2013年04月08日

摂津の旧家、今西家を訪ねる

今年の桜は昨年のゆっくりしたペースに比べて妙に早い。
そんな好い季節、大阪へでかけてきた。
目的は毎日文化センターで続いている福島さんの戦国講座である。
今日は早めに出て、摂津の旧家今西家も探索することにしたのだった。
摂津の今西家のことは北摂の中世国人領主を調べているときに知り、
その歴史を紐解いてみると、これが半端ではない旧家であることを知った。

今西家への最寄駅は阪急服部駅、服部駅に降りるのは
おそらく四十年ぶりくらいのことではなかろうか。
駅の雰囲気はかつてのままで、
服部天神、住吉神社などを見つつ今西家住宅を目指した。
今西家の周囲は住宅化が進んでいるものの、
未だむかしながらの雰囲気が漂っていた。

今西家は春日神社の社家中臣時風流辰市氏の一族で、12世紀の末、藤原氏から春日神社に寄進された荘園 「垂水西牧」 のうちの榎坂郷の現地管理者として派遣されたものであった。
「垂水西牧」 は摂津国豊島郡から島下郡にまたがる面積560万uという広大なもので、春日神社の経済を支える重要な荘園の一つであった。

垂水西牧に下向した今西家の祖は榎坂郷内に居を構え、土着すると戦国時代末期まで神官として、荘官として職に尽力した。
摂津国はその立地から戦乱に巻き込まれることが多く、中世には国人領主が叢生した。乱世においては荘官から武士化するものが多かったが、今西氏は武士化することも、管理地を押領して自立するということもなく、春日社家として進退した。しかし、直接、間接に戦乱の影響を受けるようになると居館を堀や土塁などで防衛し、管理地に介入する有力武家と関係を結ぶなどして、動乱期の摂津において社領維持、郷内の治安に努めた。

今西家

かくして、中世を通じて長袖者いわゆる公家として遇されたことで家と職を守ってきた今西家であったが、明智光秀との関係から秀吉と敵対、一時期没落の憂き目を味わった。

その後、故地に神官として復帰、いまに至るまで荘官の家として代を重ねてきた。このように、先祖以来の由緒を保ち、本貫地に住する今西家は全国的にも稀有な存在だろう。今回訪れた今西家の豪壮な長屋門の傍らには 「南郷目代今西家屋敷(大阪府教育委員会)」「南郷春日神社(春日神社宮司)」 と刻まれた石標が由緒と歴史を雄弁に語っていた。

今西家と同様に摂津国の旧家として続いてきた渡邊家は、直系子孫が途絶えたことから戦国以来の屋敷は売却されてしまい、アッという間もなく更地と化してしまった。それに比べれば、今西家はいまも奈良の春日神社と関係を保たれ、春日神社最大の祭礼である 「若宮おん祭」 にも参加されていると聞いた。
江戸時代の建物、奈良春日神社から移築された末社、古文書、戦国期の姿を伝える古墓が一体となっていまに伝わる今西家。国指定史跡となっていることゆえ渡邊屋敷の二の舞になる心配はない。とはいえ、博物館に陳列されるようなことにはならぬ、今西家の人たちが鎌倉よりの生活の場としてあり続けてほしいと願う。

今西家でおおいに成果をえたのちは、福島さんの講座である。
今回の講座の主題は「近畿の城郭と武将」、その第一日目となる今日の講義は「織田信長の安土城 ―画期か? 孤高か? 分かれる評価…」信長と安土城とくれば、語りつくされるほど語られているが、最近出版された千田喜博氏の研究成果などを踏まえつつ、変わらぬ福島節で講義を進められた。

今回からはパソコンを使い、福島氏が撮影された写真を見ながらの講義進行となった。それはそれで悪くはないのだが、以前のようにレジュメを見つつ語り、かつ白板に書くといったスタイルに比べると、写真を見つつ聞く話は何となく淡い感じでチョッと物足りなさが残った、かも。

でも、福島さんの山城、戦国に関しての情熱は相変わらずで
今回の「近畿の城郭と武将」シリーズも見逃せないものではある。

posted by うさくま at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索
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