2019年12月14日

京都山城一揆の家紋探索に遠征

山城一揆にゆかりの国衆の名字を名乗る家の家紋採取を目論み、
かねてより山城一揆関係の家紋を調べてはる家紋友達のKさんに
先達をお願いして墓地めぐりに出かけていった。

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丹波を7時前の電車に乗り、尼崎で乗り換え、
京都で乗り換え、おおよそ2時間半の行程。九時半、集合場所に到着。
山城一揆衆、家紋採取の墓地めぐりをスタートした。

まず、宇治市内の伊勢田墓地から家紋採取を開始。この墓地では、能勢家の家紋と大北家の家紋を採取した。能勢家はこぞって「十二目結」なのだが、厳密に言うと目結部分の結部分がなく「十二石畳」を呈していた。しかし、家紋の呼称としては「十二目結」が正しいことは言うまでもない。

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大北家は「折敷に三つ星」「横木瓜」紋があったが、大北さんには関係なく三つ星の方を中世的家紋に選ぶことにした。京都の墓地には葬送儀礼を行う龕薦堂(がんせんどう)という建物があり、ここにも六地蔵を祀る立派なお堂があった。名字としては北川姓が多かったような。

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二つ目は水主家の墓所があるという、ずばり水主墓地。木津川の河川敷に営まれた墓所にお邪魔すると斎藤姓が多く、家紋は「蔓柏」が多数派であった。水主家の墓石を探して墓所を歩き回ったのだが、結局、目指す水主家の墓石は発見できず、墓じまいをされたのだろうか?などと、言い合って次の目的地へと移動した。

三つ目は、飯岡墓地。水主家の墓石があるという墓所である。
飯岡車塚古墳の南側にあり、三つの集落の墓地が一ヶ所に集まり、それぞれ小道で区画されている。変わった墓石があるな?と見たところ、本能寺の変後、進退を誤って横死を遂げた穴山梅雪の墓所であった。よくある五輪塔と宝篋印塔の残欠を組み合わせたもので、いずれかが本来のものなのであろう。

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墓所の間をそぞろ歩いていると、小山家の二つ巴が目をひいた。他には、出島家、川原家、小泉家、小野家、奥西家、谷村家が多数派で、近くには奥谷姓だけの集落もあるらしい。そのなかで小野家が「上り藤に大文字」、小の字でないのがおもしろかった。しかし、探す水主家の墓所は見当たらない。墓地の東屋にいらっしゃった男性にダメもとで聞くいてみると、アッサリと教えてくれはった。その家紋は「対い竹笹」紋であった。

朝の墓めぐりは水主家までとして昼食を摂り、昼からは、まず稲八間城跡に比定される小山の南麓にある墓地からスタート。
ここは、山城一揆の最後に山城一揆の国衆たちが立て籠もったところで、国衆たちが後生を願って建立したという逆修五輪塔が目当てだ。

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見つけた五輪塔の説明カンバンには天文年号があると記され、ということは一揆衆の逆修五輪塔ではなさそうだ。十六世紀の戦国時代に関わるものであろうか?

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つぎは、北稲八間の安楽寺の裏山の墓地にあるという大喜多家の墓石を目指した。ところが、道を間違えてしまい、北稲八間の氏神という武内神社に迷い込んだ。この神社後方の山が稲屋妻城とされるが、一揆衆が拠ったという稲屋妻城は南稲屋妻に残る城跡がそれではなかろうか。昨年の冬、実際に登り歩いてみて、遺構のあり方などまず間違いないだろうと確信をもっている。

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さて、たどり着いた安楽寺の墓地にお邪魔すると、大喜多家の墓石があり「茗荷」紋が彫られている。先の大北さんと、こちらの大喜多さん、紋だけを見ると「三つ星」としたいところではある。

つぎは普賢寺谷衆が割拠したという普賢寺谷である。中世、普賢寺谷衆と呼ばれた小武士のうちの大西家、その先祖という近衛基通の墓所に寄り道したが、かつての語摂家筆頭、戦前の総理大臣を出した家に関わる墓所ながら荒涼感は拭えなかった。

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普賢寺谷野神墓地で、普賢寺谷衆に名字が出てくる下司家の墓石をウォッチ、家紋は「梅鉢」であった。ここの墓地内では、「山吹に水」「菊に水」紋の田宮家が目立った。

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ついで、普賢寺谷水取区の墓地に移動。こちらは大西一族という家々の墓所がある。大西家は戦国末期に足利義昭との関係で没落、子孫は藤林・南と名を改めたという。墓地にお邪魔すると藤林さん、南さん、そして大西さんの墓石があり、「下り藤」「藤巴」「藤輪」など藤系の家紋が用いられていた。

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普賢寺谷から北上して京田辺市の田辺公園北の墓地。ここの墓地では、田邉家の墓石と家紋探し。数基、見つけた田邉家の墓石には「菊水」紋、「藤巴」紋が刻んであった。田辺家の出自がウッスラでも伝承があれば、いずれかの紋であろうかと推定されるのだが、伝わるところはない。さて、いずれに決するべきか、悩ましいことではある。この墓地では「万子」姓があり、その読み方を思ってニンマリしたことだった。

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京田辺市から木津川市に移動。公文代家の墓石があるという和泉寺墓地にお邪魔すると、公文代家の墓石が十基ばかり。家紋を見ると、「五瓜に釘抜」を多数派に「剣カタバミ」「梅鉢」などが用いられていた。他家の墓石にも「五瓜に釘抜」紋があることから、公文代氏の家紋は「五瓜に釘抜」としたいのだが、どうだろう。

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今日の最後となったのは、山城一揆の中心的存在であった椿井氏の古墓への再訪。むかしの記憶をまさぐり、ここであったろうという墓地にお邪魔し、道なき道を竹薮に入っていった。あちらこちら探してみたが、ついに椿井家の古墓を再発見することはできなかった。

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かくして南山城の墓地を案内してもらい、中世以来の名字を受け継がれたであろうと思われる家々の墓地紋採取ができた。時間を見れば四時過ぎ、陽は西の空に傾きかけつつある。墓地は数あれど、時間には限りがある。今日の墓地案内の労に感謝して、Kさんとお別れした。帰り際、お土産に歴史本をいただき、まことにありがたいことであった。今日の成果は、来年の家紋講座で発表する予定、聞けばKさんも聴講いただけるらしい。重ね重ね、ありがたいことである。

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今日は野田阪神に行く予定だったが、家内の実家がある大阪城東区に泊まることになった。駅に降りてビックリ!古臭い駅だったものが、四線となり、改札口のあたりもまったく一新され、かつての雰囲気はまったくなっくなっていた。この駅にあはじめて降りてから半世紀近く、世の中は着実に動いていることを実感したことだった。

posted by うさくま at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋
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