2011年05月03日

綾部、甲ヶ岳城・高城山城を攻める

先日の上林谷の山城めぐりに続いて、またまた綾部の山城攻めに遠征した。今日のターゲットは、昨年末に登った高津城の東方に位置する甲ヶ岳城と中世の綾部市域に繁衍した大槻氏が築いた高城山城だ。いずれも、かねてより心にひかかっていた城で、一気に二城攻略を果たしてきた。

甲ケ岳城

最初に登った甲ヶ岳城は、綾部市南部を東西に貫流する由良川の南側に聳える標高290メートルを測る甲ヶ岳山上に遺構が残る山城だ。登り口は北麓にある中筋小学校西にある薬師さんのお堂そばにあり、ハイキングコースとして整備された山道が城址まで続いている。

甲ヶ岳_遠望
由良川を隔てた栗城址より甲ヶ岳を遠望(20101206)
甲ヶ岳_山道 ko_IMG_8489.jpg 甲ヶ岳_虎口
整備された登山道  尾根筋の堀切状の地形  主曲輪部の虎口

登り口に立てられた城址説明看板によれば、甲ヶ岳城は綾部三大山城の一つで、永禄七年(1564)、丹波守護代で八木城主の内藤宗勝が福知山盆地への進出拠点として築城したものという。天正七年(1579)六月、明智光秀の丹波攻めで八木城が陥落したとき、八木城を脱出した城主内藤氏一族の内藤正勝は再起を期して甲ケ岳城に落ち延びた。しかし、明智方の攻勢に敗れて討死、甲ケ岳城は廃城になったという。

城址へは 「甲ヶ岳登山口 1060M」 と書かれた道標が立つ分岐地点から尾根筋へと通じる山道に入る。道は広く明確なもので、途中に曲輪址と思しき平坦地があり、打ち捨てられたのであろうか貯水槽らしき施設が埋もれている。尾根との合流点には「甲ヶ岳まで 765M」の道標があり、そこから道は細くなるが踏み固められた明確なもので迷うことはない。やがて、尾根筋の要所に曲輪址であろう平坦地があらわれる。さらに、堀切であろう…か?竪堀かな?と思わせる地形があらわれる。
戦国山城は山上に主曲輪部を置き、山上から派生する尾根筋に出曲輪を設けるのがパターンである。それゆえに登る途中のさまざまな地形群は、いかにも山城の一部であるようにみえてくるのである。甲ヶ岳城の場合、丹波を席捲した内藤宗勝の築いた城であることを考えれば、尾根筋の平坦地、堀状の地形は曲輪や堀切と見てよさそうだが、竪堀はむかしの登り道かも知れない。いずれにしろ、山城遺構を見極めるのはとても難しいのだ。

甲ヶ岳_主郭
主郭部と秋葉神社の祠
甲ヶ岳_切岸 甲ヶ岳_土橋と堀切 甲ヶ岳_堀切
二の丸曲輪と切岸  土橋と横堀  主郭北側の堀切

急斜面の山道を登っていくと「あと150M」の標識があらわれ、そのすぐ先が虎口で、そこから山上まで曲輪が階段状に築かれている。曲輪は削平もきれいで切岸も明確だが、灌木が繁っていて探索には難儀をした。曲輪の一角に四等三角点を発見、さらに進むと土橋を伴った片堀切、ついで城域を二分する大堀切、そして、主郭部の北腰曲輪へ至る。北腰曲輪は堀切側に土塁を築き、主郭虎口を固める馬出しのようにも見える。
山頂の主郭は十分な広さを有し、中央部に秋葉神社の祠が祀られている。東部から南部にかけて土塁が築かれ、南尾根側に数段の曲輪群が確認できる。南尾根筋を縦走すれば、西南264メートルのピークより尾根を北西に捲いて高津城へと至る。城域は山上の主郭を中心に、尾根筋の東西200メートルにわたって遺構が連なり、全体的に西方と北方へ備えた構造であることが見て取れる。福知山方面への進出、さらに氷上郡の赤井氏を意識した内藤宗勝が築いた城であることが実感できた。

高城山城

二つ目の高城山城は、甲ケ岳城より北西に位置する八田盆地に聳える高城山に築かれた山城で、標高298メートルを測る山上に築かれた主郭を中心として東西、南に伸びる尾根筋、山麓に城砦が散在している。東方山麓を綾部から舞鶴に通じる街道が走り、足利尊氏ゆかりの安国寺、上杉氏発祥の地上杉なども散在する要地を押さえている。いまも、西方山麓を舞鶴若狭自動車道、南麓山腹を京都縦貫道が通じる交通の要衝であることに変わりはないところだ。一説によれば、高城大槻氏は安国寺の代官に任じられていたともいう。城址の立地を考えれば、「なるほど」とうなづyけるものがある。
山上の主郭に立てられた城址説明によれば、大槻備中守の居城で、南北朝時代の貞和(1345〜1349)以降に大槻左馬頭清宗が高城山上に城砦を構えたとある。大槻氏は室町時代を通じて何鹿郡の中北部に勢力をふるい、高城大槻氏をはじめ、栗・高津などに一族が割拠した。戦国時代の永正年間になると、さいさい上洛して将軍義澄に謁すなど奥丹波の有力国人として知られていた。やがて天正三年、明智光秀の丹波攻めがはじまると、ときの城主大槻左門清秀は赤井氏らと結んで抗戦したが、敗れて高城は落ち大槻氏は没落したという。 (一部怪しいところは調整した)

