址 space_w 一乗寺-南土塁
城門跡を思わせる大岩  城址を貫く大手道  南曲輪の土塁

尾根上に残る城址にたどり着いたときは、へろへろの汗だく状態であった。いつもながら、戦国時代を生きた武士たちの壮健さに驚かされる。城址は大手道によって南北に隔てられ、北を主郭に、南に出曲輪、主郭と大手道を隔てて構えられた東曲輪群で構成される。城域は思った以上に広く、連続する曲輪、土塁などの保存状態も良好だ。大手道を登ってきた敵は、南曲輪、主曲輪、そして東曲輪の互いに連携しあう三つの曲輪群によって迎撃されるつくりになっている。比叡山へと続く北尾根とは高い切岸と堀切で隔てられ、堀切の向うには番所があったという櫛状の曲輪が連なり、まずは万全の構えである。さらに、その先の三等三角点がある頂上から、石鳥居までの尾も城域であったというが、確認をすることはできなかった。

一乗寺-南切岸 space_w 一乗寺-南帯曲輪 space_w 一乗寺-北土塁
南曲輪跡の切岸  意外に広い帯曲輪  北曲輪の土塁

一乗寺-北土塁2 space_w 一乗寺-北堀切 space_w 一乗寺-三角点
北曲輪北側の土塁  北端尾根を穿つ堀切  頂上の三等三角点

一乗寺山城址は、在地土豪の渡辺氏の詰めの城とするには規模が大き過ぎる感もある。が、将軍と奉公衆という関係などから推して、将軍を迎え入れることも想定して構えた城ともいえそうだ。元亀・天正のころの当主渡辺宮内少輔昌は、足利義昭に属して織田信長に抵抗したが、義昭を一乗寺山城に迎え入れようとしたという。しかし、義昭は槙島城に籠り、敗れ、足利幕府は潰え去ったのである。戦国期、宮内少輔昌は北山城衆として、静原の山本氏、中山の磯谷氏ら洛北の土豪たちと協調して行動している。宮内少輔昌らは、将軍に奉公衆として仕え、最期まで忠実な存在であった。一乗寺山城址の意外な規模の大きさは、渡辺氏と将軍足利氏との関係をうかがわせる傍証ともいえそうだ。このように、書物からは読みとることのできない戦国史を肌で感じるのも、山城を歩く楽しみのひとつである。その楽しさに嵌ると、まず抜けることはできない・・・だろうな。 by kuma

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2009年03月06日

足利義輝と三好長慶が対峙した中尾城

銀閣寺の背後の山腹に五山送り火の一つ大文字が見える。大文字焼きの火床がある大文字山北西の尾根上に、天文十八年( 1549)、ときの将軍足利義晴によって築かれた中尾城址が残っている。時代は管領細川氏の重臣であった三好長慶の勃興時で、義晴は管領細川晴元と結んで長慶と対立していた。天文十八年、摂津江口で長慶と戦って敗れた晴元は、義晴を奉じて近江へ撤退した。再挙を期した義晴は、一味の晴元・六角定頼、幕府奉公衆らの協力をえて、中尾山上に築城を計画、翌年の春に城は完成した。しかし、義晴は新城に入ることなく、近江朽木で病没してしまった。中尾城には新将軍となった義輝が入り、細川晴元、六角定頼らも北白川城などに入って三好軍と対峙した。長慶は大軍を催して義輝らを攻撃、退路を脅かされた義輝は中尾城を自焼すると近江に敗走した。かくして、中尾城は三好軍によって徹底的に破壊され、わずか一年余りで廃城となった。

