2009年03月17日

石鳥居から一本杉を経て穴太へ

一乗寺山城址を探索したのち、天気も良好、予定通りもう一つの一乗寺山城址(仮に比叡一乗城址)を探りながら一本杉へ、そして、壺笠山城址を攻略して穴太へと下ることにした。まず、城址から石鳥居まで歩き、そこでウサ手作りのオニギリで腹ごしらえを済ます。

一本杉-石鳥居
石鳥居、鳥居右手の山道を登る

石鳥居から山道に取り付く、よく踏み固められた道は快調そのものだ。途中、城址のような地形が現われるが、規模からみて比叡一乗城址の前線基地であろうか。山城は恒久的に造られた近代の城と違って、合戦のたびに構えられた・・・いわゆるキャンプ地のようなものだ。それゆえに、戦いが終われば壊されるか、捨て去られることになり、遺構は風化にさらされ城址と判断するのがまことに難しいことになる。

一本杉-山道 space_w 一本杉-砦跡 space_w 一本杉-分岐
一本杉へ  砦跡の遺構か?  比叡アルプスとの分かれ道

ともあれ尾根道を歩くこと約二十分、一本杉と比叡アルプスの分岐点に到着。一本杉方面にしばらく歩くと、曲輪跡と思わせる削平地が連続する地形が現われる。さらに尾根方向に巻いて行くと、堀切、曲輪が連なっている。高い切岸、連続する帯曲輪、さらに一本杉方向の尾根を穿つ堀切など、相当な規模の山城のあとだ。比叡一乗寺城址は浅井・朝倉連合軍が比叡山と協調して、織田信長と対峙したときに構えた山城である。城址と思われる一帯は、比叡山も間近に見え、相当の兵員が収容できる広さである。一本杉と一乗寺山方向とを結ぶ道を扼する立地といい、断言はできないが限りなく比叡一乗寺城の遺構と思われた。

一本杉-城址1 space_w 一本杉-城址2 space_w 一本杉-城址3
比叡一乗城址か? 堀切、帯曲輪、切岸が見事に残る遺構群

一本杉-比叡遠望 space_w 一本杉-展望台 space_w 一本杉-東海道
途中の道から比叡山を望む  一本杉に到着  東海自然歩道に進む

比叡一乗城址より一本杉へ続く尾根からは左手に比叡山、右手には遠く比叡平が見え隠れする。やがて、一本杉に到着、展望台からは京都市街、大津市街、琵琶湖を一望できる。一息いれて、比叡山ドライブウェイから分岐する東海自然歩道へ。自然歩道もよく踏み固められた快適な道だ。やがて、絶壁のような急坂に設けられた段々が続き、慎重に降り立ったところが穴太方面と滋賀里方面との分岐となる。迷うことなく穴太方面の道をたどったが、道は谷筋の広い林道となり、めざす壺笠山に行くとは思われない。途中で発見した山道に分け入ると、尾根のところで東海自然歩道と合流した。が、右か?左か?どちらに行けば壺笠山に通じるのか分からない。直感をたよりに右方向をたどると、なんと比叡山ドライブウェイが目の前に・・・、先の分かれ道から上がったところへと逆戻りをしてしまったのだ。気を取り直して、いま登ってきた道を引き返す。先の合流点を通り過ぎ、手元の地図で地形図を頭に描きながら、ひたすら山道を上り下りする。やがて、壺笠山と穴太の分岐を示す看板が現われ、細尾根を登っていくとやっと目指す壺笠山城址に到着だ。
主郭を取り巻く帯曲輪に足を踏み入れると、足元には石が散乱、切岸の一部には石垣が残っている。主郭は雑木と藪に覆われ、まったく眺望はきかない。往時は、比叡山はもとより、琵琶湖対岸の草津から西南山麓の大津一帯が手にとるように見えたことであろう。城址は思った以上に小ぶりで、この程度の城を山麓からかなり隔たった山上に築く必要があったのかと首をひねるところだ。あとで調べてみると浅井・朝倉勢は、比叡山上に陣取ったとき比叡山の各所に城砦を構えた。壺笠山城は山麓に陣取る織田勢の動きを察知し、各城砦に通報する任を担っていたようだ。浅井・朝倉勢が引き払ったのち、壺笠山城は明智光秀の支配するところとなり、現在残る石垣は光秀によって修築されたものだ。

