2009年07月24日

武蔵武士足立氏の家紋を訪ねる

丹波市山垣は、中世、佐治庄の新補地頭として遠く武蔵国足立郷から移住してきた足立氏が領するところであった。いまも、山垣には足立氏の居城であった山垣城址、足立遠政の墓、足立氏の菩提寺などが残っている。さらに、小和田、遠阪、岩本、稲土などに一族が支城を築き、足立氏は一円を支配しておおいに繁衍した。
 
足立-城
山垣城址、山麓に足立遠政の五輪塔、左手の小山中腹に足立家の墓地がある

名字としての「アダチ」は「安達」「足達」「安立」などと書かれるものもあるが、「足立」と書けばほとんどが丹波出身の方ではなかろうか。それほど、丹波には足立姓が多く、その源となったのは山垣城主足立遠政であった。承久の乱の功により丹波国佐治郷を与えられた遠政は、承久三年(1209)に地頭として移住してきた。山垣城山麓の高台に遠政の五輪塔が祀られ、墓所を取り巻く玉垣の石扉に「酢漿草紋」と「五本骨扇紋」が刻まれている。

足立-遠政墓 足立-カタバミ 足立-扇
足立遠政の五輪塔  玉垣の石扉の「酢漿草紋」と「五本骨扇紋」

墓所左手の小山中腹には、江戸時代の墓石もみえる足立家の古い墓地があり、「五本骨扇紋」「剣酢漿草紋」がみられる。山垣城とは谷を隔てた西方の山麓にある足立氏の菩提所万歳山報恩寺の境内墓地にも足立家の墓石が林立し、それぞれ「扇紋」「酢漿草紋」が刻まれている。さらに、山垣の北方遠坂集落にある不遠山四方寺にも足立家の墓石が立ち並び、こちらは「扇紋」のオンパレードである。

足立-剣カタバミ 足立-報恩寺 足立-扇2
足立家の墓石の「剣酢漿草紋」  万歳山報恩寺  報恩時境内墓地の「五本骨扇紋」
 
足立氏の墓石を仔細に見て歩くと、「五つ木瓜輪に五本骨扇」、「三つ地紙紋」、「違い扇紋」などを刻んだものもあるが、それらも「扇」紋のバリエーションである。一方、それぞれの境内墓地には足立氏以外にも勝田家・山本家・三木家・雪山家などの墓石もあったが、いずれも「五本骨扇紋」が刻まれていた。元々は一族であったものか、あるいは家臣であった家が足立氏から紋を与えられたものか、今後、調べていきたいテーマである。

足立-扇3 足立-扇4 足立-扇5
五つ木瓜輪に五本骨扇  三つ地紙紋  違い扇紋

文字通り、青垣一帯は足立名字のメッカであり、「扇紋」の天下であった。これだけ、見事に名字と家紋がセットで残っているところは希少な存在ではなかろうか。 by kuma
posted by うさくま at 05:37| Comment(32) | TrackBack(0) | 家紋
この記事へのコメント
足立家のお墓が豪雨で流されって 少し移転してそうです  出来たら写真を取り直して頂きたいです。
Posted by at 2010年01月13日 01:20
足立家の墓が流れた…!?
山垣城址山麓の五輪塔でしょうか??
詳細を教えていただけますか。
お待ちしています!
Posted by クマ at 2010年01月15日 13:15
はじめてコメントを書きますが、わたしは東京都
杉並区高円寺にすんでいます。高円寺生まれの高円寺育ちです。丹波はどこにあるのか分かりませんがこの文章でいくと誤解をまねくと思います。
親戚のおじ(足立建設工業KK)も、東京ですし
菩提寺も東京です。話しは変わりますが私の従兄弟に茨城に住む相馬姓を名乗る親戚がいます。私の母が足立に嫁ぎ、母の姉が相馬に嫁いだということです。なにか因縁めいたことを感じています。平家と源氏、両家ともなかよく暮らしています。
Posted by 足立 勇 at 2012年02月11日 11:29
武蔵に残り続けた足立の末裔にあたるものです。
我が家の家紋は酢漿草ですので丹波足立氏も本来は酢漿草だったかもしれません。

