今日は公休日。道道に置塩城、城山城など
播磨の山城を見つつ、西播国衆、
香山氏と肥塚氏の家紋と歴史の取材で遠くたつの市に遠征。
播磨の山城を見つつ、西播国衆、
香山氏と肥塚氏の家紋と歴史の取材で遠くたつの市に遠征。
まずは、かねてより取材アプローチをかけながら
壁が厚くて思うにまかせない、
香山城主 香山氏のご子孫宅を目指した。
香山氏は、司馬遼太郎の「播磨灘物語」で出鱈目に書かれたことがある。その場面では、我が生まれ故郷の地名も出てくる。最初読んだときは素直に「ヘェー」って受け止めたが、香山氏の歴史を知ると創作、しかもヒドイ書かれ方であることが理解された。ご子孫香山さんは、どう思ったのだろう?
たつの市域に入り時計を見ると12時前、これは訪ねるには失礼な時間である。香山に行く前に、香山名字がある時重、牧の集落で墓地を訪ね家紋を採取。牧の集落は、香山城からは一山を越えたところで、香山城の落ち武者を祀った供養塔が残っている。
時重集落の香山家は元庄屋と彫られた墓石をはじめ、いずれも「酢漿草」紋、牧の香山家は墓所の一角に古い五輪塔の残欠が祀られ「三つ巴」紋であった。
その後「道の駅」で腹を充したのち、御子孫という香山家を訪ねた。残念ながら留守で無念の撤収、すぐ近くにあった墓地で香山さんの紋を採取した。ここには五軒ばかりの香山家の墓所があり、いずれも「剣酢漿草」紋が用いられていた。
その後「道の駅」で腹を充したのち、御子孫という香山家を訪ねた。残念ながら留守で無念の撤収、すぐ近くにあった墓地で香山さんの紋を採取した。ここには五軒ばかりの香山家の墓所があり、いずれも「剣酢漿草」紋が用いられていた。
香山の墓地から西を見ると香山氏が拠ったと伝えられる香山城が見える。御子孫の家は江戸時代、香山村の庄屋を勤めたといわれるが「なるほど」とうなづける立地であった。ではあるが、香山の墓地において元庄屋香山家の墓所が特定できなかったのは心残りであった。
二つ目の目的地は梶山城主であった肥塚氏の菩提寺で、戦国期の当主肥塚和泉守が戦に敗れて自害を遂げたという圓融寺。圓融寺は二度目の訪問。資料などによれば和泉守の位牌が祀られ、そこには肥塚氏の家紋が描かれているらしい。ぜひ、この目で拝見したいと訪ねると、住職夫人らしい人がいらっしゃり訪れた趣旨をお話しすると「どうぞ」と和泉守の位牌堂に案内いただいた。
そこには「並び矢羽」を打った幕が張られ、祀られた位牌にも「二つ矢羽」の家紋が描かれていた。期待した通りの成果、文字通りに眼福に預からせていただいた。
お寺を辞したあと、和泉守が最後を遂げた場所にお参りし、同族会の建立になるという和泉守の供養塔拝見、墓石に打たれた「二つ矢羽」紋を採取した。供養塔の横には和泉守に有縁の肥塚姓の名前がズラリと刻まれていた。しかし、昨今の社会事情により同族会も前途は険しいらしい。
昭和から平成、そして令和へ。墓じまい、檀家離れと言う言葉があらわすように、先祖供養、家史伝承という営みは廃れる一方にあるようだ。なんとも残念なことと言うしかない。
山麓は構居跡です。そこから直登すると山上に見事な削平地は広大にあります。直登で後ずさりしながらの悪戦苦闘でした。二度と挑戦したくない登山でした。山上に立って下山するときに地形図をみながら南側に下山するとみ楽々下山できました。嘘のような感じです。