中尾-如意道 space_w 中尾-途中道 space_w 中尾-分れ道
如意ヶ嶽城から火床へ下る  前方に比叡山が見える  中尾城址への分かれ道

中尾城址へは、大文字山山上の如意ヶ嶽城址から大文字焼きの火床へ通じる途中の鞍部より中尾山に分岐する山道をたどっていった。大文字山を通る如意越えの尾根道には劣るものの、しっかりとした山道である。木々越しより北方に聳える比叡山を見ながらドンドン下っていくと、出曲輪のような場所に出るが、城址はまだまだ先の尾根である。さらに山道を下っていくと中尾城址への分かれ道にたどり着くが、気づかずに通り過ぎてしまった。ウサの「間違っているのとちゃう?」の指摘をえて地図をにらむ、どうやら間違いだ。もう一度、尾根に戻り分かれ道を発見、やれやれとそこを下っていくと中尾城址の最南端の竪堀と曲輪が現われた。『万松院殿穴太記』に「尾さきをば三重に堀切て、二重に壁を付て其間に石を入たり。」と記された遺構らしい。そこから北方の尾根へ、曲輪・土塁、堀切、帯曲輪などの城址縄張りが展開している。城址は雑木に覆われ展望も悪く決して広くもないが、曲輪、土塁、竪堀などの残存状態は悪くない。

中尾-南堀切 space_w 中尾-土塁 space_w 中尾-細曲輪
最南端の堀切と曲輪  土塁跡  北端曲輪へ続く尾根道

本曲輪群を探索したあと、主郭西側の土塁から西方尾根に築かれた出曲輪群へとつながる急坂を下る。帯曲輪、武者隠しのよう窪地を越え、よく踏み固められた堀切道のような山道を下りつづける。やがて、風化によって切岸も甘くなっているが、西方出曲輪群へとたどりつく。よく見ると曲輪・竪堀などが確認され、北側の曲輪には見事な土塁も残っている。出曲輪から銀閣寺を目指して急尾根を下っていくと、曲輪、竪堀、虎口などを思わせる地形が現われる。やがて、朝鮮学校を右手に見ながら、石垣が散在する広い削平地に降り立つ。その向うは、すでに銀閣寺裏だ。

中尾-出曲輪 space_w 中尾-出曲輪土塁 space_w 中尾-遠望
出曲輪に到着  出曲輪に残る土塁跡  哲学の道から城址を遠望

中尾城址は銀閣寺後方の山麓に居館、山腹に出曲輪、山上に主曲輪が営まれ、さらに大文字山から如意ヶ嶽の城址群によって近江へと通じるルートを確保している。一方、主曲輪群の北端からは志賀越え道が眼下に見下ろせ、対いの瓜生山から白鳥越え一帯には北白川城址群が散在している。銀閣寺を扇の要として、京と近江とを結ぶ幹線道路群を押える山上に山城群が築かれたさまは、まことに規模壮大なものである。将軍の城址群らしい規模といえばいえるが、その歴史をみると敗走路になるケースが多かった感も否めない。 by kuma
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2009年03月05日

京と近江を扼する如意ヶ嶽城

五山の送り火で有名な大文字山、その山上に如意ヶ嶽城址が残っている。はじめて築かれたのは応仁・文明の乱のころ(1467〜87)、東軍の将多賀高忠によってと伝えられている。如意ヶ嶽城と呼ばれるものの、如意ヶ嶽そのものは城址の東方大津寄りのところにある。また、大文字焼きが行われる所は城址西方の山腹であり、城址と山の呼称に関してはいささかややこしい。もっとも、如意ヶ嶽から大文字山は京都と南近江を結ぶルートのひとつで、京の鹿ヶ谷と大津の皇子山を結ぶ「如意越え」であり、呼称に関しては神経質になる必要はないのかも知れない。
平安時代、如意ヶ嶽には智証大師が園城寺別院として建立したという如意寺があった。その規模は園城寺を東門に、鹿ヶ谷楼門の滝が西門であったという壮大なもので、いまも山上から山腹にかけて寺院の遺構が散在している。如意越えは比叡山の南を通る「白鳥越え」「山中越え」と並ぶ重要な幹線道であり、源平争乱の時代より京と近江を往来する軍勢が集結、移動する拠点となった。そして、南北朝動乱のはじめの建武三年(1336)、兵火によって山上の如意寺は焼失、再建されることはなかった。