一本杉-大津遠望 space_w 一本杉-分岐2 space_w 一本杉-壺笠1
山の切れ目から琵琶湖が  壺笠山への道  壺笠山城址に到着、石垣が…

一本杉-壺笠2 space_w 一本杉-壺笠遠望 space_w 一本杉-滋賀里駅
主郭の高い切岸  穴太から壺笠城址を振り返る  滋賀里駅に到着

城址から穴太方面に下ると林道へ、ところが、道は行止りになっている。それならと尾根に見える山道へ分け入ったが、こちらも途中で行止りだ。さらに道を引き返すと、穴太方面へと通じるらしい広い道があった。ところが、その道も進むにつれ倒木が増え、湿気も強くなり、何やら忘れ去られた道のように思えてくる。「引き返すか?」と一抹の不安が胸にきざしたが、もう進むしかないと下っていくと堀切道のような道となり、どうにか山麓にたどり着くことができた。一時は、狐につままれたような気になったが、京都から滋賀までの山歩き、なんとか目的達成だ。
ここのところ京都方面の手入れが行き届き、案内標識も充実した道を歩いてきただけに、滋賀方面の山にはいささか泣かされた(丹波の山城探索に比べれば、山道はしっかりしているが)。とあるブログによれば、壺笠山界隈はダニが多いという、たしかに湿気の多い下り道を歩いてきた身としては実感するところだ。山城探索は木々の葉っぱが落ち、下草が枯れ、蛇や虫なども冬眠している晩秋から晩冬までがシーズンだ。そろそろ、蛇や虫が這い出してくる春がくる・・・が、許す限り山城探索を続けんとするクマです。ただ、ウサは嫌がるだろうな・・・間違いなく。 By kuma

 *付記:あとで調べたところ、比叡一乗寺城ではなかろか?と推測したところが城址であった。
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2009年03月09日

四条発、東山から粟田口を経て四条へ戻る

土曜日に続いて、山城&山歩きを楽しんできた。ウサは昨日の疲労と花粉症のため「行かへん」とのことで、一人行だ。今回の山城攻略は将軍足利義輝が八坂の塔の東方、霊山の尾根に構えた霊山城址だ。ものの本によれば墓地の造成によって城址は消滅したというが、資料館でゲットした簡単な縄張り図を手に城址探しに出発した。

霊山-遠望
八坂の塔後方の山上に霊山城址がある

四条大橋を渡って、建仁寺境内を経て八坂の塔へ、人手で賑わう二年坂から高台寺、右手に見え隠れする山が霊山だ。地図を見ると城址へは護国神社にある坂本竜馬の墓所後方に登り口らしきものがあり、まずは竜馬の墓に詣でてから城址を目指そうとした。ところが、なんと入場料三百円とあり「え〜っ」という感じだ。けち臭い話だが竜馬の墓所参拝は取りやめて、もう一つの登り口である正法寺の墓地を目指す。墓地の外れの崖を強引に攀じ登ると、よく踏み固められた山道を発見。ちなみに、竜馬の墓地方面に下ってみると、ガッチリと金網でバリケードされ「立ち入り禁止、ここから先有料」のカンバンが付けられていた。さすがに京都の神社・仏閣はしっかりしてはるな〜。

霊山-建仁寺 space_w 霊山-八坂の塔 space_w 霊山-愛宕山遠望
建仁寺の楼門  橙の木越しに八坂の塔  正法寺境内から愛宕山を遠望

で、城址をめざして山上へ。と伊藤博文の碑というどでかい石碑が現われ、振り返ると木立が邪魔しているものの京都市街から愛宕山までが一望できる。縄張り図と見比べてみると、どうやら石碑のある削平地が主郭のようだ。主郭から南西側の山腹を木々越しに見透かすと、なにやらヒナ壇状の削平地が見える。印象としては風化と藪化が進んでいるが、幾重にも設けられた腰曲輪、崩れかけているが切岸も残っている。主郭の東直下には、その先の尾根とを穿つ堀切が設けられ、さらにその先には土橋をもった竪堀状の遺構も確認できた。城址を振り返ると主郭の高い切岸と堀切、左手尾根に連なる曲輪群が確認でき、なかなかどうして立派な城址だ。