祖父より以前は代々横浜に住んでいたようです。
明治期に集落の大半が足立姓になると混乱するとのことで本家と一番上の分家を残し、他家は名字を改めたと聞いております。
また、祖父は戦後茨城に移住し商売を始めましたが開業当初の顧客は昔からの繋がりで鎌倉の人が多かったそうです。
歴史の表舞台からは消えたものの鎌倉とのご縁はずっと続いていたということかもしれません。
Posted by 武蔵足立流 at 2012年06月06日 22:13
武蔵足立流 さま

書き込み、ありがとうございます。
先にメールをいただいた足立勇さんもですが、わたしのブログでは丹波を中心に書いておりまして、関東在住の足立さんにはご不満もあろうかと思いますが御寛容のほどお願い申します。

さて、酢漿草紋の件、おっしゃるとおりかもしれませんね。ただ、家紋のバリエーションという観点からは、扇紋の方多く、どちらが本来の家紋とはいえない状態にあるようです。

明治期に大半が足立姓になると混乱するため、本家と一番の分家を残して名字を変えたというのは大胆な話ですね。ちなみに、替えられた名字にはどのようなものがあるのでしょうか?また、それぞれの家で用いられている家紋は酢漿草ではなくなったのでしょうか?

あれこれ、興味深いコメントに接し、名字と家紋の面白さを改めて感じさせていただきました。替えられた名字、家紋など許容範囲で結構ですので、お聞かせいただけましたらと存じます。よろしく、お願いいたします。
Posted by kuma at 2012年06月25日 15:27
私の母方の祖父と祖母はいとこ同士でお互いの母親の出が足立?だとか。一方は安達?に嫁いだそうです。両方とも都内の大きな家で村長などもやっていたそうです。亡くなった母が足立を調べたところでは足立区か葛飾区辺りの陣屋か庄屋だったそう(よく聞いてなかった💧)
足立と言うと「足立区」を連想してしまいあまりいいイメージがなかったのですが、「足立氏」と言う鎌倉時代からの武士がいるとなると私と何か関係があるのかどうか知りたくなりました。
Posted by 私も知りたい at 2013年11月12日 23:28
丹波の青垣町は足立さんだらけで
武蔵国から遠く移住してきた先祖遠政の
五輪塔や菩提寺も残っています。
あた、足立一族の築いた山城もあり
つい先日も登ってきました。
Posted by 播磨屋 at 2013年12月14日 22:45
私も足立政○です。父は足立勇といいました。

私の一族は滋賀県高島市在住です。
丹波足立一族から琵琶湖西岸の三角州へ渡ってきた一族と聞いています。菩提寺は足立姓ばかりです。

今は旧武蔵国足立郡浦和村(さいたま市)に住んでいます。近くに足立神社が3ヶ所もあります。
Posted by 足立政司 at 2014年09月08日 05:39
足立さん

書き込みありがとうございます。
丹波から近江に移住した足立さんも
いらっしゃるのですね。

菩提寺は足立さんばかりとのこと
家紋もすべて一緒なのでしょうか?

よろしければ、菩提寺の名前を
教えていただければ機会をつくって
訪ねてみたいと思います。
Posted by at 2014年09月26日 12:52
鳥取県境港市の足立です。
私の住む境港市とお隣の米子市には足立姓が非常に多く、伯耆の国の足立氏と言われています。
丹波から亡命し、米子城主に仕えるようになったか、帰農した足立氏の末裔だと思われます。
Posted by 足立 at 2016年01月12日 01:45
境港の足立さん
書き込みを拝読しました。
島根に足立姓が多かったとは・・・
迂闊にも知りませんでした。
ちなみに家紋は、丹波足立氏と同じ
扇、あるいはカタバミなのでしょうか?
Posted by うさくま at 2016年01月14日 19:42
どうも境港の足立です。
我が家の家紋は丸に木瓜です。家紋としてはどこにでもある一番オーソドックスな家紋です。
伯耆の国の足立家は非常多く、他の家紋も色々見ますが、六曜や九曜紋もある一方、丹波の足立の様に扇やかたばみ紋は皆無です。
Posted by 足立 at 2016年01月16日 22:46
境港の足立です。
島根じゃなくて鳥取県ですよ。まぁ、山陰という括りではどっちもどっちですが。。。
足立姓が多いのは鳥取県西部の米子と境港です。
家紋は丸に木瓜か、丸に梅鉢が多いですね。
カタバミと扇は見かけませんね。
Posted by 足立 at 2016年02月01日 00:06
境港は鳥取県でした(しかも明記されてました)。
失礼いたしました m(_ _)m
先日、鬼籍に入られた水木さんファンの一人として
二度訪れながら、残念なことに家紋探索はしていません。
今年のうちに改めて水木ロードを訪ね、出雲界隈にも
足を伸ばしたいたいと思っています。
実現すれば、境港の家紋探索もしたいですね。
Posted by うさくま at 2016年02月06日 01:28
山梨の足立家です
我が家の先祖は鋳物師で流れを遡ると
福知山の出身だそうです
福知山の足立覚兵衛という鋳物師の子が
どういう縁か山梨で鋳物師を始めたようです

