先日、お世話になっている歴史研究会の会長よりメールをいただいた。
家紋Worldのコンテンツの一つである「武家家伝」のコンテンツの確認と、その中の「古市氏」に関しての問い合わせであった。
内容は、
「古市氏という大和の古市城や駒鼻城の城主だった一族について、《西坊家に伝わる系図》の掲載があり、その解説に「丹波赤井氏との関係なども記されている」とあるが、西坊家やその元である古市氏について、系図以外にも何か情報をお持ちでしょうか」
というものであった。それに対して、
「お問合せの古市氏にかかる西坊家についてですが、十年以上の昔、家紋のことでメールをやり取りするようになりましたが2017年を最後に音信不通となっております。西坊さんよりいただいた資料を保管していましたHDDが壊れてしまい、西坊さんからいただいた系図や家伝などの資料も消えてしまいました。出力したものがあると思うのですが・・・」
と返信した。会長からの問い合わせをきっかけに、古市氏のこと、西坊家のことなどを改めて調べてみると、あれこれと面白い歴史が出てきた。さらに、探すのに骨が折れるかと思っていた資料がすぐに発見され、調べたことと系図の記述を照会してみると、なかなか興味深い歴史も見えてきた。ともあれ、見つかった資料に調べたことをメモ書きにつけて、会長あて送らせていただいた。
以下、資料につけたメモ書きを今後の覚えとして残しておこうと思った。
むかし、家紋World「武家家伝」のコンテンツとして作成した古市氏のことは、頭の片隅に追いやられていたのですが、山内さんからお話しいただいた後、自分なりにあれこれ調べ直してみました。そして、超久しぶりに見つかった「古市氏系図続」を改めて見直したようなことです。
「古市氏系図続(以下、古市系図)」は、系図として魅力的なものですが、『大乗院寺社雑事記』などを元に書かれた大和武士にかかる研究成果に比べると、いささか疑問が残るものです。ただ、赤井氏との関係、加賀藩に仕えたところなどは、つい引き込まれてしまいます。
さて、大和古市氏は、十五世紀のはじめに興福寺大乗院の筆頭衆徒として現れる古市胤賢より以後、
胤憲、胤仙、丹後公胤栄(春藤、胤子の父という胤栄とは別人)、その弟播磨公澄胤と続き、一乗院筆頭衆徒の筒井氏と対立、抗争を続け、勢力を拡大していったようです。そして、澄胤は大和守護格となり、古市城を本拠として全盛期を現出しました。ところが河内高屋城攻めにおいて討死、次の公胤の代になると筒井氏におされて、国中の古市城から山内の鉢伏城(駒崎城のことかと調べたのですが不明)に退き、その後は没落の一途となっています。古市系図を見ますと、これら代々の名前は散見しているばかりで、一つの系にはなっていません。これも、古市系図に疑問を抱いたところです。
おっしゃっていた三位の局は、古市胤栄の娘に生まれた古市胤子と思われ、足利氏に嫁ぎ(系図では足利義広)二人の子を生した。そして、その一人である常尊は円満院の門跡になっており、これが古市一族である西坊家が円満院の坊官になる要因になったのでしょう。
もっとも、すでに没落して昔日の勢いを失っていた大和古市氏の娘が、どうして足利氏に嫁ぐことができたのか? 疑問はありますが、義昭の興福寺一乗院時代に何らかの関係(茶道や和歌?)を有していたのでしょうか(姓氏家系大辞典に「古市胤栄は足利義昭の臣」とありますが、先の丹後公胤栄では時代が合わない。古市系図に出る播磨守胤栄でしょうか?)。他方、ネット情報によれば、近衛前久の娘は朝倉義景に嫁ぎ、子を成さず別離したのちに直正に嫁いだ、直正死後は古市播摩守胤栄の妻になったとか?。さらには、古市胤子を近衛前久の女としている資料もあります。件の古市系図では、胤栄の娘に直正に嫁いだ女、足利義広に嫁いだ女の二人が記されています。ここら辺のことは「歴史あるある」で、いろいろな説が混交したものでにわかには信じがたいものです。
加賀藩に仕えた古市氏については、『石川姓氏歴史大辞典』の古市氏の項に「久兵衛 ― 五左衛門(藤堂〜加賀前田)― 左近(寛文19年小松侍帳、利常に殉死)― 主計(寛文九年侍帳、嗣子なく断絶)」とあり、古市系図の「五左衛門胤家―左近胤重(伝に江戸から京に旅した時、大叔母に当たる三位の局の元に滞在したとか)―主計胤宗(務本)」に合致しています。そして、古市系図では五左衛門胤家の室は赤井弥七郎の女とあり、ここでも赤井氏との関係が見られます。五左衛門胤家の伝記を調べてみますと、近衛信尹に仕え、のち藤堂高虎に仕えたが、浪人して加賀に流れ前田家に仕えたとありました。赤井弥七郎も藤堂家に仕えており、藤堂家中において弥七郎娘と胤家との間で縁が生じたのでしょう。
古市系図を見ますと、古市氏が近衛家、赤井氏と、思ったより深い関係にあったことがうかがわれます。メールに書かれていた赤井龍男氏・赤井正勝氏らに伝わっている諸資料が、それを語るものであれば、戦国時代の隠れていた歴史が浮き彫りになるかも知れませんネ。
いずれにしましても、古市系図はそのまま鵜呑みにはできないものですが、なかなかによくできた面白い系図資料だな〜と思ったことです。一方の「西坊家譜」については、古市氏との接点については疑問ながら、信じてもよいのではと思っております。
今回、いろいろ調べてみて、古市氏にかかるネット情報が「古市氏系図続」と「西坊家譜」、「西坊家口伝集」を元にした記述が多いことに驚かされました。そのようななかで、私の古市氏のコンテンツに参考として作成、掲載している古市系図にリンクされているものもあり、ネット社会における資料の扱いの杜撰さ、怖さに改めて思い至ったようなことです。
余談ですが、円満院のことも調べたのですが、驚きました。住職の経営乱脈により借金を抱え、裁判沙汰となり住職は遁走、円満院は競売になったと知りました。昨今の宗教界の乱れは、円満院のような寺院までも蝕んでいることに唖然としました。
今回、会長からの問い合わせで古市氏・西坊家のことを調べたわけだが、古市氏を「武家家伝」のコンテンツとしてアップしてより20年近くが経過、我がコンテンツの内容に取りこぼしが多いことに気付かされた。20年以上前は、若さという勢いに任せて調べてはアップするというコンテンツ作りであった。いまは、老境に入ったこともあって当時ほどの勢いはない。が、今回のようにきっかけをもらうと、ついつい歴史心がざわつくのである。
この三日間、古市氏、西坊家、足利氏、円満院など数珠繋ぎのように調べまくる時間を過ごした。楽しかった!さて、資料を見られた会長から、どのような話が返ってくるか、それも楽しみだ。
私もネット資料において、記載の整合性が取れていない箇所が多いと感じ、複数資料を照らし合わせて納得する部分のみ加筆修正しております。戦国時代以前に落ちぶれてしまったのが残念で、離散後の古市氏の足跡を調査しています。
3日間で調査し直した部分に驚きました!また機会があれば考察いただけると幸いです。※特に「これら代々の名前は散見しているばかりで、一つの系にはなっていません」のあたり、、が混乱する要因です。。