三日目の今日は、
まず、桂浜の土産物屋さんに寄るところからスタートした。
祈る気分で行ったが財布はなかった。
管理事務所、交番にも寄ったがが落し物のの届けはなしとのこと、
いろんな意味でガックリして浦戸城を再訪。
昨晩、宿で概略図を見ていたら、
改変されてしまった本丸の西方に遺構が残っているような。
行ってみると西の曲輪跡へ続く遊歩道があり、進んでいくと四重堀切、曲輪地形、切岸などが良好に残っていた。城址からは陽光にきらめく太平洋が一望、元親らも見た風景と思えば感慨も一入だった。
西の曲輪群に残る多重堀切
西曲輪群の平坦地と切岸
浦戸城跡から太平洋を見る
車に戻ると椅子の下に太陽の光でピカッとするものがあり、見ると・・・落としたと思っていた財布であった。もう欣喜雀躍!車を停めた方向と時間がよかったようだ。浦戸城、戦国城址史跡としては残念な状態にはなっているが、あれやこれや来てよかったー!
おおいに元気を取り戻したあと、長曾我部元親の墓所を訪ね、長曾我部氏ゆかりの雪渓寺にお邪魔する。雪渓寺では島津との戦いで戦死した長曾我部信親の墓所、長曾我部氏の祖を祀る秦神社、長曾我部盛親の真新しい供養塔などにお参りした。
元親墓所参道の幟
秦神社参道の幟
秦神社
境内を散策しているとお遍路さんの一行がバスで乗り付けられ、大師堂前で般若心経を合唱されたのも四国らしい一コマであった。
浦戸の次は、長曾我部氏の代々が居城とした岡豊城跡に向かう。岡豊城は独立した小山全体を城砦化した平山城、主体部となる詰ノ段(土佐では主郭をこう表現するらしい)と西の出丸で構成された大規模な城址だ。歴史民俗史料館の駐車場に車を停め、概略図を見ながら城址遺構を歩く。いずこの山城でもそうだが、自分の立ち位置が城のどこか?を見定めることが肝要である。
北東尾根の横堀
まずは主体部西方の多重横堀と竪堀遺構にいることを確認、そこから西の出丸へ移動、尾根筋には堀切、竪堀が築かれているのだが笹藪で覆われて確認はできなかった。西の出丸からは遠く光る海が見え、長曾我部氏代々が支配した平野部が一望だ。出丸の西端にあるはずの城址を区画する大堀切址は、ここも笹藪が繁茂して踏み込むこともできない状態にあった。
西の出丸から主体部へ戻っていくと広い帯曲輪が詰ノ段を段状に取り巻き、底部を石積で固めた土塁、竪堀、曲輪を隔てる高い切岸などがよく残り見応えがあった。詰ノ段への虎口を入ると土塁で囲繞された枡形状の曲輪、発掘調査で復元されたという石垣、礎石建物跡、詰ノ段に登る石段が続き、土塁で囲まれた詰ノ段へと至る。ここからも、遠く太平洋が見え、平野を一望、素晴らしい立地にあることが改めて実感された。
主郭東の腰曲輪
国分寺方面を見る
長曽我部氏の家紋が表示板に
詰ノ段の東にも曲輪が連なり、堀切、溜め井戸、土塁などが設けられている。そして、東方の平野に国分寺跡の森が見える。岡豊の地は古代から中世において土佐国の国衙、いわゆる政治の中心地だったのだ。長曾我部氏は国衙の役人として、室町期は土佐守護細川京兆家との良好な関係を利して勢力を拡大していった。岡豊城は土佐の国府を押さえる重要な城であり、長曾我部が飛躍するのに格好の立地にあった。実際に来て、登って、歩いて見て、それが実感できた。
国分寺より城址を見る
長曾我部氏の史料を展示する歴史民俗史料館は、残念ながら休館中。折角なので国分寺に寄ってみた。全国に設けられた国分寺の多くは廃滅しているところが多いが、土佐は寺名も国分寺として健在、境内も落ち着いたいい雰囲気であった。伽藍の中心となる金堂は長曾我部国親・元親親子が再建、寄進したもので、重要文化財指定を受けた建造物だけに古式なよい佇まい見せている。
国分寺金堂 長曾我部国親・元親父子が再建
長曾我部氏ゆかりの地を巡ったのち、長曾我部氏と宿敵関係にあった本山氏が起こった本山城に移動。南国インターから大豊インター、地道を通ってたどり着いた本山は山間の小さな町だった。
公園化された土居跡に車を停め、登り口になる十二所神社を目指した。城址は土居跡南正面の小山にあり、神社には案内標識、そこから整備された遊歩道が続いている。こちらも公園として整備されていて迷うことなく城址に登ることができた。
本山城に登る
山上曲輪、石垣は後世のものか?
主郭切岸と腰曲輪
本山氏が高知平野まで勢力を拡大して築いた朝倉城に比べると、グッと小ぶりな城だが、よく削平された曲輪、高い切岸、石垣も多用されている。何と言っても本山の町並みから、敵が攻めてくるであろう東方に睨みが利かせられる位置をしめている。本山氏はこの小さな山城に拠り、山間の狭隘地から広い平野部をジッと見つめ、土佐の戦国時代に雄飛したのであった。
長曾我部氏と抗争を続けた本山氏は梅慶の孫貞茂のとき軍門に降り、「親」の一字をもらって親茂と名乗り一族の扱いを受けた。ところが、豊後別次川の戦いで長曾我部信親とともに親茂は戦死、嫡流は途絶えた。
城址を歩いていると土佐史談会の樋口さんという方に声をかけられた。生粋の本山人で、本山城のこと、本山の歴史などを淡々と熱くお聞かせいただいた。とくに、城址の石垣群について、かつて測候所があった時代に築かれたもので、戦国時代のものではないとのガッカリな話はありがたかったようなありがたくなかたような。しかし、城址には当時のものと思われる石垣もあり、ちょうど行われていた発掘調査の結果が楽しみだ。調査の結果を樋口さんが送ってくださるとのこと、よい人に出会うことができた。
発掘の成果が楽しみだ
本山町では中世の本山氏よりも江戸時代初期の土佐藩執政野中兼山の方が有名で、土居跡も本山氏時代の屋形跡を役所として改変したものであった。今回の旅では江戸時代、幕末は視野に入っていなかったので兼山は割愛した。車に戻って時間を見ると16時30分、夕暮れも近い、二泊三日のGoTo四国の旅はここまでとして帰路についた。
ナビを入れると本山から丹波篠山まで約300Km、4時間半の道程だ。来るときは心躍ったが、帰りは旅の疲れもあって「どこでもドア」が欲しいところだが、相方と交代しながら一路丹波へと帰って行った。
かくして、二泊三日のGoTo四国土佐遠征の旅は終わった。目論んでいた土佐七守護のうち大平、安芸を残したが、まずまずの成果を得ることができた。今回旅してみて、土佐の広さ、土佐の戦国時代も実感できた。
戦国時代の土佐、四国の戦国武将といえば長曽我部元親である。元親一代で土佐を統一、四国一円を併呑する勢いを見せた。しかし、信親の戦死、一族の粛清、不本意な後継者選択、61歳で世を去った元親は果たして満足な死を迎えたのだろうか。元親の死の翌年、関ヶ原の合戦が起こり、長曾我部氏は進退を誤り没落の運命となった。歴史に「たられば」はないが、土佐を旅して長曾我部氏という中世武家の光と闇に接することができたような。