家紋は”下り藤”なので
どのタイミングで、この家紋になったかはわかりませんが・

多分、福知山の足立さんたちも
青垣に繋がってるのでしょうかね
Posted by 足立祐一 at 2016年09月14日 21:44
私は京都府福知山市字法用の生まれの足立です。青垣町佐治から榎峠を越えて直ぐの所(佐治から1里)です。
私が住んでいた頃は38軒ほどの部落でしたが、1軒を除いて全てが足立性でした。青垣には親戚も多く、青垣から移住して来た足立氏の子孫かと思います。全部落が農家だったことから先祖も百姓かと思っていました。
源氏の武家の子孫だと知ったときは何となく嬉しく誇りに思いました。
この事は子供や孫にも教え、励みにして生きてもらいたいと思っています。
Posted by 足立 勝 at 2018年02月04日 16:20
鳥取県日野郡の山本です。
突然に失礼します。
私の母方は「安達」・家紋は「九曜星」で、私も安達・足立氏の流れを調べております。ちなみに日野郡では安達が多いようです。私の勘違いかもしれませんが、鎌倉時代に伯耆国(鳥取県西部)の守護に鎌倉幕府の重臣安達氏が任命されていたような記憶があります。安達氏ですが元は足立氏で、その一部が安達を名乗ったのではなかったでしょうか?
九曜星の安達氏の情報があれば、よろしくお願いします。
Posted by 日野郡の山本 at 2019年07月27日 07:29
昨年の末頃、足立遠元をキイにしてネットを開いてみると「陰の系譜」くにふちのそんざいー という本の広告がいきなり目に飛び込んできました。
 私はこれは足立家について書かれた本だと直感、直ぐに購入して、今まで三回、いや四回よみかえしました。どちらかと言えば関東側からの史料に偏っていますし、作者個人の我田引水的な部分がありますが。ですが面白いですよ。一見の価値はあります。\1.980_ぜひ読んでみて下さい。足立家に生まれて良かったと目から鱗が落ちますから・・・
作者は桶川市にあった遠元屋敷に住んでいた小嶋勘大夫の子孫。
 私が書き始めている『乱王の譜』という小説をなぞったような内容です。

Posted by 但馬の足立です at 2020年01月25日 14:27
足立家が魚名流か勧修寺流かについての解明に取り組んで40年余りになります。この頃漸く、後者である事の結論に至りそうです。足立と安逹の違いもやがて明らかになるでしょう。ただ一つ中納言朝忠がどうして京都御所を包含する宏大な土御門邸を手に入れたのかが解りません。その土御門邸と資産を,朝忠の孫娘に入り婿して手に入れた藤原道長が、天下に名を馳せた。しかも道長の妾腹の長家が本妻倫子の猶子とされ、その後の天皇家・関白家の主流となっていくのですから歴史は面白い。さきにかきこんだ『陰の系譜』の作者、安逹の子孫だそうですけどね
Posted by 但馬の足立 at 2020年05月28日 17:53
先日、丹波市春日町牛河内を訪問しました。山垣城の落城の後、城主の長男が隠棲した地と云われています。なるほど、整備された寺の墓地にはそれと判る江戸初期からの墓石が並ぶ。家紋はほぼ共通して五本骨扇の中央に酢漿草が彫られています。これは初めて見ましたね。また灯篭には独立して酢漿草だけ彫られていたので、どうやら扇より酢漿草が上に位置付けられているような。そういえば山垣城の麓にある遠政公の墓地も左に酢漿草、右に五本骨扇だったような。
Posted by 足立 寛史 at 2020年08月24日 17:55
足立 at 様40年前から、神戸住まいしています、確か境港だったと想うのですが、安酸という姓をご存じでは有りませんか。もとは足立姓ですが安逹と酢漿草を組み合わせて安酸というせいにしたそうです。もと国鉄病院の院長をしてました。

