2020年12月05日

大山崎歴史資料館に遠征、館長の歴史講演会を聴講。

丹波篠山から大山崎歴史資料館に遠征。
目的は申し込んでいた大山崎歴資料館での講座拝聴と
特別展『「山崎合戦図屏風」と都市大山崎」の見学だ。

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道道、八上城、淀山・東山城、籾井城を見つつ
天引峠を越える。埴生城、神尾山城、八木城を横目に
京都縦貫道千代川インターより長岡京インターチェンジまで。

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八上城
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淀山城と東山城
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籾井城
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約二時間と少しで大山崎歴史資料館にスンナリと到着。
受付で福島館長に挨拶、入場手続をすましたのち、特別展を見学。
目の当たりにした「山崎合戦図屏風」、意外と小ぶりであった。

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せっかくなので図録をゲット、講演会場に移動。
コロナ対策で人数制限があったことで席も疎らに配置
昨年、別の講座を拝聴に来た時の混雑ぶりが嘘のような状態。

十三時半、講座がスタートした。
講師の福島館長と聴講者の間はアクリルとビニールで仕切られ
コロナウイルス感染拡大対策は面倒なことだ。

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合戦図屏風は古美術商から出物があったと連絡があったが
あまりに高価に過ぎて予算的に手が出なかった。
幸いなことに民間ではなく大阪城天守閣が購入された。

 江戸時代に描かれた屏風などは勝った側の子孫が先祖の功を自慢した例が多いが、山崎合戦図屏風は、江戸期の資料・軍記群をもとに作成されている。山崎合戦に関しては公家、京や奈良の寺社に史料が残っており、合戦があったことは間違いない。とはいえ、合戦に参加したものではなく、いわゆる聞き書きであり、リアルに合戦を書き留めたものではない。
 おもしろおかしく書かれた江戸期の軍記、近世から現代における歴史小説で植え付けられた大方の歴史認識は抜きがたいもので、歴史修正は難しい。天王山の取り合い合戦は史実ではなく軍記の創作で、実際の合戦は天王山山麓で行われたのが正しい。

江戸時代、「甫庵太閤記」「絵本太閤記」などが人気を博し、すでに太閤記をベースとした「山崎合戦図」が十七世紀(寛文五年)に描かれていた。太閤記はおもしろいが記録でも史料でもなく、物語であり小説と史家桑田忠親さんは喝破された。しかし、質の高い挿絵も相まって太閤記は庶民に受け入れられた。

 江戸期の太閤記の物語と「合戦図屏風」の内容を比較すると、軍記物語そのものが時代が下るほどに細部の記述が増補されていることがわかる。また、軍記、屏風絵などは、山崎の風景がシッカリと描かれていて、今の風景と照合できるとのこと。いまも、大山崎には山崎神社の神人の系譜を引く家が続いており、描かれた人物をみる、山崎神人に属する人物が加わっており、当時の神人の動向がわかるとのこと。

 ともあれ、絵本太閤記、山崎合戦図屏風の描写は江戸期の風景が描かれているようで、製作に先立って現地を実際に歩き。「摂津名所図絵」の影響も受けているらしい。また、絵本太閤記の挿絵は良質の作品で、其の後の太平記合戦の錦絵や浮世絵などにも影響を与えていることが知られる。
 パワポを使って、屏風絵や太閤記に描かれた内容の細部を解説では、離宮八幡宮は寛永の頃のもの、明治の廃仏毀釈でなくなった寺院なども描かれていて、江戸期の山崎の町の状態が知られて貴重。屏風絵に描かれた内容は太閤記を参考にし、風景などは描かれた時代にものであることが読み取れるそうだ。ちなみに、絵本太閤記の挿絵を描いた岡田玉山は「時代考証には注意したが、当時の史料は少なく、また自分には歴史や武具などに関する知識がない」と述懐し、適当には描いていないと書き残している。書き手として、史料を集め、いろいろと調査、取材をしていたことが知られる。

