2020年04月25日
湖西、西の佐々木氏の山城をめぐる
2020年04月05日
近江遠征、二日目。佐和山、観音寺
朝ごはんを掻き込み、二日目の近江城攻めに出陣。
今日の一城目は、佐和山城跡。
石田三成で有名な山城だが、浅井氏時代に磯野氏が守り
信長時代には丹羽長秀が城将として守った城でもある。
朝八時過ぎ、ホテルを出立。
龍潭寺近くの公営駐車場に車を停め、登山をスタート。
禅寺らしい雰囲気をまとった境内をめでつつ山麓の墓地を抜ける。
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2020年04月04日
近江遠征、一日目。男鬼から鎌刃
初日である今日のターゲットは男鬼入谷城と鎌刃城、
いずれも再訪となる境目の山城である。
むかし、男鬼入谷城へは河内の風穴経由で入ったが、
先年の台風被害で通行止めとなってしまっていて
城友さんからの情報で鳥居本からのルートをとった。
いずれのルートも一般車両では走れない山道である。
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2018年04月16日
近江湖西の山城群を攻める
2014年11月02日
近江の二日目、長光寺城と小堤城山城。
二日目は、相方と二人で湖南の山城である。
ターゲットは柴田勝家の「瓶割」伝説を有する長光寺城と
近江守護職を世襲した佐々木六角氏ゆかりの小堤城山城。
2014年11月01日
高取山城跡、上平寺城跡に登る
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2011年07月30日
連続講座 「近江の城郭‐歴史の舞台となった城」 に参加
かつて近江国とよばれた滋賀県には、1300箇所以上の山城遺跡が残っている。織田信長が築いた安土城址、六角氏代々が拠った観音寺城址、今年の大河ドラマで注目を集める浅井氏三代の小谷城など、有名無名の戦国城砦群が目白押しである。
先日、城郭ドットコムさんからの情報で滋賀県教育委員会主催の連続講座 「近江の城郭〜歴史の舞台となった城」 が開催されることを知り、さっそく第一回の講座 「和田城跡・和田支城跡」 に参加した。和田城は甲賀の有力武士和田氏の居城で、松永久秀と三好三人衆によって足利将軍義輝が殺害されたとき、奈良一乗院を脱出したのちの将軍足利義昭を庇護した和田惟政の城として知られたところだ。
連続講座−朝の部の講演会場、戦国ブームを物語る大勢の参加者
以前、甲賀武士の歴史を調べたときに、佐治氏・三雲氏・山中氏・多羅尾氏らの城跡を巡った。和田城もターゲットとしていたのだが訪ねる機会に恵まれず、今日やっと訪城が実現した。情報をいただいた城郭ドットコムさんと待ち合わせて近江に出陣、一路、集合場所の油日駅を目指した。
2011年04月04日
江北と江南の「境目の城」鎌刃城に登った。
山城仲間の播州さんから 「鎌刃城に行きませんか」 との誘いを受け、
二つ返事で 「ぜひ、行きましょう!」 ということになり、近江に遠征してきた。
鎌刃城は江南と江北の境目に築かれた山城で、太尾山城・長比城などとともに 「境目の城」 と称されている。一昨年の秋、戦国倶楽部のオフ会にはじめて参加したとき登城候補にあがったのだが 「場所的に蛭が多いところなので寒い季節を選びましょう」 ということになって、そのまま登らずじまいになっていた。
中山道番場宿の街道より城址を遠望 (右手奥の山上)
鎌刃城は旧街道中山道の番場宿を見下ろす山上にあり、伝によれば番場宿の地頭であった熊谷氏が築いたことに始まるというが定かではない。とはいえ、番場宿の一角に土肥氏の屋敷跡が残り、そのすぐ背後の山上には詰めの城であったと思われる番場城址が残っている。おそらく、土肥氏が番場を治めていた当時、鎌刃城は見張台、あるいは狼煙台などの施設として機能していたのではなかろうか。
2010年08月05日
佐和山城再訪
どうせ出かけるなら青春18切符を有効に使わなければ
ということで佐和山城を再訪してきた。
五月、戦国倶楽部さんのオフ会の時に城郭ドットコムさんとサクッと登ったが、
限られた時間だっただけに、見落としたところがあるようで
改めて登りなおしたいと思っていたのだ。
彦根駅前でレンタサイクルを借りて登り口のある龍譚寺へ、
午前とはいえ、すでにとんでもない暑さだ。
途中で佐和山の写真を撮りながら龍譚寺着、井伊神社を見て、
龍譚寺境内を抜ければ墓場沿いに佐和山城への登山道が続いている。
「猿が出没するので注意」のカンバンが気になったが
前に登ったコースをたどれば、城址東端の尾根に到着
そこから西に登って行けば塩硝蔵→西ノ丸→本丸へと続いていく。

東海道本線のレール越しに佐和山城を見る



猿注意のカンバン 西ノ丸の土塁 本丸から彦根城、琵琶湖を見る
西ノ丸の主郭側に築かれた土塁、西方に落とされた竪堀は見応え十分!