足立政司様、高島市に足立遠元の子孫が居たとか。以前 HPにメールで問い合わせがありましたよ。其れよりか、高島市中田の佐々木高信の娘と丹波の足立遠政、関係がありそうです、長男が政基、次男が遠信、三男が遠高。というのも、遠政・遠信親子が佐々木の屋敷に逗留しているときに何らかの争いごとが日吉神社との間に起き、其れを防ごうとして日吉側に死人が出て、高信・遠政・遠信の三名が遠島の処分を受けた事がありました。因みに遠政の祖母が若狭で女地頭をしており、名を二条院讃岐という女流歌人です。
あり得ない話しでしょうか。
Posted by 但馬の足立です。 at 2020年10月12日 20:10
法用の足立さん、山垣の城が落城したとき、姫君が城から逃れて、法用まで落ち延びたそうですが、そこで力尽き、捉えられて無くなったと、以前何かの本で読んだ覚えが有り、法用の足立一郎さんに尋ねましたが分からないと言う事でした。そう言えば甘栗辺りにも足立さん居ますね、同じ福知山市でも夜久野の辺りにも足立さん多い。丹波市春日の牛河内の足立基依さんのところにも行きましたが、彼処には何も残っていないようです。奥さんの話ですが、逃げてきて3年ぐらい家の傍の穴蔵の中でくらしていたとか。そう言えば時代は少し下がるかも知れませんが、牛河内から別れて朝来の生野銀山の山持ちになった丹波屋足立太右衛門が居ました。明治維新の頃、国策だからと言って、二束三文のはした金で新政府に無理矢理に買い取られ、殺腹して果てました。
Posted by 但馬の足立です at 2020年10月13日 09:56
足立政司様。つい忘れていましたが二〇年ほど前、私のHPに、下の様な書き込みがありました。一度調べてみて下さい。私は佐々木高信の娘と足立遠政とのあいだに遠信が生まれた様なきがしております。
『 私の実家は元滋賀県高島郡饗庭村(現在は合併により高島市)五十川と言う琵琶湖の西部です。隣村の岡と言う所に菩提寺・曹洞宗・覚傳寺があります。当家の家系図によりますと足立右馬允遠元(一一四〇〜一一九九)の子・遠貞が高島郡に来て一時期、饗庭宝斎の養子となったが当時、足立家の方が格が上であったため、五十川の大藪村に屋敷を設け足立家を創設したとあり、土地の豪族であったようです。実家に残る資料によりますと「代々其目代に目通り免ぜられたる処士なり・・」とあります。私は足立遠貞に関する資料を探しています。』

田中様。お約束が気になりながら体調不良もあり遅れていて申しわけありません。とりあえずいまてもとに有る資料だけても送ります。体系的な者ではありませんのでその点はよろしく。
 上に書きました政司さん宛の資料で私が指摘した事は、遠政・遠信親子が佐々木家に逗留中に日吉~社との間に水争いかが起き、例によって日吉社の神輿が暴れて、防御の加勢に出た足立親子が神人を死に至らし、佐々木高信を豊後に、足立遠政は備前に其れ其れ一年間の遠島になった事件がありました。因みに遠政の祖母は若狭の国で女地頭であった、曽て若い頃の二条院讃岐です。
Posted by 但馬の足立 at 2021年01月17日 19:05
京都、福知山の明治亭、足立、丸に三つ扇
なにかご存知か?