霊山-城址01 space_w 霊山-城址02 space_w 霊山-城址堀切
霊山城址を探索 - 主郭下の曲輪  曲輪の切岸  主郭東の堀切

霊山-城址主郭 space_w 霊山-清水分岐 space_w 霊山-将軍塚へ
城址主郭を振り返る  清水との分岐  将軍塚に続く尾根道

霊山-将軍塚 space_w 霊山-粟田口へ space_w 霊山-円山分岐
将軍塚  将軍塚から粟田口へ  円山公園への分岐

霊山城址をあとに、将軍塚へと向かう。山道は快適で、ほどなく清水寺方面との分岐へ到着。一帯は土橋と竪堀?、虎口の跡?といった地形で、まるで城址のような雰囲気だ。清水寺から登ってきた場合、ここから霊山城址へと進むところだが、城址方面は「この先行止り」の標識が立てられている。護国神社方面からの登りと東山トレイルからの分岐が、ともに「行止り」となった時点で霊山城址は幻の城址になってしまったようだ。さて、将軍塚に続く尾根に取り付き、山道をしばらく歩くと唐突に将軍塚駐車場へと到着だ。そもそも将軍塚とは平安遷都にあたって桓武天皇が、都の鎮めの意味を込めて武将の像を埋めた塚を築かせたのが始まりといわれる。その後、国家に異変が生じようとしたとき、塚が鳴動したという。いま大日堂が建立され、その庭園に設けられた展望台から見る京都市街の眺めは素晴らしいパノラマだ(入園料:五百円)。トレイルコースは大日寺山門の手前の標識から山道に分け入り、大日寺に沿って北方へと続く。円山公園の分岐を通り越し、都ホテルの敷地をかすめつつ、粟田口へと下っていく。粟田口に到着すると、府立図書館に向かい借りていた本を返却。あとは、南禅寺→知恩院→八坂神社とブラブラ歩きで、ウサが一緒なら許されない菊正宗パック(一合)を片手に四条河原町を目指す。ほどよい疲れにアルコールがよく滲み通る、つまみに買ったたこ焼き(六個三百円)も美味い、これはこれで癖になりそうだ。

霊山-下山 space_w 霊山-八坂の梅 space_w 霊山-八坂楼門
踏み固められた山道が続く  八坂神社の紅梅  八坂神社の楼門

これまで、嵐山方面の西山トレイルコース、鹿ケ谷から大文字山、北白川の白鳥越えから雲母坂、そして、今回の将軍塚から粟田口への東山トレイルコースを断片的に歩いてきた。いずれも道がまことにきれいで標識も要所に立てられていて、快適な山歩きが楽しめる。とくに東山トレイルコースは、中世以来の道がそのままコースになっており、城址、寺院跡などなど、知らず身をもってそれぞれの時代史が体感できるところである。いつまで京に住み続けるのかは分からないが、可能な限り、京周辺の山城攻略&山歩きを楽しもうと思っている。by kuma

posted by うさくま at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年03月08日

北白川から白鳥越えを経て修学院へ

昨日、ウサと一緒に北白川から白鳥越えを経て石鳥居、雲母坂から修学院までを歩いてきた。四条烏丸より市バス3系統に乗り三十分、終点北白川仕伏町で下車、トレイルのルートでもある「北白川史跡と自然の道」の標識が見える。以前、生山山上の北白川城址を訪ねたとき、山上から下ってきた道だ。今回は、北白川城の南端に位置し志賀越えの道を押さえる南城址への登り道から取り付いた。

