今日は4月上旬並みという暖かな陽射しの中
赤井一族の詰めの城といわれる高見城を攻めた。
2009年に初登山、三年前に山南町の石龕寺から縦走、
それ以来となる三年ぶりの登山だ。
10時40分、柏原町側の「悠々の森」に車を停め登山スタート。
折々に広がる眺望を楽しみながら30分ばかり登って行くと、
二段で構成された北尾根の出曲輪に到着。
ここから谷を隔てた西尾根に高見城最大規模の北西曲輪があるが、
まずは、山上の主郭部を目指した。
しっかりとした山道
北尾根の曲輪
また尾根筋に曲輪
急な山道を登って行くと尾根曲輪群、亀井戸跡を経て
小さな石祠が祀られる山上主郭部北の腰曲輪へと登り着く。
山上、北曲輪に登りつく
そこから、急な岩の斜面を南に登ると山上主郭、
ここまでのコースタイムは、のんびりと1時間ちょうど。
寄り道をしなければ50分くらいだろうか。いつも思うことだが、
このような山上に城を築く意味は奈辺にありや? である。
主郭に到着
高見城山の石標
先週に登った三尾山城と同様に主郭部は雑木が伐られ、
雑草も刈られている。以前に登った時にはなかった椅子が三つ。
大河ドラマの影響、ありがたくも恐るべしである。
東方の山々を眺望
今日は、先日登った三尾山とは、ちょうど真逆の眺望。
まず、東方に三尾山、金山、譲葉山が連なり
西に白山、弘浪山、赤井氏が本拠とした後屋を見る。
まだ2月というのに山上はあせばむ暖かさ、
時に強い風が吹き抜ける。景色を楽しみながら弁当を使う。
北の出曲輪に下山
腹を充たしたあとは、北の出曲輪まで下山。
北西曲輪群へ足を伸ばした。高見城は山上の主郭を中心に
北西、北東、南の尾根筋に曲輪を構えた高見城砦群を構築
赤井氏の「詰めの城」として機能していた。
曲輪と切岸
広い曲輪
虎口状の地形
曲輪切岸
最近、高見城の北方に位置する母坪城が赤井氏の
詰めの城ではないか、とされる研究者がいらっしゃる。
赤井氏の本拠、後屋城方面を見る
登り口の古墳群に帰着
しかし、久しぶりに高見城に登ってみて、後屋城、三尾山、
黒井城の千丈寺砦、山南町の岩屋城などとの連携、
尾根筋に構えられた曲輪群などからして、詰めの城は
やはり高見城であったとみるのが妥当であろうと思われた。
高見城山と東鴨野城を見る
下山したあと、新井小学校の背後に位置する東鴨野城に
寄ってみた。この城跡は高見城から北東に伸びる尾根先端に位置し
伝承によれば赤井氏の家臣が集住していたところともいう。
城址周辺は地元の方の手により整備され、迷うことなく
城跡にたどり着いた。そして、驚いた!
立派な土塁
土塁と横堀
曲輪を囲繞する横堀
土塁、横堀、高い切岸で防御された広い曲輪には櫓台らしき遺構も
主体部の周辺には曲輪址であろう平坦地が散在している。
曲輪を見下ろす
曲輪と切岸
曲輪を区画する切岸
さらに東方の小山上、背後の山上にも大味だが平坦地が構えられ、
高見城の前衛としてあるべきところに築かれた城館であった。
高見城に登り、東鴨野城を歩いたのち、もう一つ
新井神社の後方山上に築かれた山城に登ろうか!
と思わぬでもなかったが、時間は三時を過ぎている。
道もなさそうだし、今日はここまでとして、帰路についた。