2020年12月11日

久下家と志賀家の家紋を求めて丹波から丹後へ

いちじま市研の青木さんの手を煩わせて、
丹波久下氏直系という「久下家文書」を伝える
久下家の墓所を案内していただいた。
墓所には株の内であろう四家の久下さんの墓石群があり、
いずれも「違い鷹羽」が刻まれていた。

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久下家の家紋「違い鷹羽」

 それぞれの家の墓所には江戸期以来のものであろう古い墓石があり、墓地の一角には一石五輪塔があり、五輪塔、宝篋印塔などの残欠が無造作に積まれている。一説に明智光秀が福知山城を築いた時に転用されたといわれるとか、しかし、久下家の歴史を鑑みれば時代が合わない。先祖の歴史を語る貴重なものである、きれいに祀りなおされることを願わずにいられなかった。 

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 久下氏といえば源頼朝から賜ったという「一番」紋、「太平記」にも記され「見聞諸家紋」には紋図も収録されている。一方、久下家に伝来する「久下家由緒書」には「たかの羽」が根本の紋と記されている。久下氏が所領とし本拠玉巻城を構えていた山南町に多い久下を名乗る家々では、「一番」の紋ではなく「鷹羽」紋が用いられていた。今日、直系であろう久下家の「違い鷹羽」紋を目の当たりにして、久下家の定紋は「鷹羽」であったと確信を得ることができた。

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丹波篠山市内で見つけた久下家の家紋

 言われるところの一番紋は旗印であり幕の紋であり、合戦がなくなったのちには表立って使うところはなくなったということであろう。ちなみに、丹波地域に多い久下家の家紋を訪ねると「五瓜に一文字」「藤に一文字」ずばり「一番」を用いる家もあった。案ずるに本家から遠くなるほどに、久下家の歴史に語り継がれる「一番」あるいは「一文字」を家紋に用い家の誇りとしたのだろうか。いわゆる家紋にも「アホバカ分布理論」が当てはまるといえそうだ。

 青木さんと別れたあと、もう一つの目的地である舞鶴の桑飼集落へと移動した。市島からは国道で福知山を経て由良川沿いに北上、四十分ほどで桑飼上集落の村墓地に到着した。目指すのは志賀家の墓石と家紋。早速、墓地にお邪魔すると佐藤さんの墓石が林立して家紋はこぞって「梶の葉」紋であった。探し求める志賀家の墓所も発見、逸る心で家紋を見るとズバリ「梶の葉」紋であった。

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ずらり佐藤家の墓石が林立、家紋はこぞって「梶の葉」
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志賀家。家伝にいう、諏訪氏族らしい家紋。

 中世、何鹿郡志賀郷に勢力を張り北野城に拠った国人志賀氏がいた。戦国末期の志賀政綱は光秀に味方して山崎の合戦で討死、遺児の某は乳母に連れられて滋賀郷より北へ山を越えた加佐郡の桑飼に逃れて土着したという。北野城主志賀氏は諏訪氏の一族といい、家紋は「梶の葉」であろうと想像していた。ところが綾部の故地に志賀名字はなく、天田郡・何鹿郡で見かける志賀家の家紋を調べると「梶の葉」を用いる家は少数派であった。そこで、いつか桑飼集落を訪ねて志賀さんの家紋を採取したいと思い描いていたのだ。
 桑飼上集落の荘厳寺の墓地にも志賀家の墓所があり「梶の葉」紋、桑飼下集落の村墓地の志賀さんも「梶の葉」紋、思い描いていた通り桑飼の志賀家は、出自伝承をいまに物語る「梶の葉」紋が用いられていたのだった。また、桑飼では先の佐藤さんをはじめ新宮さん、桑垣さんなど「梶の葉」を用いる家が多かったが、志賀家との関わりが背景ぬあるように思えたのだが? 加えて、桑飼には丹波に多い芦田姓も多く、何やら丹波との浅からぬ関係が垣間見えるのであった。

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桑飼上の芦田さん
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桑飼下の芦田さん

桑飼上に残る宇谷城に登る  

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宇谷城跡を丹波方面から見る

 志賀氏の家紋探索の調査を進めていると、志賀さんが集住されている桑飼上に宇谷城という山城があることを知った。ネットの概略図を見ると、小さな山城(というよ岡城)だが畝状竪堀、多重堀切で防御された、なかなか見ごたえのある遺構に心を惹かれた。比高も小さく、城址に祀られる祠への参道もある。これは登らずばなるまいと、桑飼上の志賀さんの家紋を採取したあとサクッと登った。

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ネットで見つけた高橋成計さんの手になる概略図
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宇谷城跡、主郭部北端曲輪の切岸と堀切
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北尾根曲輪の堀切
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主郭部曲輪切岸と曲輪

 登ってみると、城址は切岸も明確、削平地もきれいに残っていて、おそらく常住していのではないか?という佇まいであった。曲輪から南斜面に移動すると、これでもか!と気合の入った畝状竪堀、多重の横堀、その土木量に圧倒された。さらに、城址後方にあたる西の尾根筋に回ると、こちらも多重堀切で防御されているのだった。宇谷城、小さな城ではあったが、塹壕状の横堀、帯曲輪など山城パーツを体感できるところであった。

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南斜面の畝状竪堀
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二重の横堀
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西方尾根を遮断する豪快な二重堀切

 宇谷城の北側は由良川が流れ、丹波から丹後に通じる街道も通っている。いま、城址は雑木に覆われているが丹波方面ににらみを利かせる立地を押さえている。築城主体はよく分からないらしいが、丹後守護一色氏の被官飯田氏が築いたとも伝承されている。志賀さんの家紋を探して墓地を歩いたとき、飯田さんの墓所もあったが城主ゆかりの家だったのだろうか?

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・・・・・
 久下家直系の久下さんの墓所訪問、何鹿郡志賀氏の後裔であろう舞鶴の志賀家の家紋採取、畝城竪堀で知られる宇谷城攻め、それぞれ思った通りの成果で大満足 (^ ^) であった。ただ、舞鶴トレトレセンターで昼ごはんに食した海鮮どんぶり、全く山葵が利いていなかった。あの鼻へ抜けるツーンを味わえなかったのは残念だった。

posted by うさくま at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋
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