2013年02月23日

能勢丸山城と野間城を再訪

今日、予定されていたサイクリング&ウォーキング企画
「籾井城登山と宿場町福住歩き」が催行人数に及ばず
無念の中止となった。先週の木曜日にラジオ局のナマ取材もあり
『行けるかも!』と思ったがラジオ効果はゼロであった。
天気はまずまずの好天!なんとも残念なことではある。

予期せず、スケジュールがポッカリと空いてしまった土曜日をどう過ごそう?
図書館に籠って調べ物をするか、墓地をめぐって名字と紋を探索するか、
やはり城攻めモードのまま何処か山城攻めといくか…
結論は当然というべきか山城&墓めぐりとしたが、さて攻城先である。
思いついたのは丹波美山の島城と摂津能勢の丸山城、いずれも再訪だ。
調べると美山は雪らしい、『よし!摂津能勢に行こう!』 と決定した。

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posted by うさくま at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城

2010年02月11日

北摂三田の城址に登る

一昨年より、兵庫丹波は篠山市内の山城を登っているが
今年に入ってから北摂三田市内に点在する城址へと足を伸ばしている。
探索資料は三田市史に収められた発掘調査報告書の記事と縄張図
天々宇知栗さん、三宅播州さんの登城サイトだ。
まずは、新三田駅にほど近い大原城址、貴志城址に登る…
 
三田大原城址
国道176号線沿いの小山に残る大原城址本丸の土塁址
 
三田貴志城址
貴志氏の伝説を秘める貴志城址の見事な堀切
 
いずれも民家のすぐ裏手にある城で藪コギをすることもなく簡単に登れる
山城というより居館址に近いものだが、堀切・曲輪などが良好に残っており、
仔細に城址を歩くと見るべきところは多い城址であった。
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posted by うさくま at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城

2009年06月02日

大手は新神戸駅の裏、瀧山城址に登る

瀧山城はJR山陽新幹線新神戸駅の裏側、北西の山上にあり、南北朝時代の正慶二年(1333)に播磨の赤松円心が「布引の城」に籠ったというのが最初の記録である。その後、円心の子範資が城主となり、建武三年(1336)、 新田義貞の軍勢を迎え撃った。その後、摂津守護となった範資の子光範が城主となったが、赤松氏の没落とともに瀧山城も打ち捨てられていったようだ。応仁の乱で赤松氏が復活すると再び赤松氏の支配下に入った。その後、赤松氏は衰退、細川氏の家臣柳本賢治によって攻め落とされた。瀧山城は摂津から播磨へと通じる山陽道の要衝に位置するだけに、否応なく戦火にさらされるところであった。
 
瀧山-案内図s
城址案内板の縄張り図

室町幕府の衰退によって下克上の世となり、畿内は幕府管領細川氏分家の阿波細川家の家臣であった三好長慶が牛耳るところとなった。瀧山城は畿内と阿波を結ぶ重要拠点として機能するようになり、長慶は重臣の松永久秀を城主に置いたのである。現在に残る遺構は久秀時代に確立されたものと思われ、久秀は主君長慶を瀧山城に招いて千句連歌や観能の宴を催したことが『細川両家記』に記されている。山上で催された宴会は、その眺めとも相俟って豪勢なものであったろう。

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posted by うさくま at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城

2009年05月24日

謎多き塩川氏の居城、山下城に登る

摂津の戦国時代、現在の川西一帯を領して勢力のあった塩川氏が知られる。しかし、その実態はまことに曖昧で、実像も明確ではない。そんな塩川氏が拠った山下城は摂津と丹波を扼する位置を占め、東方の能勢氏との攻防を刻む城址だ。資料によれば、縄張りは主郭を中核に西方尾根と東方尾根とに段曲輪を設け、もっとも特筆されるものは主郭後方の尾根を穿つ堀切とある。また、周辺には塩川氏ゆかりの史跡が散在、かつて、界隈は一度訪問したことがある。が、山下城址へは登り口を見ただけで登らずじまいであった。山々は緑も濃く、山城探索のシーズンも終わる頃であり、ダニ体験のあるウサは思い切り渋ったが、それをを押し切って登城してきた。

山下-堀切s
山下城址最大の見所である主郭北端直下の大堀切
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posted by うさくま at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城