 太閤記 →浮世絵 →錦絵 →屏風絵というように、時代が下るにつれ、媒体を変えて歴史が史実から乖離していった。おもしろおかしく書かれた江戸時代の軍記、明治以降の歴史作家、とくに司馬さんの小説の及ぼした影響は大きいらしい。それら軍記や小説から得た大方の歴史認識は抜きがたいもので、史料上からは間違いであると指摘してもなかなか受け入れてもらえず、間違った歴史認識の修正は難しいそうだ。
 最期に山崎合戦図屏風は、史実を描いたものではないが、そのすべてが想像の作品というものでもない。屏風を仔細に眺めると、歴史評価の変化点はどこにあったか?が見えてくる。軍記、屏風絵などを後世の作り話と切り捨てるのではなく、そこに書かれた情報や風景などから歴史を探るというのも、今後、必要な作業なのでは?と締めくくられた。

 その後、質問に答えるという時間が設けられたが、我々はここで失礼することにした。せっかくなので、福島館長にあいさつをして、高橋さん、藤原会長らが赤井氏本城説ではなかろうか?と言われている母坪城のことを質問してみた。「赤井氏の本城と言う話があるんですか?知りません。あの城は大きいけれど、造りは古い形態だし・・・。今度、高橋さんに会ったら聞いてみます」「最近、高橋さん神がかってらっしゃいますから」などとおっしゃった。さて、どうなることやら。

恵解山古墳を再訪
 大山崎歴史資料館を出たあとは、もうひとつの目的地である恵解山古墳へと移動した。

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 十年前、ここの墓地を訪ねたとき携帯電話を落とした。あとで見つけることができたが、誰一人会うことはなかったことが思い出された。
 古墳が修築復元されたことは紋友の方より聞いてはいたが、実際に目の当たりにするとあまりの変貌ぶりにビックリした。この復元にかけたであろう、すごい工事量(予算も)にも驚かされた。かつて訪ねた墳丘上にあった墓地は健在で、すぐのところにある久貝地名を名乗る久貝さんの墓所もチャンとありました。

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勝龍寺城にも寄り道
 進路を沓掛インターチェンジ方面にとると、恵解山古墳からすぐ、勝龍寺城があった。せっかくなので、寄り道して城址を一回り。大昔に来た頃に比べると文字通りに隔世の感である。とくに今年は念願の大河ドラマも放映され、さらに、整備が行われようだ。御城印を買おうと事務所に声をかけると、残念、十五時で販売は終了だった。やむなし、今日の遠征はここまでとして帰路についた。
 沓掛インターチェンジから千代川インターチェンジ、372号線を丹波篠山へ。次第に夕闇は濃くなり、自宅に帰着すると六時を回っていた。


母坪城雑感
 帰宅したあと、歴友と母坪城についてあれこれやりとりした。
 考えるに赤井氏クラスの詰め城としては、高見城はあの高さ、構造など疑問が残り、かといって母坪城は川向こうにあること、規模が南側はともかく北尾根の曲輪群は規模が小さいような。白山の山上も遠過ぎますしね〜。やはり、末期は黒井城が赤井・荻野一族の詰めの城だったのでは?と思いますが・・・。
 ともあれ、赤井氏代々の本城は後屋城であり、従来説に言われる高見城がいざというときの詰めの城。母坪城は後屋城防衛の重要な支城で被官稲継氏を城将として任せた、ということでしょうね、きっと。
 さらに詰めの城をあの位置に置くのは危険!やはり白山か弘浪山にあるのが順当。でも白山は登った通りの見張所規模のもの、弘浪山中腹の高山寺界隈も赤井氏が城としていたといい、ひょっとして?などと思います。あれやこれやと考えるにつけ、赤井氏の山城ばどこに比定したらいいのでしょうね。最末期は黒井城であったことは動かないと思うのですが・・・。こんど、弘浪山に登りませんか?
 赤井氏の詰めの城、意外と弘浪山の中腹にあった高山寺がそれになるのでは?とか思われ、やはり再訪すべきと思いきわめたことである。

posted by うさくま at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 聴講録
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