2017年11月03日

綾部市山家で山城 & 家紋 歩き

快晴の朝、綾部市山家に遠征。かねてより綾部在住のKG氏からのお誘いを受けていたイベント「和久氏の山城登山会」への参加だ。
山家一万石の藩主・谷家の陣屋跡にある山家歴史資料館の新しい看板設置セレモニーにかかるイベントとして、甲ケ峰城跡登山と陣屋跡見学会が催されたのだ。

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2017年09月27日

篠山に残る土豪館「土居の内」を訪問

多紀郡(現篠山市)の戦国時代、八上城主・波多野秀治に属し、八百里城で明智勢を迎え撃った畑一族が知られる。畑氏の存在は前から気にかかっていて、折々に畑家の歴史を調べ、ホームページなどで紹介してきた。いまも、篠山に畑姓は少なくなく、八百里城主の後裔という畑家も続いている。

今日、訪ねた畑家もその一家で、住まいは土塁と堀に囲まれ「土居ノ内」 あるいは「大渕館」と称されて中世の武家屋形の景色をよく残している。貴重な文化財として、県の文化財指定も受けている。

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お宅からは八上城跡が真っ正面に見える
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2017年09月20日

辻集落・池田家再訪

今月のはじめ、市役所の方と訪問して、伝来の甲冑・古文書などを拝見させていただいた池田家。先日、ガイド先輩Tさんから「池田家に行くけど、いかが」とお誘いを受け二つ返事で一緒させていただくことになった。
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2017年09月02日

丹波大山庄の故地を訪ね歩く

8月20日、おもしろゼミナールの下調べで、かつての大山庄・地頭職にあった中澤氏ゆかりの地を訪ねた。地元の歴史に詳しい小林氏に貴重な時間を割いていただき、あちらこちらを案内いただいた。
京都東寺の荘園であった大山庄は、荘園主である東寺と地頭中澤氏との間で相論が繰り返され、そのほとんどを中澤地頭が支配、東寺は一印谷とわずかの地を支配するばかりとなった。
ジックリ歩くと、中世と変わらぬという一印谷の風景、中澤地頭の館跡、城跡、さらに路傍の五輪塔・石仏など、長閑な中にも平穏ではなかった中世の歴史が実感されたのであった。

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・8月27日
先週に続いて、大山庄を訪ねる。眼目は一印谷に散在する中世の館跡と墓地紋の調査。館跡は谷の山麓に位置し、おそらく荘園政所、谷の有力農民(土豪)のものであろう。墓地はむかしながら株ごとに営まれ、霊園や新たに造成された村墓地にはない濃密な空気があふれていた。

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・9月2日
先日、もらしていた大山庄の墓地紋ウォッチに町の田から一印谷を歩く。
中澤・長澤さんが多いのは大山らしいが、一印谷は中澤地頭と争って最後まで東寺の荘園として残ったところ。中澤姓以外の名字が大勢を占めるのでは?という予想があったのだが、そういうことはなかった。名字から見る限りの乱暴な書き様だが、大山庄は中澤地頭が治めるところであったといえそうだ。

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2017年07月17日

栗栖野で丹波酒井氏の歴史を調べる

まだ篠山に出戻る前、酒井一族の山城・栗栖野城に登ろうと栗栖野集落を訪ねた。そのとき、市議・酒井さんという方と出会い、地元に関する歴史をうかがった。それから十年ばかり経った今年の春、突然、酒井さんがいまの職場に訪ねてこられ、ライフワークにされているという篠山城の石垣についての話をうかがった。

酒井さんが住まれている栗栖野は、篠山城石垣の切り出し場の一つで、いまも山中に当時の矢穴や刻印が残る残念石が残っている。酒井さんはそれらの石調査をされ自費をはたいて残念石を利用した公園も作られている方だ。せっかくの訪問を受けながら、酒井さんがもたれている課題にお役立ちできなかった。

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今回、改めて丹波酒井氏の歴史を調べるにあたって、頼みの綱としていたガイド先輩の酒井さんが怪我をされどうしたものか?と思っていたとき栗栖野の酒井さんを思いだした。あつかましく、酒井氏の歴史についてあれこれお話を伺いたいと申し込んだところ、了承をいただき今日の訪問となった。酒井さんの知人で丹波荒木氏の小説執筆を進められているというHさんも同席され、丹波酒井氏の歴史についておおいに語り合った。