Posted by 足立 at 2021年02月09日 04:48
 今年も2月に入ってから体調が優れず、約束を果たせないままになっています。
 古い話は記憶を呼び起こすのが意外に面倒で、申しわけありません。
 その代わりと云えば何ですが、三年前から掘り起こしている物語があるので、紹介したいと思います。
 私は540年ほど前から神戸市垂水区の西の端に住んでいます。ここから北に進むと、西神中央に突き当たり、伊川谷町、櫨谷町と続きますが櫨谷町の長谷に諏訪神社と言うのがあります。三年前の正月ふとした事からこの神社の謂われを調べる事になりました。その驚くべき内容をお話ししたいと思います。勿論、足立家がらみです。
Posted by 但馬の足立です at 2021年03月06日 13:10
但馬の足立さんのコメントによりますと、丹波屋足立太右衛門は春日町牛河内の出身でしょうか?
太右衛門は私の祖母の祖父で、そのルーツを探していてこのブログに辿り着きました。マイ広報誌「歴史探訪ーシリーズふるさとを見直そう 111ー」では「生野銀山の大山師(おおやまし)足立太右衛門家は、朝来郡内の出身とされていますが、屋号は「丹波屋」といい、もしかしたら丹波にルーツを持つのかもしれません。」と書かれており、もしかして、春日町の出身なのか?と思った次第です。
Posted by 丹波のハーブ屋 at 2021年06月23日 10:45
但馬の足立さま

資料を送っていただけるとのこと、
未だ、届いておりません。
おそらく、体調の具合で未発送と思っております。
こちらは急ぎませんので、
無理はなさらず、体調のよいときに
送っていただければと存じます。
Posted by at 2021年06月25日 12:46
気になっていながら、史料を確認していると、それぞれに穴あきだらけで、人様にお見せする程の値打ちも無いと、改めて校正を、と志してをそれがなかなか、ただ一つ義経の子孫(中澤氏)に関しては、ほぼ校正が終わっています。ただ大きな史料なので送り方を思案しております。『一太郎』をおもちでしたらメモリー・ステックで送ることは可能です。
 来年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』期待していましたがキャストをみてガッカリしました。十三人どころか、キャストの中に遠元の役さえ出てこない。
 平安末期に改竄された足立家の系図を、元の姿に戻すことに今、躍起に成っています。もしかしたらこの世からおさらばする前にめどが付くかも。西暦450年頃から2019年、令和の代までの壮大な歴史ドラマが展開されていくとおもいます。但しそれを記録として残すことは無理かも知れません。何せ今87歳、心臓病と脊柱管狭窄症を期待遷都居てください。期待せんといてください。
Posted by 但馬の足立です。約束が遅れ申しわけありません。 at 2021年07月08日 19:26
1、足立家系図を検証する 投稿者:足立 忠 投稿日:2005年 9月19日(月)15時20分47秒
はじめまして、小生も足立家のルーツに強い関心を持っています。貴殿のご研究の成果を楽しく読ませていただいております。当家に伝わります系図には藤原魚名公(北家・房前の子)から5世の従三位中納言山蔭卿の代から代々書き継がれてきているものです。が山蔭から遠元までの10世の記録が何らかの理由により欠落しています。寺の過去帳から写し取ったものと考えられますので記録のあるままに転記されたものと考えます。当方でも東京在住の兄と分担して東京・足立神社や出版社などで調査研究しております。父が民俗学研究家でしたので私たちの代にはっきりさせたいと願っております。ジグソーパズルを埋めるような作業になります。今後ともよろしくお願いいたします
2、足立家系図のこと 投稿者:足立 忠 投稿日:2005年10月21日(金)17時53分31秒
引き続きお邪魔いたします。私の実家は元滋賀県高島郡饗庭村(現在は合併により高島市)五十川と言う琵琶湖の西部です。隣村の岡と言う所に菩提寺・曹洞宗・覚傳寺があります。藤原魚名公のお墓は大阪茨木の総持寺にあります。当家の家系図によりますと足立右馬允遠元(1140〜1199)の子・遠貞が高島郡に来て一時期、饗庭宝斎の養子となったが当時、足立家の方が格が上であったため、五十川の大藪村に屋敷を設け足立家を創設したとあり、土地の豪族であったようです。実家に残る資料によりますと「代々其目代に目通り免ぜられたる処士なり・・」とあります。私は足立遠貞に関する資料を探しています。もし情報をお持ちでしたら教えてくだされば幸いに存じます。

