
まず、奥畑城である。城址は奥畑集落後方の山から東方に突き出た尾根上にあり、見たところまことに小ぶりなものだ。応永の乱で山名残党が拠った城が、多紀郡内の要害に数えられる八百里城ではなく、奥畑城では拠点としても作戦的にも拙いと思わざるをえない。おそらく、細川氏に味方した畑氏の抵抗にあった結果であろうが、奥畑城ではどう見積もっても勝ち味はない、ひょっとして三嶽修験者たちが山名氏に味方して後詰をしたのだろうか…そのようなことを考えながら山上の遺構を目指した。まず、縄張り図を見ながら登り口を探すが、道らしきものはない。「えいや!」と尾根に分け入って、雑木を掻き分けて登ること三十分ばかり、城址西方曲輪下の堀切にたどり着いた。さらに西方の尾根にも堀切が穿たれ、東方尾根に展開する曲輪群の独立性を保っている。西の曲輪は切岸も明確で攀じ登ると土塁が残っている。そこから、東方の主郭方向へ曲輪が連続する。北方は急峻な谷で、東端は急な崖になっている。奥畑城の虎口は主郭の南側にあったというが、いまは大きく崩落して往時の構えを想像することはできない。登ってみても小ぶりな縄張りの城で、畑氏時代のものと思われるが、この規模では山名残党が呆気なく潰えたことがよく理解できる。下山は登ってきた道を引き返そうとしたが、すでにどこを登ってきたのかは分からない。遠くではハンターが撃っているらしい猟銃の発射音が聞こえ、戦国時代の明智軍の攻撃も「斯くや!」などと妙な臨場感を味わう。しばらく下りると薄いが山道がある…、そこを辿っていくと何と呆気なく下山してしまった。椎茸栽培や山仕事に利用する道のようで、城址への楽々コースといえそうだ!



奥畑城址を見る 城址西尾根の堀切



西曲輪の切岸 主郭の石垣状遺構
奥畑城を攻略したのちは、八百里山城攻略だ。以前に登ったときは、登り道がよく分からず雑木に覆われた急坂を直登、やっとの思いで磐座(古墳の石室か)のある尾根にたどり着いたことを思い出す。そして、そこに鎮座するお稲荷さんへ通じる参道が本来の登り道であることも知った。で、今回は、まず前回見落としていた南西尾根上に残る出曲輪と竪堀を探索する。そして、磐座・お稲荷さんのある曲輪へ、そこから山上に残る遺構群へと登っていった。山上に続く尾根道は急峻で、戦国武士たちはこの道を甲冑に身を固め武器を携行して上り下りしたかとを思うと、その壮健ぶりに驚かされる。山上に残る城址の縄張りは、東南端から北西方向へ曲輪群が連続し、各曲輪間の切岸も高く、主郭には土塁、高櫓があったかと思われる土台もある。主郭から西北に連なる曲輪群との切岸も十分な高さで、最北西端の曲輪との間には大堀切が穿たれている。この堀切とその先の曲輪群で北西尾根からの敵襲を防御し、それぞれの曲輪南西側に設けられた帯曲輪により瀬利方面からの攻撃に備えていたことが見て取れる。各曲輪は雑木に覆われ、藪漕ぎを強要されるところもある。さらに樹木に邪魔されて、見通しもガッカリするほどによくない。しかし、竪堀・切岸・土塁・大堀切がよく残り、かつて武器として使用したものであろう矢竹の子孫?が生い茂っているなど、見所の多い戦国山城である。



中腹の磐座(古墳跡か) 山上曲輪の切岸



主郭東側の土塁 北西曲輪の大堀切
畑氏は明智光秀の丹波攻めには波多野氏に属して頑強に抵抗、黒井城から敗走する明智勢を細見氏とともに打ち破ったこともあった。しかし、天正七年、波多野秀治が光秀に降伏、八上城が陥落すると、明智軍は八百里城に押し寄せた。畑守国・能国兄弟をはじめとした畑一党は、敢然と迎え撃ち、奮戦ののちに兄弟は戦死したという。この畑氏の最後によって丹波の中世は終わったといえよう。丹波の中世における画期となった八百里城址だが、いま、確実に自然に帰りつつあることが残念に思われた。お稲荷さんの祠も数年ののちには朽ちてしまうように見える、「むかしは遠くなりにけり」まことに寂しいかぎりだ。 by kuma
地図:地図閲覧サービス(ウォッちず)から転載。 縄張図:戦国・織豊期城郭論の茶臼山城址・八百里城址から転載。