北縦走-登り口
旧来の登り口にはマンションが建っていて登れない

山上に展開する北白川城址群は、瓜生山山上のものを本城(勝軍地蔵山城)に、東尾根上に白鳥越えと地蔵谷からの道を押える東山新城群、そして、南尾根城址がある。本城と東山新城は城址ファンにも知られているが、南城址はいささかカゲが薄いようだ。しかし、実際に登ってみると、堀切、曲輪、帯曲輪が配され、主郭などの切岸も見事に残っている。なかなか、見応えのある城址である。城址の北端は「北白川史跡と自然の道」に接し、踏み固められた山道が白鳥越えへと続いている。尾根に取り付き、東山新城で昼食を摂り、新城の北側に残る北城址群を経て、比叡山方面へとトレイルルートをテクテクと登り続ける。天気はいいし、ほどよい温かさで快適そのもだ。

北縦走-南堀切 space_w 北縦走-南切岸 space_w 北縦走-東新城
北白川南城址の堀切  南城址主郭の切岸  山上尾根の東新城へ

北縦走-大岩 space_w 北縦走-一乗寺城 space_w 北縦走-大鳥居
堀切を思わせる大岩  一乗寺城址を分断する白鳥越道  石鳥居に到着

北縦走-水飲対陣 space_w 北縦走-千種卿碑 space_w 北縦走-細尾根
水飲対陣の跡碑  千種忠顕卿戦死の碑  雲母坂に通じる土橋状の細尾根

北縦走-雲母坂城 space_w 北縦走-雲母坂 space_w 北縦走-石碑 
雲母城址の遺構か? 狭い雲母坂をひた下りる  雲母寺跡の碑 

城址、旧跡を巡りながら雲母坂の堀切道を下りきり、修学院バス停についたときは夕闇が広がりつつあった。全行程、テクテク上り下りすること、約6時間の山歩きであった。 by kuma
posted by うさくま at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2009年03月01日

大文字山から中尾山を縦走する

ウサと娘のポチとHYさんの四人で、大文字山から中尾山を縦走した。大文字山には如意ヶ嶽城址があり、北は銀閣寺より、南は蹴上より、東は大津の三井寺より、そして西は鹿ケ谷よりと様々な登りコースがある。ウサクマ一行が選んだのは、如意ヶ嶽の呼び名のもととなった如意寺跡をたどりながら大文字山・如意ヶ嶽へと登っていく鹿ケ谷コースだ。四条烏丸駅で203路線バスに乗り換え、真如堂前停で下車、登り口の目印である谷の御所・霊鑑寺を目指す。霊鑑寺すぐ右手の道に「此奥 俊寛山荘地」の石碑を確認、霊鑑寺の白壁に沿って坂道を登っていくと、道は円重寺、波切不動尊へと続き、やがて人家は途切れて談合谷へと入っていく。

大文字-菱形基線測点
目指す大文字山頂上にある菱形基線測点

コースは東山トレイルの一部だけに要所には案内板が立てられ、路面もよく踏み固められていて歩きやすい。とはいえ、渓流沿いの急坂であり油断は禁物だ。しばらく登り続けると、石垣や石段など僧坊跡と思われる遺構があらわれ、かつて寺院が存在していたことが実感される。一方、渓流には大小の滝が見られ、寺院跡の遺構とあいまって飽きさせない。さらに登っていくと、岩の上に「俊寛僧都忠誠之碑」が現われる。俊寛は後白河法皇の側近で、平家転覆の陰謀に加わり、鹿ケ谷の山荘で密議を凝らした。企ては多田行綱の裏切りで破れ、俊寛は遠く鬼界ヶ島に流された。世に名高い「鹿ケ谷の陰謀」事件で、談合谷と呼ばれるようになった故事でもある。石碑のある場所からは京都市街が眼下に広がり、俊寛らは京の町を見下ろしながら気勢をあげていたのではなかろうか。さらに登っていくと、ひな壇のような削平地、土塁などが現われ、一部の削平地には庭園跡と見えるところもある。ものの本によれば如意寺は、大津の園城寺を東門とし、鹿ヶ谷楼門の滝を西門とする広大な山域に堂舎が点在していたというが、それが誇張でないことが実感される。