 1、の山陰から遠元までが欠落している、と言う疑問については元々山陰以降の十一代というのが存在しなかった。と考えたらどうか。これは『尊卑分脈』を著述した洞院公定の子孫が改訂する時、足立家の系譜を隠蔽するために改竄したのだと。
 2、の遠貞については関係系図のどれを見ても足立遠貞なる人物は見つからなかった。ただし宇多源氏流敦実親王の孫、時方の系譜の中に(遠兼ー遠貞)という親子を見つけた。年代は解らないが凡そ(遠兼ー遠元)に近い代数である。これは宇多源氏の一員ではあるが、藤原朝忠の子孫でもある。時方は藤原道長の正妻、倫子の同腹の兄でもある。
   さきに私は、陽成の天皇位を剥奪して光孝を天皇に着けたと云った。もしかして陽成は自分の侍従であった源定省が宇多天皇になるに及んで勧修寺一族を恨んだ事であろう。まして狂気がもとで天皇位を奪われた陽成である。一方勧修寺側からすれば一族の初代氏の長者を務めたほどの名門である朝忠に狂気を持つ陽成の一族からの後継を受け入れるだろうか。それは絶対にあり得ない。時代は平安中期である。安倍晴明が怨霊師として活躍した時代の事である。
   では誰が朝忠の跡を継いだのか、恐らく敦実親王の兄、敦固親王の子弟では無いかと思っている。敦固と書いて(テイコと読む)を貞固親王と誤って伝えたのだと。

さて、 この書き込みの内容から見ますと、足立 忠さんのご先祖、足立遠貞が鎌倉時代に滋賀県高島郡饗庭村に来て永住したと言うのである。寺の正式名称は
正式名:覺傳寺(現地記載)
略式名:覚伝寺(電話帳記載)
札所名:近畿楽寿観音33ヶ所霊場 第28番札所
札所名:高島西国霊場 第18番札所
新住所:滋賀県高島市新旭町饗庭2369 (2005/01/01〜)
旧住所:滋賀県高島郡新旭町饗庭字岡2369(〜2005/01/01)
足立家譜の研究者で自称足立遠元の子孫という安酸睦博氏(元国鉄福知山病院長)の研究レポートの中に、次のような一節があります。
 「近江湖西、高島郡に足立遠元の子孫あり、七耀の家紋という。
 註、電話帳によると高島町に三十、四十軒の足立氏および、安達氏あり、
 その由来は、昔この地に温泉在り、足疾患に効ありて足立氏創姓となるという。」
はたして、その話を額面通りに受け止めていい物かどうか。安酸睦博氏は納得したかどうか分からぬが、実際に遠元の子孫だと自称する足立忠氏のような人物が現れると、先の説もあやふやになってくる。安酸睦博氏は不幸にして、高島市新旭町饗庭の足立氏の過去の歴史を全く知らない人に話を聞いたのであろう。ましてその人が老人であった。古老だから言っていることに間違いはない、と思い込んだのであろうが、年寄りだから何でも知っていると考えるのは軽率ではなかろうか。

