2011年05月07日

京丹波へ。中畑城址→導観稲荷→上野城址を巡る

先日来、篠山に語り継がれる昔話の一つである「負けきらい稲荷」に数えられる稲荷を訪ね歩いている。負けきらい稲荷とは、負けきらいな篠山の殿様の面目をほどこした稲荷が化身した力士たちのことで、該当する稲荷は旧篠山藩領に散在している。ところが、力士の一人須知山導観を祀る稲荷だけが市外に鎮座しているのである。

導観稲荷の鳥居 導観稲荷の立派な赤鳥居

導観稲荷は先日登った須知城址の近くにあり、須知氏の平時の館址であったという上野城址があり、そこも目的地の一つとした。須知に向かって走っていると,導観稲荷手前の集落に中畑城址という看板と幟を発見、まったく予備知識のない山城だが地元の皆さんによって大事に保存されているようだ。せっかくなので登ることにした。

中畑城に登る

中畑_遠望

中畑城址を遠望する
中畑_虎口 中畑_主郭へ 中畑_主郭
主曲輪部の虎口  主郭を見上げる  意外に広い主郭 (北側に土塁)

城址への道を進むと「城址へ」「城木戸」と書かれた看板が立てられ、丹波では御馴染の獣除けネットをくぐる。城址に続く山道は踏み固められていてい、要所に道標・説明板が配置され、金毘羅宮 →愛宕神社 →秋葉神社を経て山上の城址へ迷うことなく登りつけた。途中にある祠は曲輪の名残と思われ、山道の両サイドに穿たれた穴は竪堀の原型を思わせる不思議な遺構であった。山上の城址曲輪群は、主郭部を中心として三方の尾根に曲輪が設けられている。まことに小さな城だが、西尾根の曲輪に天守台址があり、その北は土塁で囲まれた塹壕状の曲輪、その先の尾根筋には二重の堀切が確認できる。

中畑_眺望 中畑_天守台へ 中畑_堀切
主郭から城下を見る  西曲輪の天守台と呼ばれる曲輪へ  西端の堀切 (西尾根より)
中畑_概略図
中畑城址−概略図

主郭に立てられた案内板によれば、南北朝時代から江戸時代のはじめまで存続したとあり、「日本城郭体系」にもとり上げられた山城であった。城主は北道氏といい、江戸時代のはじめに落城したとあった。おそらく、戦国時代は守護代内藤氏に仕え、明智光秀の丹波攻めにも従順に接し、江戸時代になって山から降りたことが落城と伝えられたようだ。子孫は小谷・八田を称し。山麓の地名北八田は城主にちなむものという。
丹波はもとより全国には、このような小さな山城が五万とあり、そのほとんどが城主も歴史も曖昧で城址そのものも自然に還りつつある状態である。そのようななかで、わずかながらも城史が伝承され、地元の人に大事にされている中畑城址は貴重なものといえそうだ。

導観稲荷に参拝

今日の目的地である須知山導観を祀る導観稲荷神社は、中畑城址からはすぐのところにあった。篠山市内に散在する「負けきらい稲荷」は、総じて小さな祠が多いのに比べ導観稲荷は思っていた以上に立派な佇まいであった。しかし、やはり!というべきか…境内の一角に立てられている神社の由来を見ると、「負けきらい稲荷」のことには触れられていなかったのは残念であった。篠山市内に鎮座していないこともあろうが、いまのままでは神社名「導観」の謂れが忘れ去られる日も遠くなさそうだ。

導観稲荷_拝殿
導観稲荷の社殿へ

上野城を歩く

導観稲荷の次に訪れた上野城址は、須知一帯を支配した須知氏の居館跡で、その詰めの城にあたるのが須知城であった。地図をたよりに行き着いた城址は、むかし、須知城をはじめて攻めたときに訪問していたところであった。そのおりには気づかなかったが、改めて城址を見ると曲輪・土塁・横堀があり、虎口も備えている。立地も須知市街を見下ろす小高い丘にあり、領地を経営するための平時の城館としては、格好のところにあることが分かる。何事でもそうだが経験の有無は、目的地探しに手間取るうえに、見るべきところを見落とすものだと痛感する。城址は山側が造成されているが、主郭から西に広がる城域はよく遺構が残っている。

上野館_遠望
上野城址を池越しに見る(池から続く谷は堀址か?)
上野館_虎口 上野館_墓所 上野館_曲輪
東曲輪部の虎口と切岸  東曲輪の一角に祀られた須知氏の古墓群  曲輪と切岸

全体に小ぶりな城だが、主郭と二の郭、二の郭と三の郭を隔てる大堀切と土塁は見事なものであった。その構造は日吉町域に残る小林氏の築いた亀田城、宇野氏が築いたという野化館に相似している。日吉と須知の位置関係は目と鼻のところで、それぞれの縄張り・技術が似ているのも気のせいではないように思われる、一説に上野城址は職豊技術が入っているというものがあり、日吉から須知の城館群は丹波平定後に明智が改修の手を加えたのであろうか?。

上野館_東堀切 上野館_土塁 上野館_西堀切
東曲輪と二の丸間の堀切  二の丸北側の土塁  二の丸と三の丸間の堀切

上野城址の一角に須知氏の祖という景基の供養塔をはじめとした古い宝篋印塔・五輪塔の残片が祀られている。景基の供養塔はと見れば、宝篋印塔と五輪塔を合体したもので、長く顧みられなかったものを後世に整えられたもののようだ。その是非はともかくとして、戦国乱世を泳ぎ切れなった武士の哀れを感じないではいられない光景であった。
丹波の各地に残る山城・城館を訪ね歩くたび、その歴史の儚さに戦国時代の過酷さを痛感する。明智光秀の丹波攻めに抵抗して敗れ去った戦国領主たち、光秀に帰服したものの山崎の合戦において没落を余儀なくされた多くの丹波武士。その結果、丹波の戦国時代は分かりにくいものとなっている。それゆえに、丹波の山城・城館の探索はおもしろいのかも知れない。
 
posted by うさくま at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
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