先日、淡路の某所より家紋講座の依頼をいただいた。それが引き金となって、いつか淡路島の山城へ行かねばと思う気持ちにとらわれてしまった。
今年の篠山は二十何年ぶりという雪の多さで、その結果として丹波・但馬の山々は雪が残っている状態である。今朝もウッスラと雪が積もっていたが、思い立って淡路に行ってきた。目的地は田村氏が拠った郡家城、蜂須賀時代における淡路治世の中心となった洲本城、安宅氏にゆかりの炬口城などなど。
丹南篠山口インターチェンジから自動車道に乗り、明石大橋を走りぬけ、淡路の津名一宮インターチェンジを降りる。ここまで、なんと一時間チョイという近さにビックリだ。しかも、雪の篠山が嘘のような、うららかな暖かい陽射である。 最初の山城である郡家城は藪だらけの小山にあり、登り道を探ったが見当たらない。手持ちの縄張り図と地理院の地図を頼りに城址の竹薮へ踏み込む、竹が折り重なっているものの曲輪、切岸、城址を東西に区画する横掘など、城址遺構はシッカリと残っていた。主郭部は広い削平地で、土塁を有し、切岸も高い。戦国時代、城として機能していころは、建物群が営まれ、武士らが暮らしていたことであろう。 郡家城を見る
曲輪と切岸
横堀か?
主郭部への虎口
城主田村氏は淡路国一之宮・伊弉諾神宮の神職も勤めていたともいわれることから、郡家城から供を連れて神宮に通っていたのだろうか。そのようなことを思うと、いまは竹薮に覆われているが優雅な光景が浮かんでくる山城跡ではあった。
田村氏の歴史を調べるため伊弉諾神宮に立ち寄り、社務所の方に中世の神宮、とくに田村氏のことに質問してみた。しかし、いまは田村氏を含む中世の歴史はよく分からないということで残念ながら得るところはなかった。
淡路島の暖かい陽射を浴びつつ、洲本方面に車を走らせた。洲本で昼食を取ろうとレストランを探したが見当たらない、ということでホテルも覗いてみたが心惹かれる店はない。
長閑な海辺
それなら、昼ごはんはあとにして洲本城に登ることにした。洲本城は、戦国時代、淡路を支配した安宅氏が築いた城がベースとなって、江戸時代に秀吉配下の大名により改修されたものだ。 城址に残る石垣群はシッカリとしたもので見ごたえ十分だったが、天守台に建つ模擬天主は驚くショボサであった。江戸時代の天守を復元したものでもなく、単に展望台として築かれたそうで、いまは老朽化のため立入禁止となっていた。鉄筋コンクリート製の模擬天主としては日本最古ということで、それはそれで価値があるのかも知れないが、やはり違和感は否めなかった。洲本城では「登り石垣」が最大の見所だが、今回は残念ながら実見できなかったのがは心残りとなった。 
洲本城の石垣
見ごたえのある石垣
梅が咲いていた

天主から洲本湾を見る
ここで遅くなった昼ごはんを食べることにしたが、すでに食堂やレストランは準備状態。ハングリーアングリーな相方を宥めすかして、いつもの通りスーパーで食べ物をゲット。腹を満たしたのち、三つ目の山城である炬口(たけのくち)城に攻め上った
炬口城淡路守護被官から勢力を伸ばし淡路を支配下においた安宅氏が築いた城で、洲本港を眼下におさめる小山に遺構が残っている。三好氏が勢力を伸ばすと安宅氏は三好氏の下風に立つようになり三好長慶の弟・冬康が家督を継ぎ由良古城に拠ると炬口城はその有力支城として機能したようだ。
虎口
土塁
洲本湾を見る
堀切
城址へは山麓に鎮座する炬口八幡神社から山道があり、アッサリと堀切から伸びる竪堀へと登りつく。城址は土塁で囲繞された二つの曲輪で構成され、山道にそって虎口が開いている。実際に歩いた印象は、山城というより居館跡という佇まいで、立地といい規模といい近江小谷城の山崎丸・福寿丸に似ているものであった。
三つの山城と一宮をめぐって今日の淡路遠征は、ひとまず幕引きとしてお土産を買おうとバスターミナルに寄ってみた。これといった掘り出し物もなく、丹波へと帰っていった。淡路島、丹波からめちゃくちゃ近かったが片道3,430円(ETC でなければ5,050円)はチョッと高すぎやしないか。ともあれ、講座までにもう一回くらい淡路に行きたいものだ。課題は相方が望む美味しいもの、山城とはちがうスポット訪問をどう盛り込むか、それが難しい。