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夕暮れも近くなったころ話をきりあげ、フィールドに出て行った。まず、栗栖野酒井氏にゆかりの若林寺を訪ね境内の墓地にお邪魔すると酒井家の墓石があり、丹波酒井家では初見の「剣花菱」紋が刻まれていた。ついで、酒井さんのお宅の隣に鎮座する大歳神社を訪ね、栗栖野の村墓地に案内してくださった。

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この墓地はこれまで見落とししていたところで、踏み込むと酒井家の墓石が並び立ち「三つ巴」と「剣カタバミ」紋との二つの流れに分かれていた。この栗栖野墓地踏査で、ほぼ丹波酒井家の家紋調査はは終えたといえそうだ。

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ところで、福住の籾井城山麓にある禅昌寺にあった旧山門が新築され、旧山門に刻まれていた桐紋が行方知れずとなっていた。おそらく焼却されたのであろうと思っていたが、なんと家紋の彫られた部材が酒井さんのお宅に保存されていたのだった。思いもかけず、何年ぶりかに出会った桐紋は当時のままであった。

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最後に酒井一統の氏寺とされる高仙寺に伝来しているであろう、『酒井四家連署寄進状』の実物を拝見したいのですが、とあつかましいお願いをした。骨を折ってみますとの回答をいただき、長時間の取材にお礼を述べ酒井さんたちとお別れした。寄進状の実物拝見が現実化すれば文字通りに欣喜雀躍と言うしかない。楽しみである。
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2017年07月16日

本郷でおもゼミ・国人編の下調べ

昨年、「篠山おもしろゼミナール」の講師依頼を受け「篠山の国人−東部編」を務めさせていただいた。ありがたいことに好評だったそうで、今年は「篠山の国人−西部編」を努めることになった。
篠山の戦国時代は八上城主波多野氏を盟主として国人衆が割拠する状況にあり、西部では関東御家人の系譜をひく中澤氏、酒井氏をはじめ、有力武家として細見氏、山名氏、久下氏らが知られる。そして、それら武家たちが拠った山城が残り、後裔である家々がいまも在所に続いている。

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篠山に住み暮らしてより、もともと好きだった戦国史と武家の歴史を家紋探索と併せて訪ね歩き、ホームページなどで発信してきた。それらの成果をベースとして西部編のたたき台を作成、改めて国人・土豪ゆかりの地を訪ね、後裔にあたる家に取材を重ねることにした。

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今日は、篠山の北西に位置する本郷一帯に勢力を張った細見氏の歴史探索に出かけた。まず、細見氏の菩提寺という松隣寺を訪ねたが、生憎、住職さんが不在でご母堂さんより地元の歴史に詳しい細見さんを教えていただいた。ちょうど在宅されていた細見さんにいろいろとお話をうかがい、さらに、細見氏の居館跡、かつての城域を示す地名、細見株の墓地などなどを案内していただいた。

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篠山の歴史をつづった「多紀郷土史考」に記述された細見氏の部分に「細見将監館跡」の石碑の写真が紹介され、できれば実見したいと思っていた。ところが、
細見さんの若かかりし昭和三十年代のはじめには確かに存在していたが、圃場整備によって行方不明になってしまったとのこと。三十年代は全国的に土地改革、宅地造成のラッシュ時代で多くの史跡、遺跡が調査や保護の手が入ることもなく無残に破壊された。ここもその例外ではなかったわけで、残念なことというしかない。もっとも、圃場整備された田圃のどこかに埋まっていることは確からしいが・・・。

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本郷にはかつて庄屋だったという細見家があり、そのお宅も教えてくださった。しかし、ちょうど昼時になっていたことでもあり次の機会に伺うことにして細見さんと別れた。思いがけず願ってもない方との出会いで、多くの収穫をえることができた。やはり、現地に足を運べば、運んだだけの収穫があるということだ。
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2017年07月03日