如意-寺跡1 space_w 如意-寺跡2 space_w 如意-寺跡3

応仁の乱ののち下剋上の世となり、将軍は無力化、幕政は形骸化していった。管領細川政元の暗殺をきっかけに細川氏の内訌が起こると、将軍も京に安閑と座していられなくなった。細川澄元と細川高国の抗争、高国と細川晴元の抗争、足利義晴と細川晴元の抗争、さらに足利義輝と三好長慶の抗争と戦い絶え間なく繰り返され、京と近江に通じる要衝を押さえる如意ヶ嶽城は軍馬が往来し破壊と修築が続いた。
城址は「如意越え」の道を取り込み、三角点のある頂上に主郭をおき、遺構は山上の尾根一帯に散在している。山上からの眺めは抜群で、天気に恵まれればはるか大阪から奈良方面まも見渡すことができる。城址を歩くと東方の緩尾根には三条の堀切が穿たれ、土塁を伴った木戸跡、尾根北方の斜面一帯に設けられたひな壇状の帯曲輪群跡、それを取り巻くように築かれた長い横堀跡などが見事に残っている。西方尾根にも曲輪が連なり、要所に土橋・堀切が穿たれ、なかなか規模壮大な山城である。

如意-土橋 space_w 如意-土塁木戸口 space_w 如意-主郭

如意-帯曲輪群 space_w 如意-切岸横堀 space_w 如意-西方竪堀

尾根を西山麓に下っていくと大文字焼きの火床に降り立ち、眼下の京都市街から西方の愛宕山までが一望できる。火床から続く急坂は銀閣寺へと下りていく。京都市街の展望を楽しみながら銀閣寺へと下っていくか、一旦、尾根まで引返して将軍義輝が三好長慶と対峙した中尾城址を目指すか迷うところだ。結論は、中尾城址を目指すことになったのはいうまでもないだろう。 by kuma
posted by うさくま at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2009年02月23日

足利将軍の拠った城址群に登る

嵐山城址攻略に引き続き、足利将軍ゆかりの北白川城址を歩いてきた。嵐山城を築いた香西氏によって細川政元が謀殺されたのち、将軍職は足利義澄、義稙(義材が復位)、義晴、義輝、義栄、そして最後の将軍義昭へと継承されたが、誰一人として京に落ち着くということはなく流浪の生涯を送った。足利将軍は武家の頂点という立場から、たとえば、諸国の守護大名のように山城を築くということはなかった。それが、細川氏内訌による幕政の混乱によって、将軍職はときの権力者によって翻弄されるようになり、ついに足利幕府は京畿を支配するばかりの地方政権になりさがった。結果、将軍も京をめぐる争乱に巻き込まれ、ときには京を没落、北白川城、中尾城などに拠って京争奪戦を展開したのである。
北白川城は京から近江穴太に通じる白鳥越えを押える要衝にあり、永正十七年(1520)、細川澄元と対立する細川高国が六角定頼の支援を得て築いたことに始まる。以後、京をめぐる攻防の舞台となり、落城、修築が繰り返された。幕政を掌握した高国は澄元のあとを継いだ晴元と抗争、山頂から東の地蔵谷に城域を広げたが、享禄四年(1531)、晴元に敗れて高国が戦死すると北白川城も落城した。高国に擁立されていた将軍義晴は、享禄元年に京から近江朽木に落ち延びていたが、天文三年(1534)に六角氏の支援を受けて晴元と和解、帰京した。しかし、その後も晴元との対立は繰り返され、そのたびに京と近江を往来するということが続いた。
天文十五年、義晴は瓜生山上の北白川城を修築、晴元と対峙したが翌年敗れて近江坂本に逃走した。その後、義晴は将軍職を義輝に譲り、銀閣寺背後の山上に中尾城を築き京への復帰を目指した。義晴のあとを継いだ義輝は、晴元と結んで三好長慶と対立、北白川城は攻防の舞台となった。猫の目のように変わる時代を物語るかのように、北白川城は白鳥越えのものをはじめ瓜生山上、瓜生山南の尾根、地蔵谷沿いの尾根などに時代ごとの城址が点在している。足利義輝が拠った瓜生山城址の主郭は狸谷不動院の奥の院が鎮座し、社殿の後方の石室にはかつて勝軍地蔵が祀られていた。細川高国が戦勝を感謝して祀ったもので、北白川城が勝軍地蔵山城と呼ばれる所以となった。

