2009年06月02日

大手は新神戸駅の裏、瀧山城址に登る

瀧山城はJR山陽新幹線新神戸駅の裏側、北西の山上にあり、南北朝時代の正慶二年(1333)に播磨の赤松円心が「布引の城」に籠ったというのが最初の記録である。その後、円心の子範資が城主となり、建武三年(1336)、 新田義貞の軍勢を迎え撃った。その後、摂津守護となった範資の子光範が城主となったが、赤松氏の没落とともに瀧山城も打ち捨てられていったようだ。応仁の乱で赤松氏が復活すると再び赤松氏の支配下に入った。その後、赤松氏は衰退、細川氏の家臣柳本賢治によって攻め落とされた。瀧山城は摂津から播磨へと通じる山陽道の要衝に位置するだけに、否応なく戦火にさらされるところであった。
 
瀧山-案内図s
城址案内板の縄張り図

室町幕府の衰退によって下克上の世となり、畿内は幕府管領細川氏分家の阿波細川家の家臣であった三好長慶が牛耳るところとなった。瀧山城は畿内と阿波を結ぶ重要拠点として機能するようになり、長慶は重臣の松永久秀を城主に置いたのである。現在に残る遺構は久秀時代に確立されたものと思われ、久秀は主君長慶を瀧山城に招いて千句連歌や観能の宴を催したことが『細川両家記』に記されている。山上で催された宴会は、その眺めとも相俟って豪勢なものであったろう。

さて、城址へは新幹線新神戸駅が起点になる。単純に駅を通過できるものと思っていたのだが「意外にも道がわからない」、うろうろと歩き回り、すぐ向こうの北側に出るのに一苦労してしまった。城址への登山道は駅裏すぐのところにあったが、ウサの提案をいれて、布引の滝から展望台を経てかずら橋から登るコースを採った。

瀧山-滝 瀧山-神戸市街 瀧山-かづら橋
布引の滝、見事な雄滝   展望台から市街を遠望   かずら橋を渡る

城址は通称城山と呼ばれる山上の主郭を中心として、生田川方面の大手尾根に向かって曲輪群が階段状に築かれている。また、かずら橋方面からの尾根、主郭から南東に伸びる尾根、主郭西側の尾根にもそれぞれ曲輪が築かれており、東側からの攻撃を意識した縄張りとなっている。山上に築かれた曲輪群は、主郭群、中曲輪群、東曲輪群に区分され、それぞれの曲輪を隔てる切岸も十分な高さを有し、要所に竪堀が着られ、随所に石垣が残っている。中曲輪群の東端の曲輪には土塁が盛られ、その先の東曲輪群とは大きな堀切で隔てられている。東大手方面から攻め上ってきた敵軍は、尾根に散在する曲輪を潰しつつ東曲輪にとりつき、さらに主郭へと進んできたとき、東曲輪群西端の高い切岸と大堀切によって戦意を相当に失ったのではなかろうか。

瀧山-登り道 瀧山-出曲輪 瀧山-堀切
登り道からロープウェイが   大手道との合流点にある曲輪   城址最大の大堀切

瀧山-主郭高台 瀧山-西端土橋 瀧山-切岸
主郭西側の高台で昼食   城址西端の堀切と土橋   切岸と曲輪

瀧山-土塁 瀧山-石垣 瀧山-登り口
城址最大の土塁   随所に残る石垣跡   登り口に到着

中曲輪群から主郭群は相当な広さで、石垣も多用されており、それぞれの曲輪もなかなかの広さだ。さすがに畿内に勢力を振るった松永久秀が拠ったところだけに、地方の守護大名クラスの規模である。主郭西側の高台からの眺めを期待したのだが、そこには立派な城址碑が立っているものの木立におおわれて展望はまったくきかなかった。主郭西下には二重堀切と土橋が残り、さらに西曲輪へと続く。西曲輪の西方に切られた堀切と土橋が城址の最西端となる。ハイキングコースはさらに西方へと続き、再度山にある多々部城址へといたる。心ひかれるものがあったが、多々部城址攻略は次の機会として土橋から主郭方面へと引き返した。
松永久秀が信貴山を本城としたのち、城主は篠原長房に移り、さらに織田信長の勢力が伸びてくると荒木村重が支配するところとなった。天正七年(1579)、村重の謀反によって花隈城とともに攻略され落城、瀧山城は廃城となった。現在、城址はハイキングコースとなり、一帯は布引公園として整備されている。都会のすぐ近で森林浴を楽しみつつ、気軽に山歩きができるところとして人気があるそうだ。 歴史を少し調べ、縄張り図を入手して、新緑、あるいは紅葉の山道を歩けば楽しさ倍増すること請け合いの城址である。 by kuma
posted by うさくま at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 摂津の山城
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