竪堀に沿った西尾根には階段状に曲輪が築かれている。
西ノ丸からは二の丸方面へ続く道があり、
先の土塁が連絡道を防御する格好の武者隠しともなっている。
主郭へは土塁の西端より急斜面を登る道が続いているが
縄張り図を見ると国道八号線側に大手があり、龍譚寺側は搦め手であったようだ。
おそらく、本来は大手より三の丸→二の丸と登っていたものであろう。
主郭に立って南を望めば彦根城から琵琶湖、北方を見ると伊吹山が見事に見える
東方は樹木に覆われているが往時は中山道を往来する人馬を眼下に見下ろす
近江国東北部を押さえる要害の地であったことが実感できる。

佐和山城を下山したのち、彦根城のまわりをサイクリングする。
彦根城もオフ会のとき訪城したが、今回の目当ては小谷城の遺構という西ノ丸三重櫓
内堀をぐるっと巡ったのち城内に入ろうと思ったが
堀を巡っていくだけで見どころが多く過ぎてタイムアウトとなった。
佐和山城・彦根城ともに見どころが満載で、今回も完全制覇とはならなかった。
見れば見るほど、歩けば歩くほど、ドンドン深みにはまっていくのである…城歩きは。
by kuma
2010年06月05日
近江、宇佐山城に登る
昨日、同僚の送別会で京都に出かけ、ポチの家に泊めてもらった。
せっかく、京都に出てきたのだからということで大津の宇佐山城に登ることにした。
宇佐山城は大津市北西の宇佐山の山上にある
織田信長の家臣森三左衛門可成が築いた戦国山城だ。
登る前に大津図書館でゲットした縄張図には
主郭(本丸)を中心として二の丸、三の丸で構成され、
比叡山へと通じる北方尾根の小山には出曲輪が築かれ
大手にあたる琵琶湖側の山腹要所にも曲輪が点在している。
城址へは山麓の宇佐八幡より大手道があり、急坂ではあるが
地元の小学生が立てた標識に沿って登っていけば迷うことなく山上に到着できた。
宇佐山城址主曲輪部の縄張図 (大津市立図書館蔵書より)
主郭・二の丸には放送局の送受信施設が建っており、見様によれば、
施設群が当時の建物の規模を彷彿させ、それはそれでいいか!とも思えた。
城址を歩いた限り、遺構そのものは大きな改変を受けてはいなかった。
とくに、主郭北東部、二の丸東の帯曲輪に見事な石垣、
主郭と三の丸の間の大堀切、主郭北直下の武者走りを思わせる側溝など、
見逃せない遺構がそこかしこに残っていた。
主郭北東部の石垣址 ・ 主郭北直下の武者走り? ・ 主郭から二の丸を見る
2009年09月03日
近江、境目の城に登る
今年も遅まきながら青春18切符を購入。青春18切符は鈍行の旅を厭わなければリーズナブルな切符で、昨年の夏は備前方面、紀伊田辺方面の山城登りに活用した。今年は、かねてより計画していた近江方面の山城攻略に遠征である。まず、江北と江南、美濃と近江の境界に位置する米原近辺の山上に築かれた、文字通り「境目の城」である米原の太尾山城址と柏原の長比城址に登って来た。
はじめに登った太尾山城は、JR 米原駅東方の山上にあり、中山道と北国街道の分岐点にあたる要衝の地を押えている。中世、江北を領した佐々木京極氏が築いた城だという。太尾山城が確実な歴史に現れるのは、応仁の乱最中の文明三年(1471)、近江に侵攻した美濃の斎藤妙椿が「米原山」で戦ったときで「米原山」は「太尾山」のこととされている。いま残る城址は浅井氏と六角氏との抗争、その後の浅井長政と織田信長との抗争に際して修築されたものであるようだ。
北城の主郭より米原駅、琵琶湖を遠望
2009年02月03日
安土城址に登る