北海道の旅最終目・チャシを攻める

最終日。朝、せっかくなので札幌定山渓を散策。

定山渓は緑豊かな渓谷の湯で、支笏洞爺国立公園内に位置しているところ。そもそも慶応2年(1866年)修験僧・美泉定山がアイヌの人々の案内で泉源と出会った時に始まり、温泉の礎を築いた定山の功績から、「定山渓」と命名されたという。北海道の名づけ親とされる幕末の探検家・松浦武四郎も立ち寄ったといわれている。
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この旅の前半、道南に散らばる本土より蝦夷に渡ってきた渡り党と呼ばれた和人たちの館群を巡ってきた。が、北海道といえば先住民のアイヌが築いた城砦跡とも祭祀跡ともいうチャシを一つぐらい踏破したい。昨晩、ネットでチャシをチェックしたところ、開発で消失、雑木の繁茂などでこれはというところがない。そのようななかで、遺構が見られる数少ないチャシ・桜丘チャシを発見。札幌からはチョッと遠いところではあるが、この旅最後のドライブがてら訪問してきた。

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たずね当てた桜丘チャシは、堀切、切岸、腰曲輪など本州の山城を彷彿させるもので、それなりに見ごたえはあった。しかし、道南の館はともかく、本州の山城群と比べると、やは、り小さな城砦遺構というしかないものであった。でも、三泊4日の北海道の旅は十分に満足のいくものであった。孝行息子に感謝である。

かくして、北海道の旅はここまで。5日ぶりに関西に飛行帰り、思えば今日は64回目の誕生日。心に残るいい旅ができた。
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2017年07月01日

3日目・館、町、ドライブ、湖を堪能

三日目。昨晩の民宿、立地は海が目の前でまずまずだったが、寿司屋さんというネットのコピーから御飯もバッチリであろうと思っていた。ところが、いっちゃお終いだが、チョッと期待はずれだったな〜 (次は行かない、きっと)。

朝霧の中、昨日行きそびれた勝山館跡ガイダンス施設を訪ねたが未だ開館前。城跡北方に展開する中世墓群を見る、その多さに驚かされるとともに、勝山館一帯は城を中核とした中世都市といえる存在であったことを実感した。勝山館のシンボル医王山に登る、山頂には松前氏の祖・武田信広を祀る医王山神社が鎮座している。晴れていれば勝山館から海までが一望間違いないところだが、霧のため無念の下山となった。

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今日の最初の館は、和人が蝦夷に築いた最初の拠点という花沢館。コシャマインの乱当時の館主は蠣崎季繁で、客人として滞在していた武田信広とともにアイヌの攻撃から堅守した館である。宿の情報では草茫々とのことだったが、登山口も山道も明確、城址は下草が目立つものの遺構探索に困るようなことはない。先の勝山館と比べると小規模ではあるが、天ノ川を自然の濠として、曲輪の削平も丁寧、切岸も高く、後方尾根を遮断する堀切も深い。なかなか、見ごたえのある館であった。

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つづいて、天ノ川を隔てた北方に位置する洲崎館。コシャマインの乱に活躍した信広が、季繁の娘を娶り花沢館の出城として築いた館という。主郭に砂館神社が鎮座し、その後方に横堀が切られ、周囲を曲輪群がとりまき、なかなか規模の大きな館だ。全体的に雑木藪化が進み、遺構探索が躊躇われたが武田信広が蝦夷の覇者になっていく最初の拠点となっただけの館跡であった。

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上ノ国で北海道の城館巡りはひとまず一段落、あとは今日の宿泊地である苫小牧に向かいつつ観光地を経巡った。まずは江差のまち、ここも二度目の訪問になる。まず横山家住宅を訪ね、ついで旧中村家住宅、姥神大神宮、そして、横山家住宅で蕎麦に舌鼓を打つ。むかし来たときに比べて、まちがずい分手入れされているように見受けられたのは、北海道で初の「日本遺産」認定のまちになったことも大いに関係しているのだろう。