北白川-城址マップ

北白川城址へは出町柳駅発鞍馬行の叡電に乗り一乗寺駅で下車、詩仙堂を経て狸谷不動院を目指す。不動院の本堂横から奥の院へ通じる道があり、城址のある瓜生山まで急坂を登ること十分くらいでたどり着ける。主郭にある奥の院へは堀切道が続き、両側には曲輪が連なり、土塁、切岸なども見事に残っている。奥の院の古びた社殿の裏をみると、かつて勝軍地蔵が祀られていたという石室がある。山上にあった古墳を半分に削り、改めて石を組んだものと伝えられている。城址は主郭を中心に西の尾根、南の尾根に曲輪が連続し、それぞれ広さも十分で、竪堀・堀切・土橋なども設けられている。主郭の東方にも曲輪が連なり、城址最大の見所というべき大堀切を隔てた東尾根にも曲輪が南北に連なっている。足利将軍をはじめとして幕府の役人らが拠っただけに、その規模はなかなか壮大だが戦国山城としてみれば大味な感がなくもない。

北白川-大堀
驚く規模の大堀切

北白川-主郭石室 space_w 北白川-切岸
主郭に残る勝軍地蔵が祀られていた石室   曲輪の切岸

勝軍地蔵山城から東方に展開する東山新城へは、堀切道、土橋を思わせる細尾根を辿っていく。山道は昔から人々が往来したものか、よく踏み固められていてとても歩きやすい。実際、瓜生山から白鳥越え、比叡山までは東山トレイルとして整備され、要所に案内板も設けられ、快適な山歩きが楽しめるところでもある。東山新城には四つの城址群があり、(2)(3)(4)の城址は若狭の武田氏が築いたものといわれるが、永禄期に六角氏によって築かれたとする説が有力だ。(2)(3)(4)の城址群は地蔵谷方面から登ってくる敵を意識し、(3)(4)は白糸の滝方面から登ってくる敵を意識した縄張りとなっている。(2)から比叡山方面に通じる北東尾根には(5)の城址があり、北白川城址群が京と近江を結ぶ要の城であったことが実感される。

北白川-23見上げる
地蔵谷方向から城址を見る-右手が(2)城址、左手が(3)城址で尾根伝いに(4)の城址へ続く
 
北白2-主郭 space_w 北白2-堀切
(2)城址の主郭、見晴らしはいまいち  (2)城址北端の見事な堀切

北白3-土塁 space_w 北白4-堀切
(3)城址東方の土塁跡         (3)城址と(4)城址を隔てる堀切

足利将軍家が没落したのち、北白川城は織田信長の部将明智光秀が修築して拠ったといわれるが、実際のところはよく分からない。いずれにしても、北白川城は足利将軍家とともに、その歴史を終えたといえそうだ。今回、(5)の城址と瓜生山の南尾根に築かれた城址を攻略することができなかった。それだけ、北白川城址群は城域も広く、それぞれの規模も大きいところなのだ。今回、ウサは体調不良で自宅待機となったが、次は白糸の滝から南尾根城址群を攻略、(5)の城址を経て近江穴太へ抜ける山上トレッキングを目論んでいる。 by kuma
posted by うさくま at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2009年02月22日