先の日曜日、ウサクマと娘二人の四人で近江に行った。目的は琵琶湖と水鳥、雪の比良山系をのんびり見ながらの湖岸ドライブであった。山科から大津へ抜け、近江大橋を渡って湖岸道路へ。天候には恵まれなかったが、随所で水鳥の群れを横目に見ながら、草津、守山を経て近江八幡方面へと向かった。と、岡山城址のカンバンがあらわれた。岡山城址は九里氏が拠った城で、政争に敗れて近江に逃れた足利将軍義澄を匿ったことで知られる城址だ。ここで山城モードにスイッチが入り、渋る家族の了解を得て、行き先は安土城址へと変更にあいなった。
安土城址には一度登ったことがあり、その後、観音寺城址や伊庭城址などを訪ねたときに近くを通り過ぎるばかりで、再訪することはなかった。大きな理由は、かつては自由に登れたものが、有料(拝観料大人:500円)になったことで料金所以外の所からは登れなくなったことにある。安土城址は全山に曲輪が散在しており、登り口が一箇所に限定されたことが、まことに一方的に思われて「なんだかな〜」と敬遠してしまったのだ。とはいえ安土城下は、いま探索を続けている丹波波多野氏が最期を迎えたところであり、なによりも戦国の山城として魅力的な城址である。加えて、安土城址ならウサ公はともかく、娘たちにも否やはないと踏んだのだ。
天守閣跡から北方を見る、かつては水をたたえる内湖であった。
以前にきたときの安土城址は、発掘作業が進められていたこともあって工事現場のような雰囲気であった。ところが、いまは石垣や曲輪などがきれいに整備され、立派な説明板も設置されている・・・拝観料は有効に活用されているようだ。さて、料金所を入ると目の前に壮大な石段が山上へと続き、両脇には豊臣秀吉、前田利家ら家臣屋敷跡の石垣が連なっている。石段には石材として石仏、五輪塔、さらには仏足石までが用いられており、戦国武将の合理性に驚かされる。城址は信忠屋敷跡、黒門跡、二の丸を経て山上の本丸へと続き、二の丸の一角には豊臣秀吉が造営した信長廟が祀られている。本丸跡には千畳敷といわれた御殿の礎石が残り、背後には天守閣を支えた高石垣が聳えている。改めて登ってみて、やはり安土城址は素晴らしい城跡であった。城址の要所には標識や案内板が整備され、木々や下草もほどよく刈り取られ、かつては木々で邪魔されていた天守からの眺めもバッチリだった。
石垣が残る山麓の家臣屋敷跡 大手から山上に続く石段
石段として用いられた石仏 天守閣跡の礎石群
下山は総見寺跡を経るコースを辿った。総見寺は信長がみずからの菩提寺として建立した寺で、安土城の西方にあった。本能寺の変ののち、安土城が炎上したときには類焼を逃れたが、幕末の安政元年(1854)に本堂など主要な建物を焼失してしまった。その後、本堂は徳川家康の屋敷跡という曲輪に再建され、かつての寺域には見事な姿の三重塔、二王門が残り、いずれも重要文化財の指定を受けている。焼失した本堂跡からは西の湖が遠望でき、その遥か遠くに叡山の峰が連なる様は絶景である。大手の石段から曲輪を経て本丸、天守閣跡へ、そして総見寺をたどる安土城址めぐりは、その展望のよさも含めて戦国時代を堪能できるところだ。これで『500円は安い!』と思ったのだから、まことにいい加減なものだ。
総見寺本堂跡から見た西の湖
総見寺二王門 金網越しに見た阿仁王像
安土城址は丹波の山城のように尾根を攀じ登り、雑木や藪の生い茂った曲輪や堀切を探検するということもなくスッキリした城歩きが楽しめた。もっとも、城址の全域には雑木や藪に覆われた曲輪跡が多く眠っており、それらを探索したい気持は強く持っている。しかし、それには面倒な手続きが求められそうで、ちょっと億劫ではあるが・・・。 by kuma