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江差をあとに、雲石国道を抜けて八雲インターチェンジから虻田洞爺湖インターチェンジまで道央自動車道を突っ走り洞爺湖見物。展望台近くに墓地を発見、早速家紋をウォッチしたのち洞爺湖の眺望を楽しむ。観光客を見ると中国人、韓国人が多い、なるほどインバウンドの大勢を占めるのは彼らなのだな〜と思わざるをえない。洞爺湖からは230号線→276号線を突っ走って支笏湖で一休み。その間、北海道の道路標識に「クマ注意」が登場、なるほど北の大地である。

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0701_IMG_3106.jpg クマ注意の道路標識

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夕方、ホテル近くの居酒屋で夕食がてら呑み。ふとFBを見ると、かつての同僚・杉本さんが亡くなったようなコメントを発見、これも旧同僚・重田に電話するも出ず、則ちゃんに電話したら昨日亡くなりはって家族葬で送られたとのことだった。享年68歳、膵臓癌だったらしい。呆気ない死に、なんともやりきれない。同年輩の知人が鬼籍に入る歳になったのだな〜と切ないことである。
夜、東京から移動してきた長男と合流、居酒屋で呑みを始めたところ大きな揺れ。ネットでチェックすると苫小牧周辺を震源とする地震だった。これは!と身構えたが続く揺れはなく、家族三人ワイワイと飲みかつ食い、酔っぱらってホテルに帰投したのであった。

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2017年06月30日

2日目・館、城三昧

二日目は、蝦夷管領とも蝦夷守護ともいわれた安東氏の一族・下国氏が拠った茂別館からスタート。茂辺地川を外堀にした小丘にあり、主郭部には矢不来天満宮が鎮座している。周囲は土塁が取り巻き、城粋の東部から北部は自然の切岸が要害性を高めている。コシャマインの乱では、館が相次いで落ちる中でよく落城をまぬかれた。

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素晴らしい好天の下、白神岬経由で松前町へと移動。最初の目的地は、武田信広の孫・義広が拠ったという松前大館。のちに松前城を築くまで、武田蠣崎氏の本拠として機能した。『図説中世城郭事典』の縄張り図によれば土塁・空堀などおおいに興味をそそられていた。が、実際に来てみると生い茂る雑木林、そばにあった郷土資料館で状況をうかがうと、熊も生息していることでもあり入山禁止とのことであった。山麓に鎮座する徳山大神宮の傍らにはゴローニンの幽閉された牢跡があるらしいが割愛した。

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徳山大神宮、左手の山が大館

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ということで、松前城に移動、松前城は二度目の訪問、以前にはなかった城門や城壁などが復元され面目を一新していた。復興天主は相変わらずだが、以前には見落としていた土塁や空堀など見所も多い。ぶらぶらと松前城北方の寺町に足を伸ばし、松前藩士のものと思われる墓石をウォッチ、松前藩主家の墓所も訪ねる。古い墓地は荒れ気味の感はあるが、下国家、蠣崎家の墓石などなど総じてよく残っているなと思われた。小林家の歴史を尋ねた資料館の学芸員の方が、うれしいことにみずから案内をしてくださり、思いがけず松前城下の墓石ウォッチを堪能できたことだった。

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重職松前家の家紋              重職下国家の家紋

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松前藩主家の墓所              重職蠣崎家の墓所

松前の次は今日の宿泊地である上ノ国に残る勝山館。公園として整備されていることは知っていたが、実際に訪ねてみるとまるで分譲地のように往時の武家屋敷の区画が連なり、説明板もアカデミックな内容である。城域は南北を谷川に囲まれた高地を占有し、海側に二重の堀切、北側も竪堀を伴った堀切で遮断している。勝山館で特徴的なのは、城域の北方斜面にアイヌの人々、松前氏やその一族らのものも含む中世募跡が広がっていることだ。言ってみればひとつの町がそのまま営まれていたところ、それが勝山館の印象であった。
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下山したころには夕暮れが迫っていたが、登山口の上国寺・境内墓地をウォッチ。これという珍しい家紋はなかったが、墓石に屋号を彫っているのが印象に残った。

