2021年01月09日

園部で墓紋ウォッチ、宍人城探訪

六日の水曜日、園部に出かけてきた。
目的は文化資料館発行になる小畠氏の史料購入。
いま、兵庫丹波の戦国武家の歴史を調べているが
京都丹波側に属する船井郡(現南丹市)の国衆であった
小畠氏も兵庫丹波側の武家に加えたい存在だ。

目的の史料を購入したあと、せっかくなので帰り道に
点在するお寺にお邪魔して家紋をウォッチ。あわよくば、
小畠氏の墓所に出会えればと思ったことだった。

まずは、宝積寺さん。小規模な墓地には片山さんを多数派に畑中さん、井尻さんらの墓石が並ぶ。家紋は「三つ柏」「三つ橘」「三つ巴」などオーソドックスなものであった。

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ついで、山際に見つけた墓地にお邪魔すると小林家の株墓地で、家紋はこぞって「丸に二つ引両」。となりの墓地は杉山さん「花橘」、赤井さん「三つ巴」紋が刻まれていた。

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さらに南下して昌林寺さんにお邪魔した。すっきりとした境内には、泰山木の木が一本、印象的な風景を醸していた。
境内墓地にお邪魔すると小林家の墓石がズラリと並び、先の小林家と同じく「丸に二つ引両」紋が刻まれていた。南丹市域には小林名字が多く、概ね「丸に二つ引両」紋、はたして同族になる家々なのだろうか?小林家の他には角家「三つ巴」、西村家「横木瓜」、谷家「井筒」など、いずれも名字と家紋が一体であった。

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しかし、あれかしと期待する小畠氏の墓所はなかった。昌林寺さんから西方を眺めると、本梅川を越えた向こうに小畠氏が拠った宍人城の遺構が残る小山がすぐのところである。

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宍人城を川向かいの昌林寺さんから遠望

宍人城跡、見てしまった以上は、こちらもせっかくなのでチョコっと寄り道することにした。
宍人城は京都時代の2007年、ついで篠山に引っ越してのちの2013年に登って以来、三度目の訪城となった。もっと登っていたような気がしていたのだが、八年ぶりであった。大河の影響だろう、公民館かたわらの登り口がきれいに草刈りされ、前にはなかった案内カンバンも設置されている。

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宍人城の横堀
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宍人城の曲輪と土塁
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宍人城、主郭の土塁切岸と帯曲輪
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宍人城、土橋と横堀
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宍人城、横堀
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宍人城、北曲輪と切岸
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宍人城、北端曲輪から園部方面を遠望
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宍人城、北曲輪の虎口

城址は相変わらず、いい感じのたたずまいだが、登り口のように草刈りや倒木などが片付けられていればと惜しまれた。とくに横堀と南の帯曲輪、北曲輪あたりの整備は、ぜひ望みたいところだ。とはいつつ、ぐるっと歩き回った城址は遺構群もよく残っており、満足度は高いものであった。

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小出館の土塁
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小出館の折れ虎口
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小出館の曲輪(右)土塁(中央)横堀(左)
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小出館の土塁と横堀

宍人城は戦国時代の小畠氏の館と、出石より園部に転封されてきた小出氏が築城地を確定するまで臨時の居館をおいた小出館とが並立している。小出氏は山陰道沿いの地に園部城を築いたが、宍人館が園部城になった可能性はあったのだった。戦国乱世を生き抜いた小畠氏は小出氏との縁から園部藩士に取り立てられ、江戸時代を生き明治維新を迎えた。
園部藩士小畠氏の禄高は250石、家格身分としては上士に属するものである。しかし、残された豊臣期の史料では、小畠一族で3000石を知行していたことが知られる。一族すべての知行高ではあるが、武士身分を保ったとはいえ1/10の石高に甘んじた背景には何があったのだろう?徳川体制になったとき、小畠一族は多くの知行を失い、一族は宍人から離郷していったのだろうか?小畠氏のことを考えるとき、明智光秀に重視されながら、豊臣時代にも所領を保った。それなのに、何故?という疑問がいつも消えないのである。

今日、史料を購入し、宍人城に登り、改めてその疑問が萌してきたことだった。また、小畠本家の墓所はどこにあるのか?どうも、宍人城の周辺にあるようなのだが・・・。まずは、史料から墓所を探し、墓石に刻まれているであろう紋を見るため宍人を歩いてみたいものだ。

posted by うさくま at 13:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史探索
この記事へのコメント
うちが本家のなのですが、墓は本家(園部町大西西代)から歩いて5分くらいの山の中にあります。因みに家紋は六つ柏です。
Posted by 真 at 2021年01月19日 14:13
書き込み、ありがとうございます。

本日、京都に出掛けた帰りに宍人に寄り道して
旧園部藩士小畠家の墓所を訪ね当ててきました。
墓所は荒れ気味でしたが家紋を確認できました。

情報をいただきました小畠さんの墓所も訪ねようと
大西西代の小畠さんであろう柏車紋をつけた
立派な家も探し当てました。おそらくその背後の山中に
墓所があるのだろうと思ったのですが、
流石に厚かましいことと思い遠慮しました。

小畠家の前の公民館?に古い宝篋印塔、五輪塔などが
集積され、それぞれ劣化してましたが、その古さからみて
中世にさかのぼるものか?などと思われ
ヒョッとして小畠氏にゆかりのものか?と妄想。
いずれにしましても宍人集落の古さが偲ばれました。

Posted by 真 様 at 2021年01月20日 14:54
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