先月末から今月のはじめにかけて丹波新聞で
連載された家紋記事を読んだという方から
「我が家の家紋は「株柏」のようだ」との電話を受けた。
詳細をお聞きすると、綾部市上林谷の睦寄にご主人の生家があり
名字は「Kumauti」とおっしゃった。上林谷といえば
「株柏」紋の多いところだが、「Kumauti」姓は見落としていた。
ネットで「Kumauti」姓の分布を調べ、グーグルマップで墓地を特定。
小雨がぱらつく中、片道60kmの道をひた走った。
鼓峠の石楠花
綾部から山家、上林谷のルートはもう何度も通った道ではあるが
今日の目的地睦寄は上林谷でも最奥のところである。
今日の目的地、睦寄の村墓地
墓地
こぎれいに整備された村墓地にお邪魔すると
お電話をいただいた方と同苗の家の墓があった。
家紋は?と見ると意外にも「株柏」ではなく「三つ柏」だった。
電話では、「紋帳にも載っていなくて苦労する」とのことだった。
ここの墓地ではない、別の場所に墓所があるのだろうか?
早速、周辺に墓地を探したが見つからない。已む無し!
さて、株柏紋のある墓地を訪ねると三つ柏紋が多い。「株柏」紋は
「三つ柏」紋からの派生紋のように思えるのだが、どうだろう?
株柏紋の採取は空振りに終わったが、このまま帰るのも物足りない。
せっかくなので、国宝の仁王門で知られる古刹 光明寺を再訪した。
墓地からすぐのところにある「あやべ温泉」の傍らから
光明寺へと続く車一台がやっとの林道があり、登って行った。
みるみる上林谷は遥か下界の地となり、光明寺へと登りついた。
光明寺本堂への参道石段、百段以上
光明寺本堂からの眺め、下界の上林谷は遥か彼方
南北朝期の宝篋印塔、シュッとしたいい姿
江戸時代、一帯を治めた藤掛氏の名前が刻まれた旧の鐘
本堂にお参りしたあと、国宝の仁王門方面へと下っていった。
参道の両脇にはかつての賑わいをいまに伝える
塔頭跡であろう平坦地が階段状に連なっている。見方によっては
山城の曲輪跡のようにも見える。
山道の脇に連なる最盛時の塔頭跡、まるで山城の曲輪のような佇まい。
光明寺は真言宗の古刹であり、中世には僧兵を養っていたことであろう。
寺伝には大永七年「赤井の乱」の兵火で被害を受けたとある。
大永七年と言えば波多野兄弟が細川高国に反旗を翻し、
赤井氏は波多野氏を後詰して歴史に登場した。その年の兵火とすれば
光明寺の勢力は細川高国方に属していたのだろうか?
そのとき、各塔頭は僧兵たちの武者だまりになったことだろう。
国宝の仁王門、意外に小ぶりなものだ。
境内から集められ祀られている五輪塔、石仏群。古いモノを見ると心が和みます。
参道脇の石仏。むかしより、多くの参拝者を見守ってきたのだろう。
むかし、サーラの方々に交じって登山して以来の光明寺、
桜も散り初めながら、シンとした山の空気は冷たく寒いくらい。
それでも、山上のお寺歩きはなんとなく楽しかった。
下山したあと、和知の「道の駅」により、ブラブラと帰路についた。
そういえば、電話をいただいた「Kumauti」さん、
今日、家紋が描かれた風呂敷などを持ってくるとおっしゃっていた。
結局、連絡はなかったが、どうされたのだろう?
ご主人の家の紋という「株柏」紋の意匠を見たいものだ。
写真にあるお墓はうちの株(先祖)かもう一つの熊内かのどちらかです。祖父から熊内には2系統あると聞いています。
昭和の初めに祖父母は舞鶴に出て今はその曾孫(私の従兄弟の長男)が直系で舞鶴市内に住んでいます。
私の父は舞鶴で生まれ、中学卒業後大阪に出て停年まで大阪に住み。その後、篠山に引っ越して現在も同地に住んでいます。
家紋の株柏ですがデザインの少し異なるものを何種類か見たことがあります。うちの家紋はここで紹介された新聞のものと外形はほぼ同じですが、木の模様が異なります。珍しい家紋なので貴投稿に親近感を感じ、コメントさせていただきました。
PS: HPを持っていないのでこのページのURLを使用しました。