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2017年06月29日

北海道の旅、まずは函館から

孝行息子の心尽しで四泊五日北海道の旅、大阪空港より函館空港へ出発。

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初日は、函館空港で車をレンタル。最初の訪問地は空港すぐ近くにある志苔館。道南十二館の一つで小林良景が拠ったといい、コシャマインの乱で陥落したという館。土塁で囲繞された主郭を主体として、二重堀切が特徴的。南側には津軽海峡の海、その向こうに函館山が見える立地は、要害性はともかくよい景色であった。
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昼食は函館朝市で海鮮三色丼を喰らい、すぐ近くにある青函連絡船記念館摩周丸を見学。いまは鉄路で繋がった北海道と本州だが、かつては連絡船が数々の歴史を刻んできたのであった。

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チョッと感傷的になったあとは五稜郭へ移動、ずっと昔、仕事の延長で訪れて以来の再訪である。当時は仕事絡みだったこともありショボかった記憶があったが、今回、ジックリ歩いてみて、外堀、内堀、石垣、土塁、空堀などなど実に面白かった。もっとも、城塞としての評価は低いが、城郭遺構としてはガッツリ堪能できたことだった。

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最後は、お約束の函館山登山。自動車道を利用すれば、アッサリと登りつける。頂上からの展望は素晴らしいもので、眼下に函館の街並み、津軽海峡越しに本州北端の町大町が見える。本来ならば夜景を楽しむところなのだろうが、太陽の下の眺望も十分に満足できるものだった。

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2017年05月16日

赤松氏の紋を訪ねて書写山円教寺に登る

戦国末期、龍野城主・赤松下野守政秀が書写山円教寺開山堂の傍に寄進した護法堂の蟇股に刻まれた「二つ引両」と「三つ巴」を見に書写山円教寺に参拝した。

書写山円教寺は三十余年前、当時、勤めていた会社の社員研修というか研修ティストの社員旅行で来て以来のこと。改めて来てみると見どころがいっぱいあるではないか。

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せっかくなので鐘楼の「慈悲の鐘」を一突き

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書写算ホームページ : http://www.shosha.or.jp/ より

まずはロープウェーを降りてから山内の寺院をめぐる山道の寂び寂びとした佇まい、播磨征討戦に際して羽柴秀吉が本陣を置いたという歴史を語る曲輪跡であろう土塁を伴う平坦地、なによりも西の比叡山といわれるだけに豪壮な堂塔伽藍の数々。

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秀吉時代の曲輪跡か

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若干、荒れた空気も無きにしも非ずだが、よく整備されていて飽きることがない。円教寺の中核をなす大講堂・常行堂、食堂は映画やテレビ時代劇撮影のロケ地にも利用されたところだけに、中世のままといっても過言ではない佇まいと空気を漂わしている。

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さて、今日の目的である赤松下野守政秀の家紋に関する聞き取りをしたが、どなたもご存じないのであった。ともあれ、開山・性空上人を祀る開山堂を目指した。なるほど、開山堂の傍らに護法堂がある、


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0516_syosya05.jpg 赤松氏の家紋

逸る心で蟇股の裏側を覗いてみると「二つ引両」「桐」「三つ巴」紋が彫られているではないか。やっと赤松氏の唯一ともいわれる家紋の遺物と邂逅できた!のであった。

0516_syosya07.jpg クリンソウの花

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今日の目的を達し、ぶらぶらと書写山を歩いていると、沢のあたりに鹿の食害のなすものともいうべきクリンソウが咲いている。書写山中に営まれている松平家、本多家、まつだいら榊原家など姫路藩主であった大名墓、重要文化財指定を受けている建造物などを見ているとあっという間に時間が経ってしまった。
書写山円教寺、昼ごはんに食べた山菜うどんも含めて思いがけず堪能してしまった。
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2017年01月07日

粟賀から香寺へ、赤松氏ゆかりの史跡を巡る

今日は神河町にお住まいの Sala 同人で歴友のTKさんと播磨の山城 & 史跡めぐり。
粟賀のいつもの場所で待ち合わせて、まずは法楽寺近くに残る古い五輪塔、応仁の乱において山名氏と赤松氏が干戈を交えた「赤松、山名氏激戦の地」を案内いただく。
粟賀の地は播磨と但馬を結ぶ街道の宿場町にあたり、北上すれば播磨と但馬の国境をなす生野(真弓)峠であり、この峠も赤松氏と山名氏が激戦を演じたところである。以前、TKさんと登った大山城跡も赤松氏が山名氏に備えて構えた山城であった。

