2009年05月07日

もう一つの内藤氏が拠った丹波藁無城

丹波の内藤氏といえば、守護細川氏の下で守護代を勤めた八木城主の内藤氏が知られる。その内藤氏の分かれが拠った城が、園部船井後方の参上に残る藁無城址だ。藁無城址は二年前、蜷川氏の居城蟠根寺城址と菩提寺、内藤氏の家紋探索を兼ねて訪問したが、そのときは船井界隈を歩き回っただけで城址には登らずに帰った。
以後、何度か園部に行くことはあったものの、ついに藁無城は登らずじまいであった。今回、にわかに藁無城址に登ろうと思い立ち、ウサを誘って登ってきた。藁無城址は内藤氏が築いた山城で山麓にある林松寺は往時の居館跡といい、周辺には内藤氏の家臣らの屋敷が並んでいたという。城址へは、寺院後方にある墓地から登り道が葛篭折れに山上へと続いているらしく、まずは治宮神社を経て墓地へと向かった。
 
藁無−遠望
藁無城址を見る (2007年1月19日)
 
道らしきものがあるにはあるが、すべて途中で消滅している。改めてお寺の住職さんに登り道を聞いたところ、『途中まで薄い山道があるが、そこから先は直登しかなですよ』とのことだった。それではと葛篭折れの山道を登り、さらには立ち木をつかみながら山上を目指した。
 
藁無-林松寺 藁無-石垣 藁無-登り道
佛光山林松寺、後方が藁無城址  林松寺の石垣  城址に続く墓地への道
 
山上に近づくと大小の岩が散在、石垣が崩落したのか?と思わせる景色が広がる。やがて、南端の切岸が見え、城址に分け入ると三角点が立っている。三角点後方のやや高いところが本丸址で、そこから北方へ曲輪が連なっている。それほど大きな城ではないが、段状に続く曲輪、主郭の東西に設けられた腰曲輪などに石垣跡が残っている。
 
藁無-城址に 藁無-主郭 藁無-腰曲輪
南端曲輪の切岸  主郭を見る  腰曲輪とを隔つ石積
 
山上の城址一帯は樹木が生い茂っていて展望は利かないが、かつては南方に蜷川氏が拠った蟠根寺城が見え、さらにその南には園部の町が遠望できたっことであろう。眼下には園部から日吉を経て美山に通じる街道が通り、また東方には桂川の上流にあたる大櫃川が流れている。小さな城ではあるが、なかなかの要害の地を選んで築かれたことが分かる。城址を歩くと風化しかけているものの切岸も残り、土塁も確認できる。さらに北方尾根に穿たれた堀切は見事なもので、石垣の存在と併せて先進の技術をもって築かれている。さらに、北西部に崩落跡と思われる穴があり、見方によっては兵糧などをおさまえる蔵があったのではと思わせる。
 
藁無-北曲輪 藁無-堀切 藁無-崩落地
主郭北の曲輪  北尾根を穿つ見事な堀切  兵糧蔵を思わせるが崩落跡か?
 
藁無城の主であった内藤氏に関しては、子孫にあたる内藤家に『内藤八木軍記』『内藤丹波年欄代々記』といった古記録が伝わっている。それらによれば、八木城の内藤氏との間で骨肉の争いが起こり、藁無城は八木内藤氏の攻撃を受けた。また、細川二流の乱における活躍で将軍足利義晴から感状を賜ったといったことが書き残されている。しかし、丹波内藤氏の場合、内藤如安がキリシタンであったことからか、江戸時代において歴史がかなり改竄されているという。それもあって、八木内藤氏、藁無内藤氏ともにその歴史は歯切れの悪いものとなっている。しかし、いまも藁無城のある船岡界隈には内藤氏の子孫と伝える家、家臣の後裔と伝える家が存在し、内藤氏ゆかりの「龍鼓」「下り藤に内文字」などの家紋が残っている。そこには、紛れもなく戦国内藤氏の余燼が感じられた。 by kuma
posted by うさくま at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/28941155
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック