朝、外を見ると、なんとなくパッとしない空模様。
今日は、いつものメンバーと東播磨の平城&墓地紋探索歩き。
集合場所になる西脇へと移動しているうちに
天気は徐々に好くなっていく、播磨と丹波の気候差を実感する。
最初の訪問地は、戦国時代、但馬八木城主であった八木氏の
後裔という徳川旗本4000石八木家の穂積陣屋跡。
最近まで残っていた土塁も消失し、わずかに江戸時代末期に
八木家に嫁いできた池田氏の墓所を祀る御堂に詣でる。
御堂の瓦には八木家の「三つ盛木瓜」紋、扉には池田家の「蝶」紋が
確認できる。そして、墓石の裏面を見ると八木家の本姓「日下部」の
文字が彫られているのであった。明治維新ののち八木家が穂積陣屋を
去るとき、領民がせめて墓石だけで残してほしいと願ったという。
以来、村人の手によって御堂と墓石が守られているとのことだった。
ともあれ、土塁はなくなったが、御堂は大事に祀られているようだ。
瑞穂陣屋跡の日下部姓八木家廟所
墓石の裏面
穂積陣屋の一角に鎮座していたという穂積八幡さんに詣でると
むかしの鳥居の残片が残っていて、そこには八木家の殿さん、
陣屋に仕えていた武士たちの名前が刻まれているのだった。
いまでは儚くなった穂積陣屋の主であった八木家との縁を
先の御堂とともに語り継ぐ数少ない歴史の証であった。
つぎの目的地は、構城跡といわれる八王子神社。
城跡は平地城館遺構で、土塁と横堀がシッカリと残っている。
伝承によれば蓬莱氏が築いた城といわれるが、境内と周辺には
上月氏の古い墓石群、三枝氏にゆかりという室町期の宝篋印塔、
蓬莱家の墓所などがあり、語り継がれる伝承が微妙に混在しているのだ。
地域の歴史のおもしろさは、こういうところにあるのだろう。
構城跡の土塁と横堀(八王子神社)
室町期の宝篋印塔
つぎは、東播磨において格式の高い曹洞宗の寺院・慶徳寺。
慶徳寺は、中世、一帯を領していた上月氏にゆかりの寺と伝えられる。
たまたまいらっしゃった檀家総代の方が住職の奥さんに声をかけて下さり
思いがけず本堂、位牌堂などを見学させていただいた。
位牌堂には開山に係る家のものであろうか「二つ引・巴・三階松」紋を
描いた幕が掛けられ「三枝」家の寄進と見受けられた。
慶徳寺、大木は市指定の榧木
位牌堂の幕の紋
お寺の参道脇にある墓所にお邪魔すると、三枝家の墓石群が並び
仔細に見ると、室町時代のものであろう立派な墓石もあった。
三枝家の墓所
そこに刻まれた墓誌を読むと慶徳寺の開山は上月氏ではなく
三枝氏のようであった。ひょっとして、上月氏を継ぐカタチで
三枝氏が慶徳寺の再興に尽くしたものだろうか。ちなみに
寺を親しく案内してくれはった総代さんは「蓬莱」さんであった。
陣屋、神社、寺院とめぐったのちは、城館探訪である。
小野市の河合には、赤松氏の拠点城館として築かれた
河合城、堀井城、小堀城があり、河合城は嘉吉の乱で将軍義教を討った
赤松満祐が義教の首を持ち帰った城館としても知られるところであった。
まず堀井城。
先年、公園として整備され、土塁、堀跡はもとより
駐車場、トイレなども完備され、城内は憩いの場となっている。
むかしを知っている人からすれば、草が茂っていた以前の方が
中世の城館址としての野趣があり、おもしろかったらしい。
堀井城の土塁
曲輪の仕切り土塁
おそらく、妙にキレイになるよりは、醍醐味があったと思われた。
かつて城跡には国会議員にも選出され、加古川線の建設にも尽力した
斯波家の住宅があったが没落、今は公園へと移ろったのだった。
堀井城の次は河合城跡。
河合城跡は播磨守護職赤松氏の拠点城郭として構えられ、先の堀井城、
北西の小堀城などを支城とする東播磨平野における一大平地城館であった。
全国的にも屈指の規模を誇ったが、圃場整備事業が進められ
その重要性を認識しながら工事を止めることはできず、消滅してしまった。
何もない、河合城跡
播磨の戦国時代史に一ページを刻んだ重要な史跡であったが、いまは、
圃場整備の結果生まれた田んぼが広がるばかりである。
河合城の一角に営まれる墓地で紋をウォッチしたあと、小堀城へ。
小堀城も田んぼとなっているが、西辺の大土塁が城址の名残をとどめている。
北東、東部などにも土塁の残欠が確認でき、当時の規模が彷彿される。
西辺の土塁跡
東土塁の残欠
東播磨に築かれた河合・堀井・小堀の三つの城、
往時のままの姿は無理としても、戦国史跡として残す道はなかったのだろうか。
史跡保存の難しさを実感させられる、残念な結果であった。
三城をめぐったあと、蓬莱野の墓地、福吉阿弥陀堂の墓地をめぐり
丹波の大芋神社にちなむ伝承を有する「大芋神社」に参拝、その足で
江戸時代、大庄屋を務めた河合家住宅に残る土塁を拝見した。
河合家住宅に残る土塁跡
この河合家には「三戸家文書」が伝わり、文書には梶原政景、
上杉輝虎、謙信らの発給文書も含まれている。関東の戦国時代を語る
貴重な文書が播磨の一角に残っている・・・、実に歴史はおもしろい。
今日の最後の訪問地は、浄土宗西山派に属する来迎寺。
この寺の墓地に先の「三戸」家の墓所があるらしい。
お邪魔した来迎寺は立派な寺で、本堂などは見事なものであった。
墓所にお邪魔するとお寺の近くには古い墓石が並び、そこに
「三戸」家の墓所もあり、諱なども刻まれた武家らしい墓であった。
家紋は刻まれていなかったが、別のところに分家であろう
「三戸」家の墓所を発見、家紋を見ると「丸に算木」であった。
三戸家の家紋
調べてみると、関東の三戸氏は相模の三浦氏の一族らしい。
となると、家紋は「三つ引」の変形かも知れない。
来迎寺の墓所は山を切り開くように広がり、もっとも外縁部は
新たに分譲墓地として開発され、規模の大きな霊園となりつつあった。
なるほど!本堂や庫裏が立派だった理由はここにあったのだ。
時計を見ると、五時前、カンカン照りの下、
東播磨の平城&墓地紋探索に歩き回った。女性陣は退屈だったのでは?
と思わぬでもなかったが、あっちこっち、おもしろかった。
あとは、乾いた身体にビールを充たし、旨い肴で空腹を満たす
そして、歴史談義に花を咲かせる。かくして、今日もおもしろ楽しく
時は過ぎていったのだった。今日、行けなかった城跡、寺跡、
資料館は近いうちに「行こう!」と決めて解散、丹波へ帰っていった。
今日、小野市河合あたりで出会った家紋。
田舎ぶりであろう、剣酢漿草・酢漿草(田中・小堀・堀井・河合)、
二つ引両(三枝・宮永・蓬莱・小林)、
抱き茗荷(稲継・白髭・蓬莱)、三つ巴(河合・小林)など
オーソドックスなものがほとんどで、珍しいモノは少なかった。
追住さん 御幣
廣田さん 結綿
宮地さん 並び蝋燭
賀内さん 三つ追い亀
丹野さん 藤に虎杖
それでも、ジックリ墓地に並ぶ墓石を探索していると
上記のような珍しい家紋に出会えることができた。
戦国の史跡巡りと墓地紋ウォッチ、やはりおもしろい!