 次もWebサイトで見つけたサイトである。
 近江国の鵜匠足立氏 大津市の貢御瀬(くごのせ)は別称鵜飼瀬とも言う。子鮎を漁獲し宮廷の食膳に供したことから此の地名を言う。また、神に供物を捧げる鮎を獲る所を饗場(あいば)と言う。また、鵜を別名アタと言い、鵜飼の居住地を阿陀地と称す。足立、鵜飼、饗場の三氏は密接な関係を有す。大津市に安達氏三十数戸、足立氏四十数戸、鵜飼氏三十数戸、高島郡饗庭村(新旭町)に足立氏三十数戸、饗庭氏二十数戸、浅井郡大井村に饗場氏二十数戸、八島村に饗場氏二十数戸存す。大井村・八島村の地方を別名足立郡と称し、鵜匠足立氏は此の地より起る。但し在名にて苗字にあらず、本名は饗場氏であろうか。その他、此の三氏は草津市、守山市、栗太郡、甲賀郡、野洲郡等に多く存す。与地志略・野洲郡条に¬浮貝藤助塚、吉見村街道の傍、田の中にあり。土俗相伝、浮貝藤助は慶長年中伏見籠城の士なり、石田三成に通じ誅される」とあり。此の地は阿陀族浮貝(鵜飼)氏の居住地なり。また、平家物語に、平治の乱の時頼朝が塩津庄司のもとに宿したとある。浅井郡西浅井町大字塩津なり。新平家物語(吉川英治本)に¬頼朝は、父義朝とはぐれて、守山の宿(野洲郡)・篠原堤を過ぎて、北江州の里から細谷川にそって歩いた。かれは、美濃の青墓の宿(大垣市)と聞いてあるいた。そのうちに、大きな川べりへ出た。川舟を洗っていた鵜匠らしい男が、かれを見かけて、あなたは、源氏の内の、しかるべきお方の御曹司でしょうと、たずねた。一言でいいあてられたので、頼朝はかくさなかった。義朝の三男、右兵衛佐頼朝です。鵜匠は、さてこそといったような顔つきで、自分の兄弟たちは、都で源家の雑色でした。おひとり歩きは物騒です。どこまでいらっしゃるのか、とにかくわたくしの漁小屋までおいでください、と頼朝を誘った。その漁小屋に二日ほど匿われて、頼朝は鵜匠の男を案内に、やがて青墓の宿に着いた」とあり。吉川英治は平治の乱を記しており、平治物語に¬頼朝生け捕らるる事。兵衛佐頼朝は、近江国浅井の北郡に迷いゆく処に老翁老女の夫婦有りけるが、哀をかけてかくしをく。あるじの子(清経)が着たりける布の小袖・紺の直垂をとりて着、関原と云所に着きにけり」と。他本には、頼朝を助けた人物に一人の鵜飼を登場させている。平治物語に¬建久元年十一月七日、鎌倉殿、始て上洛、近江国千の松原(彦根市松原町)に着給ふ。痩おとろへたる老翁、同じ体なる姥、引具し参たり。汝は何者ぞ、と仰られければ、むかし、君のしばらくおはしましし浅井の北郡の尉と姥と、今まで長生きして候が、御上洛のよし承り及び候て、おがみまいらせんが為に参て候、と申す。鎌倉殿、子の一人有しまいらせよ、不便にあたらんずるぞ、と仰せられければ、召具して候、とて、まいらせけり。近江冠者とて、召仕はる。足立の新三郎清経が事也。白鞍置たる馬二疋・長持二合に絹・小袖入てぞ給ける」とあり。清経は、すでに文治二年には頼朝の飛脚として登場しており、此の文は作者の補入である。

