2020年12月15日

GoTo四国2日目。土佐七守護の山城をめぐる

朝の天気予報では、
日本は大型寒波に包まれて今年一番の寒さという。
確かに寒いが、天気は快晴、山城めぐりには最適の気候だ。
宿で朝食をすまし、今日一番目の目的地となる朝倉城へ。

朝倉城は長曾我部氏と覇を競った本山氏の居城。
本山氏は長岡郡北部の本山からあらわれ長岡郡を縦断するかたちで高知平野にまで勢力を拡大、長岡郡南部に地盤を持つ長曾我部氏と対立した。梅慶の時代に全盛期を現出し、朝倉城を築くと、さらに浦戸にまで勢力を及ぼすに至った。

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朝倉城
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高知平野を見る

城址は高知市の西部に位置し、車一台がやっと通れる道を登って行った。城址へはいくつかの登り口があるようだが、公民館脇の空き地に車を停め、案内表示板に沿って進んでいくとポッカリと展望が開け高知市街が一望。朝倉に城を構えた本山氏は高知平野東方に勢力をおく長曾我部氏に対して、平野を挟んでにらみを利かせることができる好立地に城を構えたことが実感された。

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図説日本城郭事典より転載

東の登り口から踏み込んだ城址は、竹藪。雑木に覆われているが、横堀、堀切、石積などが確認できた。主体部となる詰ノ段(土佐では主郭のことをこう表現するようだ)を北に巻いていくと石積の井戸があらわれた。さらに井戸の周囲の曲輪切岸は丸石で積まれた石垣、曲輪の段構えも石積で区画されている。説明板によれば昭和の地震で積みなおしたものとあったが、本山氏時代から石積は存在していたのだろうか。井戸から見上げる詰ノ段の切岸は高く、主体部を構成する曲輪群もそれぞれ広い。

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朝倉城 東入口を防御する塹壕状の横堀
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主郭部へ
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井戸跡
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西の段より詰めの段を見る
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詰ノ段

本丸にあたる詰ノ段に登り、二ノ段、三ノ段を経て詰西の段をめぐる、高知県随一といわれるだけの大規模な城址遺構であった。主体部から西方の茶臼ケ森曲輪群に移動すると、主体部を防御する規模の大きな横堀、土塁が続き、石垣も多用されている。戦時中、城址は畑として耕されたといい、ある程度の改変は受けているだろうが、目の当たりにした城址遺構は見ごたえがあった。

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主郭切岸と腰曲輪
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横堀と土塁

茶臼ケ森曲輪群へと続く尾根筋にも曲輪が構えられ、茶臼ケ森曲輪群の主体部も石積が多用され、横堀、土塁などが設けられていた。茶臼ケ森曲輪の南に伸びる長い尾根曲輪はサツマイモ畑と化していたが、朝倉城址では一番広い曲輪であったろうと思われた。とにかく広い朝倉城址、すべてを回ることは時間的にあきらめて下山、つぎの攻城先である吉良城へと移動した。

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西の曲輪群と石積


吉良城

吉良城は七守護の一家で吾川郡を押さえた吉良氏の居城。朝倉城からは近くにあり、吉良氏は本山氏に押されて滅亡、本山氏が吉良を名乗った。

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吉良城跡を幼稚園前より見る

吉良城がいつごろ築かれたかは知られないが、吉良峰と呼ばれる山上に遺構が残っていた。城址への道は案内カンバンもあり迷うことなく登っていけた。城址は南端部を畝状堀切で防御し、主体部を大堀切で区画した小規模なもので、先の朝倉城と比べると吉良氏が本山氏に押され気味になったことが理解できた。

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滑りやすい斜面を登り畝状竪堀を踏み越えると城址南の曲輪群、主体部となる北の曲輪群とは岩盤を切り割った大堀切で区画されている。大堀切には竹の橋が架けられていたが渡る勇気はなかった。堀切を越えた北の曲輪の切岸には石積が残り、堀切側は土塁で防御されている。概略図を見れば北尾根は多重の堀切で防御されているが、踏み込むのをためらう笹藪であった。

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畝状竪堀
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曲輪切岸
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大堀切
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詰ノ段 曲輪切岸の石積
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南の段 貯蔵庫跡?謎の大穴