高城_遠望
南山麓−島萬神社近くより城址を遠望(左のピーク、右ピークは坊主山城址)
高城_土橋 高城_西曲輪 高城_登り土塁
尾根筋の土橋  西曲輪の塹壕状横堀(点線部)  登り土塁か?

城址への登り道は国土地理院の地図を見ると東・南・西の山麓から登山ルートがあり、東山麓から山上のNTT基地局に通じる山道が一般的なようだ。われわれは南山麓に鎮座する島萬神社に参拝し、すぐ西方にある教願寺裏手の切り通しに発見した山道から高城山に分け入った。山道はところどころ灌木や羊歯に覆われて消え入りそうなところもあったが、尾根筋の砦と思しきピーク、土橋状の地形などを越えていくと城域西方を画する堀切へとたどり着くことができた。
山道は堀切を越え曲輪に平行して続き虎口へと至り、西の曲輪群へと攻め込むことになる。城址は樹木が繁っているが探索に難儀するほどではない。曲輪は東尾根筋へと段状に連なり、西曲輪群の主郭部の北方に塹壕を思わせる帯曲輪が捲き、東方には登り土塁で南面を固めた腰曲輪が付属する。登り土塁がそのまま城道となり主曲輪部の西端曲輪へと至り、段状に連なる曲輪、曲輪を隔てる切岸などが確認できるが、曲輪群は灌木に覆われていて探索は諦めざるをえなかった。

高城_切岸 高城_虎口 高城_主郭
西腰曲輪の切岸  主郭虎口へのアプローチ  主郭の繁茂する木々と朽ちた祠

登り虎口より足を踏み入れた山上の主郭は潅木に覆われ、崩落した秋葉神社の祠が空しく朽ち果てつつあった。祠のとなりに城史を記した生々しい黄塗りの説明板がポツンと立てられ、生い茂った草叢のなかに四等三角点が埋まっている…、想像していた以上に荒涼とした光景である。城址そのものの残存状態は良好、綾部一帯には高城大槻氏の後裔を称する大槻家も少なくない、せめて東尾根のNTT基地局くらいに手入れされれば先祖を顕彰する素晴らしい史跡になるのにと、余計なことながら惜しまれた。
とはいえ、西方尾根より主郭に連なる曲輪群、主郭東方に築かれた土塁など山城としての見どころは少なくなかった。なににもまして圧巻だったのは主郭東方直下に切られた大堀切で、主郭との高低差は十メートル以上、二つの土橋を伴い、両端は竪堀として斜面に落とされている。山歩きの疲労と繁茂する潅木にグッタリしているときに出会っただけに、その素晴らしさに見入ってしまった。

高城_大堀切
主郭東の大堀切 (手前土橋)

『日本城郭大系』によれば、高城城は応永十三年(1406)の地震により大破したと伝えられている。また、大槻氏は延徳元年(1489)に、荻野氏・位田氏らとともに国人一揆を起こして一時期勢力を失った。そのようなこともあって、高城山城は荒廃した時期もあったのだろう。その後、戦国乱世のなかで勢力を回復した大槻氏は、たびたび上洛して将軍に拝謁するまでになった。いまに残る遺構はそのころに築かれ、整備・改修されていったものと考えられる。そして、南に伸びる尾根のピークには坊主山城、さらに島萬神社の手前の小山に島萬館、北西山麓や矢田川を隔てた南西山麓にも城館を築いて高城城砦群ともいうべき山城が形づくられたのであろう。
綾部市の南部地域に散在する山城を調べると大槻氏の名が頻出する。大槻氏の歴史を系統立ててたどることは困難となっているが、今回登った高城山城、既に登った高津城・栗城など大槻氏の築いた山城群は、大槻氏の勢力が相当なものであったことを語り伝えている。明智光秀の丹波攻めによって多くの史料が失われたとはいえ、綾部の各地に残る山城、大槻各家の存在が、大槻氏の歴史ひいては綾部の中世史に一筋の光をあてくれるように思われるのだが…。

綾部市域には、未だ訪れていない大槻氏の諸城をはじめ、志賀郷に勢力を張った志賀氏の諸城、位田の乱で大槻氏らと対峙した上原氏の城なども存在している。それぞれ、心を惹かれる山城揃いであり、折を見ながら一つ一つ訪ねて行こうと思っている。

【付記】 高城山城と表記したが、日本城郭体系などでは高城城と記されている。
posted by うさくま at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
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