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法楽寺近く

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今日のメーンの目的地である矢田部城跡は、例えれば真弓峠を突破した山名勢が粟賀を越え、市川、福崎を経て姫路になだれ込んだルートに沿う香寺町の西方山上に遺構が残っている。後期赤松氏の本拠・置塩城の当方、恒屋城の南方に位置する山城だ。
矢田部集落の昔ながらの狭い道を走りぬけ、かつて、TKさんが矢田部城跡の場所を確認されたというお年寄りのお宅で、改めて城址への登り道を教示いただき山道へ分け入った。

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いい感じの尾根を登る

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曲輪が緩やかに続く

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東尾根曲輪の切岸

城址は山頂の主郭と数段の曲輪で構成された小さな山城で、後方尾根と南に延びる尾根先を遮断する堀切が見所であった。昆虫の研究をされているTKさんは、ダニの行動を研究されるらしくダニの採取に余念がない。一月の第一週だというのに、少なからぬダニが徘徊していることに驚いた。

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主郭、陽射しが柔らかい

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北の堀切

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二重になっている

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南端の堀切

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城址を下山したのち、後藤又兵衛の先祖にゆかりのものも含まれるという郷倉(ごむら)の五輪塔群を観察、ついで赤松氏の家老であったという喜多野氏が拠った伊勢山城跡の遺構があるという神明神社を訪ねる。
山上にあるという城跡に登ってみたが遺構らしいものはない。どうやら神社の境内一帯が居館跡であったようで山上は見張砦程度のものが営まれていたのだろう。神社の説明板を見ると喜多野氏の居館跡があり、早速、訪ねてみたが場所を特定できなかった。

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郷倉の五輪塔

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伊勢山城跡の神社

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須賀院構居跡か?

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親王塚

なんとなく不完全燃焼の気分を抱えつつ「城の段(しろんだ)」と呼ばれる赤松氏系の古城跡があるという相坂集落に向かう。途中、須加院構居跡、赤松則祐に奉じられた赤松宮陸良親王を葬ったという親王塚を経巡ったが肝心の城跡は見つからない。

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遠くに見える山上に「城の段」があるらしい

結局、相坂集落まで行き着いたところで村の方に城の段のことを聞くと、相坂集落より遥か西方に見える山上に城址遺構が残っているとのこと。むかしは道もあったそうだが、いまは殆んど登る人もないそう。すでに夕暮れが迫る時間、今日の歴史歩きはここまでとして、後日、城の段へのチャレンジを帰して帰途に着いた。

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2016年11月13日

近江信楽の多羅尾に遠征

多羅尾代官所にやっと入れた。


多羅尾氏の菩提寺という大光寺、

先祖という近衛家の墓所もあります。

寺紋は近衛家ゆかりの牡丹紋。



滋賀県は南部の大津市大石から信楽町多羅尾を訪ねると、

伊賀に通じるルートであるからだろうか服部氏が多かった。

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2016年11月05日

日吉町に遠征、塩貝氏の家紋ウォッチ

DSG土曜会のあと篠山城跡で人待ち中。

日吉町の野化館跡と大戸塩貝城跡にチョイ寄り。塩貝城主だった塩貝氏の後裔という塩貝さんだらけの集落があり、破風というか妻に打たれた家紋を見ると「結び雁金」だった。

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2016年09月17日

大山の旧家・西尾家を訪ねる

ウォーキングの下打ち合わせで篠山の伝説的俳人 西尾武陵 の

後裔にあたる大山の西尾家を訪ねた。

西尾家はむかし神田神社の祭礼のときにお邪魔して以来

もう何年ぶりかのことになる。

一人で旧家を守っておられる刀自ともずいぶんのご無沙汰で

久闊を確かめ合い、打ち合わせをさせていただいた。


打ち合わせの終わったあと、かねてより気になっていた

西尾家の墓所を案内いただいた。


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家紋は大名西尾家と同じ「櫛松」、同族?