堀切探索はあきらめて南曲輪に戻り、南の段に登ると貯蔵庫が地下蔵があったのだろうか大きな穴が一つ口を開けている。南の段が城址の前衛であっただろうが、雑木に覆われて展望は望めなかった。
吉良氏を倒した本山氏が長曾我部氏に劣勢となり朝倉城を放棄して本山へ帰っていくと、吉良城には長曾我部元親の弟親貞が入って吉良氏を名乗った。その後、元親の後継をめぐる一件で親貞の子親実は元親の不興を買い切腹、吉良氏は名実ともに滅亡した。


姫野々城

吉良城を踏破したのちは、これも土佐七守護の一家である津野氏の姫野々城に進路をとった。津野氏は高岡郡一帯に勢力を及ぼし、最盛期には七守護随一の勢力を有した。

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姫野々城 図書館の駐車場から見る 

城址は公園化され、城山の中腹に鎮座する白雲神社まで自動車で登れる道があり、神社から城址まで整備された擬木の階段道が登っている。姫野々城の概略図を見ると、本丸にあたる主郭部と東本城、西丸で構成されている。そして、これでもか!というほどに堀切、竪堀で防御され、まるでハリネズミのようである。
神社に車を停め、細尾根を登っていくと小曲輪があり、堀切、竪堀があらわれ、山上の主郭部まで堀切、竪堀が連続する。しかし、斜面を覆う雑木のため、竪堀をシッカリと目で把握すことができなかったのは残念。

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城址南端の堀切
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南尾根筋の多重堀切
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堀切

山上の主郭部は詰ノ段と二ノ段、帯曲輪で構成され、まだ見ごろの紅葉が残っていた。城址からの眺望は山腹の木々が邪魔するものの、山麓の街並みから遠くの山まで一望だった。しかし、堀切、竪堀などの土木量はともかく、土佐随一の勢力を誇った津野氏の居城としては居住空間はあまりにも小振りに過ぎる感は否めなかった。おそらく、神社の鎮座する中腹の平坦地が主体の曲輪で、山上の曲輪群は詰めの曲輪として機能したのだろう。

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主郭切岸と西の腰曲輪
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主郭切岸と南の腰曲輪
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主郭切岸と西の腰曲輪

詰ノ段の北斜面の畝状竪堀、西尾根の多重堀切を見ようとしたが雑木藪に阻まれて断念、その先の西丸踏破もあきらめて東本城に向かった。斜面の畝状竪堀、尾根を遮断する多重堀切を踏み越え、たどり着いた東本城は小さな曲輪で見張所的な佇まいであった。

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東本城への尾根筋の多重堀切
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東本城への多重堀切

津野氏は土佐統一に乗り出した長曾我部元親と対立したが、やがて軍門に下り、元親の三男親忠が養子にはいって津野氏を継いだ。一方、長曽我部氏を継いだ親忠の弟盛親は関ヶ原の合戦に敗れ、地元に残った親忠の行動に不信を抱き切腹を命じた。親忠の行動は長曾我部氏の存続を願ってのものだったが、盛親には理解されず津野氏は滅亡した。盛親も親忠を殺害したことを家康から咎められ、長曽我部氏は改易処分となった。

朝倉城、吉良城、姫野々城の三城踏破で約六時間、予定していた片岡城と久礼城は時間的に割愛して、浦戸城に立ち寄り宿に帰ることにした。浦戸城に行く途中の海辺の道、続く防風林のなかは墓地になっている。延々と続く墓地はなんとも不思議な光景で、土佐の人は死んでのちも太平洋を見続けるということだろうか。機会を見つけて、海辺に墓地を営む理由を聞いてみたいものだ。

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浦戸城本丸
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本丸の祠

浦戸城は長曽我部元親が本城としたところだけに大いに期待したが、本丸一帯は国民宿舎と坂本竜馬記念館と化し、わずかに本丸の一部が残るばかりであった。ガッカリした気分に包まれた浦戸城址は早々に切り上げて、東にすぐの桂浜に向かった。桂浜といえば坂本竜馬像、はじめて見た竜馬像は驚きの大きさで、やはり百聞は一見に如かずだ。竜馬像からは太平洋が一望、砂浜に下りて夕焼けに映える砂浜歩きを楽しんだ。

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坂本竜馬の銅像、想像以上のデカさ
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龍馬像をアップ
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桂浜と太平洋

かくして2日目の行程は終了。宿に帰って事件勃発、なんと財布が見当たらないのだ。桂浜の土産物屋でお土産を買ってのち、財布は出していない。土産物屋に電話をしたがすでに閉店している。当然、相方には怒られるが甘受するしかない。ともかく、部屋に入ってのち警察に電話し、カード会社に紛失届を出し、あとは運を天に任せて明日のこととした。
posted by うさくま at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 山城探索
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