大文字-登り口 space_w 大文字-西楼門跡 space_w 大文字-堀切道
霊鑑寺から山上へ出発  西の楼門跡といわれる遺構  山上へ続く堀切道

山道はよく踏み固められ、まるで堀切道のように山上へと続いていく。やがて、竪堀があらわれ、鹿ケ谷から登ってきた道と蹴上から上がってきた道、そして大津如意ヶ嶽方面からの道が合流する大文字四辻にたどり着く。そこからすぐ上が如意ヶ嶽から大文字山へ続く尾根で、見上げると竪堀が穿たれ見事な土橋が尾根をつないでいる。そこから三等三角点のある大文字山山頂まではあと一息だ。大文字山といえば五山送り火の大文字山を思い描くが、送り火が行われるところは三角点のある頂上から西方へと下っていった山腹にある。大文字山山上一帯には、応仁・文明の乱のころに城砦が築かれ、以後、乱が起こると城砦が築かれた。管領細川氏、近江守護六角氏、さらには将軍足利義輝らが京の争乱に際して大文字山山上の城砦を利用した。この山上を本丸とする城址は、如意ヶ嶽城と呼ばれたことから、大文字山、如意ヶ嶽の使い分けがいささか混乱する。

大文字-四辻 space_w 大文字-竪堀 space_w 大文字-木戸跡
大津から山科から…大文字四辻  尾根を穿つ竪堀  かつての木戸跡と思しき土塁

大文字-パノラマ space_w 大文字-横堀 space_w 大文字-土塁
山頂からの一大展望  城址には見事な横堀跡が残る  山上西側の土塁跡

大文字-西の岩 space_w 大文字-西の竪堀 space_w 大文字-火床から
西の門跡か?大石が  その先の尾根を穿つ竪堀と土橋  火床から市街を遠望

おりからの快晴もあって山上からの眺めは抜群、遠く大阪方面の高層ビルから奈良県の金剛山まで一大パノラマだ。山頂北側の尾根には如意ヶ嶽城址の曲輪がひな壇状に連なり、堀切、横堀、土塁も見事に残っている。頂上で昼食をとったのち、大文字焼きの火床に下って京都市街を展望、一度、尾根に戻って中尾山を目指した。中尾山には将軍足利義晴が築き、義輝が拠った中尾城址が残っている。そして、中尾城址をたどりながら尾根道は急坂となり、銀閣寺横の大文字山登山道へと降り立つ。行者の森石仏、八神社を経て浄土寺を左折すると、そこは銀閣寺の総門前だ。八神社鳥居のそばには由緒ありげな萱葺の門があり、表札を見ると「世継」とある。世継家は足利将軍に仕え、銀閣寺裏の砦を守ったという古い家で、上山春平氏の著作にも中尾城址発見の逸話として紹介されていた。実際に世継家の表札を見て、日本という国の歴史の古さというか、「ものもち」の良さというかが思われてなにやら可笑しかった。

中尾-堀切 space_w 中尾-主郭土塁 space_w 中尾-世継門
中尾城址最南端の堀切と曲輪  主郭南部の土塁  八神社鳥居横の世継家萱葺門

霊鑑寺から銀閣寺まで約四時間の山歩きは、鹿ケ谷一帯に散在する寺院跡、山上からの展望、そして山上一帯に残る城址探索と、まことに盛りだくさんな山歩きが楽しめるところだ。つぎは、蹴上方面から山上、火床を経て銀閣寺、いやいや銀閣寺横から千人塚を経て大津方面への縦走・・・などと、夢が広がっている。 by kuma
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2009年02月26日

嵐山城址から苔寺へ下る

先日、嵐山城址を攻略したあと鳥ヶ岳方面へ登っていくか、それとも引き返して苔寺に下山していくか悩んだ結果、苔寺を目指すことにした。嵐山駅方面への道と苔寺方面に通じる道との分岐点まで下山、そこから苔寺方向に面舵全開とあいなった。コースは松尾大社裏の尾根を南下し、苔寺へと通じるトレイルコースだ。よく踏み固められた快適な山道で、要所に標識も設けられ、まことに軽快な山歩きが楽しめた。
 