と思ったものの系譜関係まではわからなかった。

墓所は山中にあることもあって藪蚊がすごい

ジックリ拝見したかったが連れもあることとて退散した。


明日、西尾家を含む篠山の日本遺産をめぐるウォーキングの

裏方&ガイドサポートで出動します。

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2016年09月08日

おもゼミ取材、狩野常信筆という襖絵を拝見

おもゼミの取材で福住界隈を歩く。

市内の某寺にお邪魔して、狩野常信筆という襖絵を拝見した。狩野常信は狩野永徳の曾孫にあたる人物で、将軍徳川綱吉時代の人。お寺の歴史と照らしあわせれば、時代的には「然もありなん」というところだ。
襖は四枚仕立てで絵には「狩野法橋常信筆(判)」の署名・押印があるが、絵・書ともに素人目にもちょっと「?首をひねる」拙さがある。ネットで常信の絵や署名、壺印などを見ても、絵の品・書風がやはり拙いような、加えて常信は「法橋」ではなく法印・法眼には叙せられており、判もまったく違うものだ。
果たして、常信の真筆になるものか?・・・・、どう返答したものか、弱った(+_+)

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2016年09月05日

綾部市山家の史談会の勉強会にお邪魔する

綾部市山家の史談会の勉強会にお邪魔して、いろいろお話を聞かせていただいた。今日一番の眼福は上洛した織田信長が何鹿郡物部を領した国人上原物部氏に知行安堵した書状、信長の署名と天下布武の朱印を目の当たりにした。それと、木坂城が細川晴国にゆかりの城であるとの話を郷土史家の川端先生から拝聴、心にひかかっていた疑問が解けたのであった。


文書は、「 丹州本知並に丹後国在治郷上下寺社本所付諸奉公方任御下知之旨不可有相違之状如件 十月十四日 信長 朱印 上原右衛門少輔殿 」と書かれています。永禄十一年、義昭を奉じて上洛した時、誼を通じてきた上原氏に知行安堵したもの。この後、丹波国人衆の離反に苦しむとは、信長も思っていなかったのでは。そういうことを感じさせる古文書でした。

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2016年08月30日

波多野秀治の文書と出会う

十月に予定されている「おもゼミ」の下調べのため、篠山市東部地域を巡ってきた。今日の最高の成果は、某神社(あえて神社名を秘す)で拝見した波多野秀治公の花押が書かれた文書。秀治公の筆跡・花押を知らないわたしには文書そのものの真贋は分からないが、内容・紙質に加えて郷土の歴史研究会の折紙付のもの。何故?市の文化財指定を受けていないのか?まことにもって疑問というしかない。
氏子の家に伝来したものが戦後の間もないころに献納されたものという、おそらく本物と思われ眼福をさせていただいた。篠山市も知っている文書と思われるだけに、何故、ホッタラカサレているのか!市の文化財に対する認識が疑われるのである。

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2016年07月30日

酷暑のなか、篠山の歴史取材行

おもゼミの取材で、篠山東北部の大芋から八百里山麓を歩く。山田家、澤山家、そして畑家を訪ね、相応の成果があったが、畑守国追善墓のところで頭部に負傷。守国さんに対して何か粗相があったのかな〜?、「痛かった〜」。


資料と見合わせながら、今日、撮影した写真データを整理

みつけた山田家の墓石

山田家の家紋

畑家の住宅、周囲に濠の名残が

明智軍と戦った畑氏の追善墓。屋根のトタンにやられた



今日の取材行で一応の訪問先を訪ね、お家の方やゆかりのみなさんと色々なお話しをすることができた。いよいよ、取材の結果を整理して当日に配布するレジュメ作成に着手せねば。

posted by うさくま at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2016年07月18日

大阪から大和小泉へ取材行

月初より格闘していた校正が完了、編集事務所さんへ返送した。校正しているなかで、気になった志紀長吉神社、大和郡山の慈光院へ家紋取材に遠征。大和郡山はむかし住んでいたところだけに、どう変わっているのか楽しみだ。