 足立新三郎清経 前項浅井郡鵜匠の子清経は鎌倉幕府に仕え、自己の名前と同じ地名の武蔵国足立郡を所望し、川面郷(鴻巣市)を領す。川面条参照。源平盛衰記に安達新三郎清経と見え、安達とも記す。吾妻鑑巻六に¬文治二年二月二十七日、安達新三郎・飛脚として上洛す。同巻に¬文治二年閏七月二十九日、静男子を産む、義経の息男なり。安達新三郎に仰せて、生児を奪ひ由比の浦に棄てしむ」。義経記に¬頼朝、安達四郎清忠を召して、検見に罷り下るべき由仰せ出さるる。承り候ひて、清忠・奥へぞ下りける」と見ゆ。検見は御使雑色の重要な仕事で、奥(陸奥国)へ情報集めに行く。吾妻鑑文治五年二月二十五日条に¬御使を遣り被り、泰衡の形勢を伺ふ」とあり。四郎清忠は新三郎清経と同人なり。吾妻鑑巻十一に¬建久二年七月十一日、安達新三郎、京都より参着す」。巻十三に¬建久四年六月二十五日、安達新三郎清恒を京都に遣りわさる」。巻十五に¬建久六年二月八日、雑色足立新三郎清経、御使として上洛す」と見ゆ。平家物語に¬ここに足立新三郎といふ雑色は、きゃつは下揩ネれども、以っての外さかさがしいやつで候。召しつかひ給へ、とて、判官に参らせたりけるが、内々、九郎がふるまひ見て、われに知らせよ、とぞ宣いける。土佐房昌俊がきらるるを見て、新三郎夜を日について馳せ下り、鎌倉殿に此由申す」と見ゆ。新三郎は下掾i低い身分)なれども、さかさがしい(格別利口で気のきく)やつであると。清経はこの頃没して、親長が跡を継ぐか。吾妻鑑巻十六に¬正治二年正月二十四日、安達源三親長、使節として上洛す」。同巻に¬正治二年九月二十五日、安達源三親長、官途を所望し、靭負尉に推挙せらる。十一月七日、少尉に任ず」。巻十八に¬元久二年閏七月二十六日、京都にて関東より誅罰の軍兵源三左衛門尉親長等は平賀朝雅を誅す」。親長は北条義時の命により京都に上り朝雅を誅した後、朝廷に仕える。巻二十五に¬承久三年六月十二日、官軍足立源三左衛門尉。六月十四日、安達源三左衛門尉親長等は防戦の術を失いて遁れ去る」と見え、承久記に¬官軍足立源左衛門尉等は山城牧島へ向かう」と見ゆ。明月記に¬建保元年四月二十六日、法勝寺九重塔供養の守護武士源三左衛門尉親長」と見ゆ。十五項参照。
 次に足立氏と佐々木氏の親密な関係に注目したのは、両家の系図であった。
足立氏の「丹波国佐治荘地頭足立系図」の鎌倉時代には次のように書かれている。






Posted by 但馬の足立 at 2021年08月15日 17:43
はじめて書きこみます。 愛知県在住の佐治と申します。  いろいろわが家の事を調べておりましたらここにたどり着きました。

佐治は元が戦国時代に大野城に在住していたと伝え聞いております。更にその先祖が甲賀の佐治なるところから大野に移ったとも聞いております。
足立姓の者が、鎌倉より恩賞として丹波佐治庄の地頭職を賜ったとの記載を発見し、しかも家紋が"扇"らしいとのことで、我が佐治姓は"日の丸扇"です。
何か関係があるかと調べてみましたがよく分かりません。

足立は佐治の庄地頭で家紋が扇。佐治とは関係はあるのでしょうか?
Posted by 東海市の佐治 at 2022年07月20日 10:48
佐治様

書き込みありがとうございます。
足立氏が移住してきた佐治庄は、甲賀の佐治氏との
関係はなさそうです。扇紋について、足立氏は五本
佐治氏は九本に日の丸が描かれるというのが定番です。
おそらく、足立氏と佐治氏の扇紋は、たまたま両家ともに
扇紋を用いただけで系譜的な関係はないと思います。
佐治氏の場合、織田信包に仕えた佐治与九郎が
一時期、氷上郡(丹波市)に住まいしたといわれ
与九郎が館を構えたところは甲賀山と呼ばれます。
信包流の織田氏が改易されたあと、佐治氏は丹波を去ったようです。
Posted by 播磨屋 at 2022年09月21日 12:51
今、NHKが大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を放映していますが、その内の一人に「足立遠元」がいますね。
足立家の先祖がドラマに出ていると云うだけで誇りに思い見ています。あまり出てこないので少し残念ですが出ていると云うだけで友達などに足立遠元は私の先祖だと自慢をしています。
福知山の広小路にある「御霊神社」は明智光秀を祭っていますが、佐治庄の足立一族は光秀に滅ばされたのですね。明智光秀を崇める福知山市民として育った私は先祖の仇「光秀」に複雑な気持ちでいます。
私の生まれた福知山市法用に峠を越えて山垣城から姫君が逃げて来たという話は初めて知りました。ここで亡くなったのなら墓地の何処かに姫のお墓があるかも知れませんね。今度墓参りに帰った時に調べて見たいと思います。
Posted by 足立勝 at 2022年11月11日 20:42
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