加西にある善防師城、播磨守護職赤松円心が築き「嘉吉の乱」を起こした満祐の弟則繁が城主であった。則繁は勇猛な人物といわれ嘉吉の乱の立役者の一人として知られる。その善防師城に久しぶりに登った。
主郭の説明カンバンに「赤松・佐伯氏系図」との文言があり、おおいに興味を惹かれた。同行のS氏が加西市役所の文化財系の知人に電話され、紆余曲折の末に御子孫の方にアポが取れたのだった。
麦秋と善防師城
さて、城主赤松則繁は嘉吉の乱で一方の大将となったが、作戦の齟齬から敗走、居城は家臣らに任せて播磨城山城に籠城した。城山城が落城間近になると、満祐の嫡男教康らと城を脱出して朝鮮に渡海、倭寇として暴れまわったという。最後は大和で討ち取られたらしいが、則繁には九州に遺児が残されたらしい。
遺児を育てたのは豊後の佐伯氏で、則繁の子は佐伯惟繁と名乗って播磨の故地に帰り、善防師の山麓に居を構えた。その子孫という佐伯さんが今も続いており、先祖の墓、一族の墓地などを案内してもらった。
菩提寺の古墓に彫られた加西佐伯氏の由緒
本家の古墓に記された代々の諱
一番気になっていた家紋は、佐伯氏に多用される「三本杉」であった。さらに三つの流れに分かれたことで「三本杉」の他に「糸巻」「剣酢漿草に糸巻」の三つの家紋を用いる三流に分かれたとのこと。珍しい糸巻紋の由来を知りたかったが、「よく分からない」とのことだった。ともあれ、赤松則繁の後裔という豊後の佐伯氏にもゆかりをもった家が播磨に息づいている、家系というのはまことに一筋縄ではいかない。
加西佐伯氏本家の三本杉紋
佐伯氏分家 の糸巻紋
佐伯氏分家の剣酢漿草に糸巻紋
今日、山城と家紋が教えてくれた歴史、墓石に彫られた家紋と由緒は家の歴史を語って十分過ぎるものがあった。なによりも墓石に彫られた家紋の図柄は、ズバリ想定していたものであり、ありがたく得がたい眼福に与らせていただいた。
案内していただいた佐伯さんは善防師城の観光にも関わっておられ、イベントなどの中心人物でもあった。今年はコロナでイベントの中止が続いているようで、折角、作製した善防師城の手ぬぐいが売れないとおっしゃった。そうと聞けば買わずにはおけない。同行四人、それぞれ一本づつ購入させていただいた。
加西市を歩いたことをフェースブックにアップすると、日本家紋研究会 高澤会長よりメッセージをいただき、「糸巻」紋の由来についての啓示をいただいた。
●佐伯氏の家紋の由来についてのFB問答覚え
高澤会長
豊後大神氏から出た佐伯さんですね(^^)ああ、そういうことか、解りましたよ、糸巻の由来(^^)
播磨屋
ええ!そうなんですか、メッセンジャーでお聞かせください。
高澤会長
佐伯氏で杉紋を使い「惟」を通字にしているので豊後大神氏の一族と解ります。 ここでふと想い出しました。緒方三郎の伝説を。 『平家物語』に載る「緒環(おだまき)」です。 夜な夜な訪れる男の襟に緒環を付けて、その糸を辿って正体を突き止めたら大蛇だったという逸話ですね。 だから佐伯氏も緒方氏の一族として糸巻(おだまき)を家紋に使っているんだと思います。
播磨屋
おはようございます。 佐伯氏の祖先譚 高地尾明神の神子の話ですね。まったく失念していました。伝承をもとに糸巻の紋を用いたとすれば、加西佐伯氏にはなかなかの知恵者がいらっしゃったのですね。早速、昨日あれこれ案内してくださった佐伯さんに連絡してみます。ありがとうございます。本家のものという古い墓石に彫られた名前をみますと、本姓は 大神 ではなく 源 でした。仮名は源右衛門が本家のもので、いまは屋号として用いられるそうです。大神佐伯氏を意識しつつも、赤松則繁の後裔であることを重視されていたようです。
高澤会長
杉と糸巻という家紋を見る限り、源姓に転向するまで大神氏であるという意識は明瞭に残っていた感じですね。
ちょっと長いですが、その件。 『平家物語』 「緒方三郎維義に下知す。彼維義はおそろしきものの末なりけり。たとへば、豊後国の片山里に昔をんなありけり。或人のひとりむすめ、夫もなかりけるがもとへ、母にもしらせず、男よなよなかよふ程に、とし月もかさなる程に、身もただならずなりぬ。母是をあやしむで、「汝がもとへかよふ者は何者ぞ」ととへば、「くるをば見れども、帰るをばしらず」とぞいひける。「さらば男の帰らむとき、しるしを付て、ゆかむ方をつなひで見よ」とをしへければ、むすめ母のをしへにしたがて、朝帰する男の、水色の狩衣をきたりけるに、狩衣の頸かみに針をさし、しづのをだまき(緒環)といふものをつけて、へてゆくかたをつなひでゆけば、豊後国にとても日向ざかひ、うばだけ(姥岳)といふ嵩のすそ、大なる岩屋のうちへぞつなぎいれ入れたる。をんな岩屋のくちにたたずんできけば、おほきなるこゑしてによびけり。「わらはこそ是まで尋まいりたれ。見参せむ」といひければ、「我は是人のすがたにはあらず。汝すがたを見ては肝たましゐも身にそふまじきなり。とうとう(疾う疾う)帰れ。汝がはらめる子は男子なるべし。弓矢打物とて九州二島にならぶ者もあるまじきぞ」とぞいひける。女重て申けるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日来のよしみ何とてかわするべき。互にすがたをも見もし見えむ」といはれて、さらばとて、岩屋の内より、臥だけは五六尺、跡枕へは十四五丈もあるらむとおぼゆる大蛇にて、動揺してこそはひ出たれ。狩衣のくびかみにさすとおもひつる針は、すなはち大蛇ののぶゑ(のぶえ)にこそさいたりけれ。女是をみて肝たましゐも身にそはず、ひきぐしたりける所従十余人たふれ(倒れ)ふためき、おめきさけむでにげさりぬ。女帰て程なく産をしたれば、男子にてぞありける。母方の祖父太大夫そだててみむとてそだてたれば、いまだ十歳にもみたざるに、せいおほきにかほながく、たけたかかりけり。七歳にて元服せさせ、母方の祖父を太大夫といふ間、是をば大太とこそつけたりけれ。夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太とぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる高知尾の明神の神体也。此緒方の三郎はあかがり大太には五代の孫なり。かかるおそろしき【恐ろしき】物 の末なりければ、国司の仰を院宣と号して、九州二島にめぐらしぶみをしければ、しかるべき兵ども維義に随ひつく。」
播磨屋
ありがとうございます。播磨と言えば赤松氏!今回、眼福に与った加西の赤松・佐伯氏は、キリシタンとしても注目されているようです。昨日いろいろ案内いただいた佐伯さんも、そのようなことを語っていらっしゃいました。正史には表れないウラの歴史にふれた思いでした。