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すっかり変わってしまった大和小泉駅


大和小泉駅を降りると驚くべき変貌。あれも、これも、それも、ほとんど無くなっていました。なんといっても、家が駅の周りにミッシリ建っているのにビックリでした。

十年以上も住んでいたのに新しい発見ばかり! でも、かつて田圃だったところには家が建ち、利用したスーパーも、世話になった診療所もなくなって、町はスッカリ変わっていた。


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富雄川

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懐かしい町なみ

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こんな家がまだ残っているんだ〜

変わったとはいえ、富雄川を渡り古い集落に入って行くと昔のままの風景、その奥に鎮座する小泉神社も懐かしい。むかし、初詣はこの神社と決まっていた。

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毎年、初詣に行った小泉神社

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小泉城から移築された門

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神紋は「五七の桐」

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拝殿、秋祭のとき境内に神輿が集まる

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神社すぐ西の「宮西」さんの長屋門

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宮西家の紋は「抱き柊」


大和小泉の中世は小泉氏、近世は片桐氏が領主として存在した。

住んでいたころ、小泉氏はもとより片桐氏などの武家に関して興味は薄そうな感じであった。どうしても、大和郡山城、筒井城の方に目が行くらしく、小泉氏、片桐氏への思いは低かったような・・・。

久しぶりに町を歩いてみても、小泉氏、片桐氏をアッピールするものはみかけない。今年の大河「真田丸」に結構出ているにも関わらず、片桐氏の扱いは変わっていないようだ。

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小泉城外堀と石州流家元

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家元の「割違い矢羽根」紋

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家元表札の「割違い矢羽根」紋

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家元は旧藩士の住宅敷地を併せたものとか

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屋敷を囲繞する瓦には「割違い矢羽根」紋

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子どもたちが通った小学校


大和小泉といえば。片桐氏の菩提寺であった慈光院が有名。石州流茶道家元片桐家から子どもたちが通った片桐小学校、そして慈光院までむかしと変わらぬ道をそぞろ歩き。慈光院近くの墓地で見つけた遠山家の墓に刻まれた「九字紋」、小泉藩士・遠山家だろうか?


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たどり着いた慈光院のあたり、記憶している景色とほとんど変わっていないような。寂び寂びとした参道を登っていくと土塀や山門の瓦に「割違い矢羽根」紋、茨木門を入った境内は静寂そのもの、外の暑さがうそのような涼しさ。拝観受付をすまし書院で一休み、熱い抹茶に家紋を象ったお菓子をいただく。目の前に広がる奈良盆地、贅沢な空間である。

さて、慈光院には片桐氏の家紋「割違い矢羽根」紋がそこかしこに描かれ、今回の目的を果たしたことであった。先の和菓子をお土産に買うと、栞には「割羽違い」とありました。片桐氏の家紋の名称は「割羽違い」で一件落着かな。

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大和小泉といえば慈光院、ここも「割違い矢羽根」紋

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片桐且元ゆかりの茨木城から移築された茨木門

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慈光院の寂び寂びとした境内

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お茶菓子も「割違い矢羽根」型

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そこかしこに「割違い矢羽根」紋

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書院からは奈良盆地が

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提灯の箱にも「割違い矢羽根」紋

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ふたたび茨木門


慈光院を辞したあと、中世小泉氏、近世片桐氏が拠った小泉城址を探索。小高い丘に主郭を置き、周囲に武家屋敷があったようだが、いまは丘上に城址を示す石標があるばかり。遺構としては切岸状の地形、かつての堀跡であろう溝が残っているばかりだ。慈光院でいただいたかつての町割り図を見ながら城址周辺を歩いてみたが、名残らしきものは乱せなかった。


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小泉城址

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堀跡


そこから、かつて暮らしていた分譲地を経て、大和小泉駅に帰っていった。むかしには気づかなかった町の風景、見落としていた歴史に出会えたいいミニ旅であった。


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あれから30年。まだ、旧宅が残っていた

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通いなれた通勤路

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田んぼだったところにバスターミナルが


わが想いでの町―大和小泉。町は大きく変わっていたけれど、小泉神社、慈光院はまったく変わっていませんでした。町の景観における寺社の存在の大きさを再認識した。ほぼ二十数年ぶりにゆっくり歩いて、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」を実感したことでした。


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