2019年08月31日
神戸と三田の境目、松原蒲公英城の現説へ
2018年06月16日
摂津・丹波・播磨、三国の境目に位置する蒲公英城跡
蒲公英城跡(松原城跡)が宅地造成で消滅するという情報をもらった。
十年以上前にきたときは、雑木と笹竹が生い茂る、あまりな
藪状態を前にして城域に踏み込むのがためらわれたことだった。
蒲公英城跡は赤松円心の四男で南朝に味方した氏範が南北朝期に築城、
その後、同じく赤松一族の松原氏が城主となって戦国時代を迎えた
最後の城主松原義富は別所氏に属し、羽柴秀吉の播磨攻めに抗戦、
小さな松原城跡は、あっけなく落城したという。
神戸市の文化財指定は受けていないようだが、城址にはチャンとした
説明カンバンもあり、史跡と認識されているのに乱暴なことである
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2013年02月23日
能勢丸山城と野間城を再訪
今日、予定されていたサイクリング&ウォーキング企画
「籾井城登山と宿場町福住歩き」が催行人数に及ばず
無念の中止となった。先週の木曜日にラジオ局のナマ取材もあり
『行けるかも!』と思ったがラジオ効果はゼロであった。
天気はまずまずの好天!なんとも残念なことではある。
予期せず、スケジュールがポッカリと空いてしまった土曜日をどう過ごそう?
図書館に籠って調べ物をするか、墓地をめぐって名字と紋を探索するか、
やはり城攻めモードのまま何処か山城攻めといくか…
結論は当然というべきか山城&墓めぐりとしたが、さて攻城先である。
思いついたのは丹波美山の島城と摂津能勢の丸山城、いずれも再訪だ。
調べると美山は雪らしい、『よし!摂津能勢に行こう!』 と決定した。
2010年02月11日
北摂三田の城址に登る
今年に入ってから北摂三田市内に点在する城址へと足を伸ばしている。
探索資料は三田市史に収められた発掘調査報告書の記事と縄張図
天々宇知栗さん、三宅播州さんの登城サイトだ。
まずは、新三田駅にほど近い大原城址、貴志城址に登る…

国道176号線沿いの小山に残る大原城址本丸の土塁址

貴志氏の伝説を秘める貴志城址の見事な堀切
いずれも民家のすぐ裏手にある城で藪コギをすることもなく簡単に登れる
山城というより居館址に近いものだが、堀切・曲輪などが良好に残っており、
仔細に城址を歩くと見るべきところは多い城址であった。
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2009年06月02日
大手は新神戸駅の裏、瀧山城址に登る
瀧山城はJR山陽新幹線新神戸駅の裏側、北西の山上にあり、南北朝時代の正慶二年(1333)に播磨の赤松円心が「布引の城」に籠ったというのが最初の記録である。その後、円心の子範資が城主となり、建武三年(1336)、 新田義貞の軍勢を迎え撃った。その後、摂津守護となった範資の子光範が城主となったが、赤松氏の没落とともに瀧山城も打ち捨てられていったようだ。応仁の乱で赤松氏が復活すると再び赤松氏の支配下に入った。その後、赤松氏は衰退、細川氏の家臣柳本賢治によって攻め落とされた。瀧山城は摂津から播磨へと通じる山陽道の要衝に位置するだけに、否応なく戦火にさらされるところであった。
城址案内板の縄張り図
室町幕府の衰退によって下克上の世となり、畿内は幕府管領細川氏分家の阿波細川家の家臣であった三好長慶が牛耳るところとなった。瀧山城は畿内と阿波を結ぶ重要拠点として機能するようになり、長慶は重臣の松永久秀を城主に置いたのである。現在に残る遺構は久秀時代に確立されたものと思われ、久秀は主君長慶を瀧山城に招いて千句連歌や観能の宴を催したことが『細川両家記』に記されている。山上で催された宴会は、その眺めとも相俟って豪勢なものであったろう。
2009年05月24日
謎多き塩川氏の居城、山下城に登る

山下城址最大の見所である主郭北端直下の大堀切
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