嵐山-案内図
分岐点の案内図
嵐山-分岐 space_w 嵐山-分岐点 space_w 嵐山-下山 
登り道から見た分岐点  案内板でコースを確かめる  堀切のような山道を下る  
嵐山-山道 space_w 嵐山-古墳1 space_w 嵐山-古墳2
まるで土橋のような道  途中には石室がむき出しになった古墳が散在している 
嵐山-羊歯の道 space_w 嵐山-雑木の道 space_w 嵐山-桂を見る
羊歯の生い茂った道   雑木林のなかの道  途中の尾根で桂方面のパノラマを楽しむ 
嵐山-篠の道 space_w 嵐山-竹林 space_w 嵐山-苔寺そば
軽快な山道が続く  竹林が現われると麓はすぐそこだ  苔寺を左手に見ながら上桂駅へ

京都には「京都一周トレイルコース」が整備され、それなりにハードな山歩きが手軽に楽しめるようになっている。今回歩いた松尾大社裏山のコースは、松尾大社を創祀した秦氏のものといわれる松尾山古墳群の存在でも知られたところで、歴史好きには嬉しいハイキングコースだ。途中には、松尾大社の磐座に通じるのではと思われる道もあった。こころ動かされるところであったが、酒好きのkumaとしては松尾の神様への冒涜になるようなこともならず、ズンズンと先を歩いていくウサを追っかけるカタチで苔寺へと下っていった。
ところで、西山の間逆に位置する東山にも「東山トレイルコース」が整備され、コースには北白川城、如意ヶ嶽城などの戦国山城が散在している。嵐山をたずねた翌日、さっそく北白川城址を攻略してきたが、東山のコースもまことに快適で、壮大な山城探索と併せて満足度十分なものだった。京都一周トレイルコースは、山歩きと山城(歴史)探索がセットとなっている。中世の道路の多くが尾根道であったことを思えば、山城がコースに存在していることは当然であり、将軍や戦国武将らが往来した道でもある。中世の道と山城がセットとなった山歩きコース、これは戦国ファンにとっては「まことに堪らん」ところではないか。  by kuma
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2008年12月21日

多紀アルプスに登る

篠山市の北方に聳える修験道の山、多紀アルプスに初めて登ってきた。多紀アルプスへの登山コースは、北の川坂方面から、西の栗柄方面から、東の筱見四十八滝から、南の火打岩方面からなどがある。今回の登山の目的は、中世に栄えた三岳修験道の足跡を訪ねることにあったため、小金口から登って福泉寺跡→小金ヶ嶽→大タワ→三岳・行者堂→大岳寺跡、そして火打岩へと辿るコースを歩いてきた。

小金口から登り始めてしばらく行くと谷川沿いの道となり、かつてお堂があったのではと思わせる古い石積みが現われ、登山道はそこを迂回するように谷川からそれ尾根方向へと登っていく。ガイドブックによれば谷川沿いの道をしばらく登るとあったが、他に道は見当たらないため、ためらわずその道を登っていった。ところが、これが大間違いで、三十分ほど登ったところで山道は途絶えてしまった。あらためて石積みのところまで戻り、谷川沿いに登り道を探すと、倒木の向うにそれらしき道がある…!やはり、谷川沿いに登山道があったのだ。一時間のロスタイムは冬の山登りには痛い、一本の標識さえあれば…といささか恨めしい。気を取り直して谷川沿いの道をひたすら登ること四十分、かつて修験道の道場として栄えた福泉寺跡へ到着。相当な大きさの建物があったとことを実感させる礎石群、大峰山との戦いを意識して作られたという堀切、馬駆場、さらに土塁と思しき遺構が残っている。しかし、寺跡は復興されることもなく、緩やかに野に返りつつあるようだ。

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谷川沿いの道                      福泉寺跡の礎石群