京都市内、初めて築かれた山城に登る

戦国時代、日本各地には山城が築かれた。しかし、幕府のあった京都洛中は将軍のお膝元ということもあって、山城が築かれることはなかった。そんな京都における山城の初めが嵐山城で、以後、京都周辺にも山城が築かれるようになった。とくに明応の政変による将軍権力の失墜、幕府管領細川政元暗殺後の内訌による幕府の動揺によって立場を失った将軍は近江に逃亡することが多かった。それもあって、京都の山城は北白川城、中尾城など洛中から近江に通じる山に築かれたものが多い。嵐山城は細川政元暗殺の首謀者である香西元長が築いた山城で、その出現は室町幕府終焉の序曲を奏でるものでもあった。
 
嵐山-京都遠望
 
嵐山城は桂川(保津川)を東に見下ろす嵐山山頂にあり、阪急嵐山駅の改札を出た左手の山麓に登り口がある。廃屋と駐車場の間を抜ける細い路地のような道を入っていくと、竹薮のなかの急坂へと続くが道はよく整備されている。山頂の城址に向かって登り始めると、すぐに曲輪?、竪堀?と思わせる地形が現われるが城址はまだまだ先の山上だ。ひたすら登っていくと苔寺方面との分岐点に到達、案内板の通りに右手の崖に沿った山道を、またひたすら歩いていく。と、虎口の石垣?と見間違う大岩が現われ、その上方の小山も曲輪跡?と思わせるが、城址はまだまだ前方はるかに見える嵐山山頂だ。しかし、そこから城址へと続く登り道の傍らには、虎口?曲輪?土橋?土塁道?といった城址遺構を感じさせる地形が続く。

嵐山-苔寺分岐点 space_w 嵐山-大岩
苔寺への分岐点、右方向へ  城址?と思わせる大岩、先は長い

嵐山-馬の背道 space_w 嵐山-城址へ
土橋を思わせる尾根道  城址の南曲輪に到着

嵐山-石垣 space_w 嵐山-主郭
主郭に続く二の曲輪に残る石垣  主郭にはケルンが

嵐山-北曲輪切岸 space_w 嵐山-最南端堀切
北曲輪から見た主郭の切岸  最南端曲輪下の堀切


長い細尾根を越えると城址最南端に穿たれた堀切が現われ、そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開している。南曲輪から眼下に広がる景色はまさに絶景、保津川、嵐山から京都市街はもとより遠く比叡山までの一大パノラマである。南曲輪で昼食を摂り小休止したのち、城址の探索をスタートする。南曲輪の北側には土塁が残り、その向こうは堀切、南曲輪を回避しつつ攻め上ってきた敵軍はここで挟撃にさらされたであろう。堀切を越えて急坂を登ると階段状に曲輪が設けられ、一部には石垣も残っている。主郭は北のピークにあり、その北側には帯曲輪、最北端部には虎口状の枡形が確認できた。ただ、城址は全体的に雑木、藪化が進み、土塁や切岸、堀切、石垣遺構なども風化にさらされつつあり、関係機関による保存措置がとられることを切に願いたい。
嵐山城を築いた香西元長は細川澄之を擁して権勢を振るったが、それもつかの間、細川澄元の反撃によって滅亡、嵐山城も西岡衆の攻撃を受けて落城した。その後、嵐山城は修復され、細川晴元らが断続的に拠ったことが当時の記録から知られる。ところで、山麓から嵐山山上の曲輪群まではあまりに遠く、城址が防御主体のものであったとしても下界とかけ離れすぎていると思わざるをえない。食料や武器の備蓄、戦闘人員の収容、攻守の駆け引きなどから考えても、山上に至る途中に散在していた城址と思しき所も曲輪だったのでは?と思われるのだがいかがだろうか。
登る途中で道連れになった地元の方によれば、嵐山から松尾山、苔寺方面の山は、西山トレイルとして整備が行き届き登山客も多いという。たしかに、登山道の要所に案内標識が設けられ、嵐山城址まで軽快な山歩きを楽しみながら迷うことなくたどり着くことができた。戦国ファンならずとも、嵐山トレッキングを楽しみながら城址も楽しめるという格好の山歩きスポットといえそうだ。 by kuma
posted by うさくま at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城