2013年04月20日

但馬の山城攻めに遠征

いま、なにかと注目を集めている天空の城ー竹田城、
その南方に位置する戦国山城―岩洲城(山口城)に登った。
同行は、山城仲間で戦国倶楽部の中心メンバーである三宅さんだ。

岩洲城は数ある竹田城の支城の一つで、
天正五年(1577)中国攻めを進める羽柴秀吉が、
播磨との国境生野口から但馬に侵攻したとき、竹田城の前衛を担った山城だ。

岩洲城_眺望
祠のある曲輪跡からの見事な眺望

竹田川沿いの山麓に登城口の目印となる妙見宮石碑があり、そこから崖と見紛う急斜面を九十九折の滑りやすい山道が延びる。恐々登り切った妙見宮からの展望は絶景、おそらく、ここがもともとの城址だったようで竹田城の前衛としては格好の地を占めている。
目指す岩洲城は、妙見宮背後の岩場を断ち割った二重堀切を越え、これまた滑り落ちそうな細尾根を激登りした頂上にあった。

岩洲城_堀切
岩盤を削った尾根先の二重堀切

岩洲城_主郭
主郭部の切岸と腰曲輪

岩洲城は主郭の櫓台を伴った土塁が特徴的だが、全体にシンプルな縄張りの小さな山城だ。
伝によれば、太田垣氏に属した南但馬の土豪物部氏・足羽氏らが拠り、秀吉軍を迎撃したがわずか一日の戦いで敗走したという。登った実感としては、天然の防御をなす妙見宮に至るまでの絶壁において攻城方は相当の犠牲を強いられたことであろう。しかし、物量にまさる秀吉勢の猛攻撃に対して、但馬勢は一日の防衛戦が精一杯だったようだ。
岩洲城を落した秀吉軍は竹田城も一蹴し、山名氏の拠る有子山城に迫った。そして、続く天正七年の第二次但馬攻めによって但馬の中世は幕を閉じた。

秀吉勢が席巻した天正のころより約三百年を経た文久三年(1863)、ふたたび岩洲城は合戦に舞台となった。
すなわち、平野国臣ら勤王の志士が生野代官所を襲撃した生野の変(生野義挙)が起こり、志士らは岩洲城尾根先の妙見宮に立て籠もった。しかし、決起は時期尚早に失し、追討軍に敗れた志士たちは、岩洲城の山麓で自刃した。志士たちが最期を迎えた地には山口護国神社が鎮座し、境内に散見する「桜」の神紋が志士たちの散華を物語っているかのようだ。

奇しくも中世から近世、近世から近代への過渡期に名を刻んだ岩洲城。
まことに小さな山城だが、そこに刻まれた歴史は本城にあたる竹田城に劣らないものがあった、といえそうだ。たかが山城、されど山城というしかないが、ときに思いがけない城史と遭遇できるのである。

 
岩洲城を堪能したあとは、今日のもう一つの目的地となる
但馬垣屋氏の主城というべき楽々前城攻めである。

楽々前_201304-1 楽々前_201304-2
文字通りの大堀切               圧倒される畝状竪堀
楽々前_201304-3 楽々前_201304-4
主郭部に散在する石垣    高い切岸とキレイに削平された曲輪

三宅さんとウダウダ城談義をしながらの再訪だ。城域の広さはもとより、曲輪群、土塁、大堀切、見事な切岸、この城一番の見所である畝状竪堀、主郭部の石垣などなど・・・、相変わらぬ見るべき山城パーツが盛りだくさんな楽々前城であった。
途中から天気が崩れてきたため、全域踏破とはならなかったが、実にいい感じの但馬山城遠征を楽しめたことだった。
posted by うさくま at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 但馬の山城
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