福泉寺跡から小金ヶ嶽頂上への道は、しばらく緩やかな上りが続くが、樹林の間から見える小金ヶ嶽は見上げるような高さである。果たして、整備された階段が現われた所から急坂となり、やがて階段が途切れると岩にしがみ付くようにしての登りが続く。高所恐怖症気味の身としては、へっぴり腰で岩を攀じるしかないわけだが、谷筋を隔てた三岳の雄大な山容、遥か遠くに連なる山並みなど折々に見える素晴らしい景色にしばし恐怖を忘れる。攀じ登ること二十分で頂上へ、そこから広がる展望は文字通り三百六十度、その大パノラマを楽しみながら昼食のおにぎりを頬張る。
腹ごしらえをすまし、しばしの休憩をとり、西方に聳える三岳を目指して大タワへと向かう。直角に下るかのような急坂を木や岩をつかんで下ると、そそり立った岩稜上を縫うように続く細い道を辿って行く。油断のできない岩稜を越え、緩やかな尾根道に出ると思わずホッとする。後方を振り返れば、いま攀じってきた岩稜の向こうに小金ヶ嶽がそそり立っている。その光景は異様な迫力で、修験の山に身を置いていることが実感させられる。のんびりと落葉樹の林を過ぎ、苔むした針葉樹林の中に続く道を下りきると大タワへと到着。一時間のロスタイムはあったが、小金口から大タワまで三時間四十分の行程であった。

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小金ヶ嶽方面から三岳を見る   小金ヶ嶽頂上
大タワへの岩稜の道          岩稜から遥か下方の町を見る

しばし休憩を取ったのち、疲れた身体に気合を入れて三岳頂上を目指す。
大タワから三岳への登山道は階段が整備されていて迷うことはないが、何やら神社に参拝すような気分である。たしかに小金ヶ嶽のような怖さはないものの、いつ果てるともなく山頂へと伸びる階段を、前方にどーんと見える三岳に向かって登り続けるのは単調で辛いものがあった。階段を登りきると鎖場が現われ、やっとの思いでそこを過ぎると平坦な尾根道に出る。後方を振り変えると、谷を隔てて小金ヶ嶽の厳めしい姿が見える。やがて、三岳の頂上手前にある行者堂に到着。行者堂には三岳を開いたといわれる役の行者が祀られており、なんともいえない鬼気迫る雰囲気が漂っている。まったく霊感のない相方のウサ公が「この堂は怖い」などという。おそらく、かつて三岳で行を積んだ多くの修験者たちの祈りが、いまも行者堂には充満しているのだろう。
とまれ役の行者像に参拝し、三岳頂上で小休止をとったのち、火打岩集落を目指して山をひたすら下りていく。途中、東側には谷を隔てて小金ヶ嶽がそそり立ち、西側には西ヶ嶽の雄姿が望める。三岳の登山道は小金ヶ嶽に比べると、勾配はあるもののまことに穏やかなもので、大岳寺跡を経て鳥居堂の旧跡まで、落ち葉の道を修験者になったかのように駆け下りてゆく。やがて、馬の背と呼ばれる土橋のような痩せ尾根が現われ、火打岩と丸山との分岐点へと到着。この時点で、冬の太陽は西方の山際に沈もうとしている。冬の日暮れは早い、さらに足を早めて火打岩へとひたすら下りていく。火打岩の登山口に着いたころには、すでに夕闇が包みはじめていた。大タワを出発してから二時間十分、小金口から火打岩まで一時間のロスタイムを含めて全行程五時間五十分の山歩きであった。 振り返ってみると、小金ヶ嶽は厳しい山で、三岳は優しい山であったような・・・。 

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小金ヶ嶽を遠望              三岳の行者堂

ところで、三岳修験の行は表と裏の二道に分かれており、表は金剛界廻りといってまず筱見四十八滝から峰々を経て三岳頂上の行者堂へ。裏は胎蔵界廻りといい、三岳頂上から西に向かい、西ヶ嶽を通って里の養福寺に入って滝の宮で水行をして終わるとある。今回、小金口から火打岩を経めぐったわけだが、次は火打ち岩から三岳を経て栗柄へのコースを目論んでいる。さらに、筱見四十八滝から大タワへのコースをたどることで、変則的ではあるが金剛界廻りと胎蔵界廻りを成し遂げたいと思い描いている。  by kuma
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