2019年11月24日

伐採作業が行われた埴生城攻め

十年前の年の瀬に登った埴生城、
知り合いの方が整備作業が行われたとの
京都新聞の記事をネットにアップされた。

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はじめて登った時、雑木に覆われていたが
記事の写真を見るかぎりではバッサリと伐採され
京都方面の展望も確保されたとのこと。
今日は亀岡に行く用事もあることとて
行き掛けの駄賃にうどんを食し、埴生城を再訪した。

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館跡という最福寺、山門後方の山上に埴生城跡

埴生城の城門を山門に転用したという最福寺に車を停め、
なんとなく覚えている城址へのルートに踏み込んだ。

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登り口に通じる、赤い鉄製の小橋
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城址へ登り口の傍にあった古墓、城主野々口氏にゆかりのものか?

山麓の居館跡と思しき平坦地を過ぎると、山腹斜面に
白いビニール紐が、登り道を明示しているのであった。

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虎口に残る石積
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バッサリ伐られた山上曲輪

迷うことなく登りついた城址は文字通りにスッポンポン
山上曲輪一帯は見事に雑木が切り払われていた。

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曲輪と櫓台
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京都方面を見る
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櫓台の基礎部分の石積
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山上曲輪、櫓台後方の大堀切

いささか、やりすぎの感無きにしもあらずだが
これも来年の大河ドラマの効果、山城が着目され
地元有志の方々で手入れされたのは喜ぶべきことであろう。

埴生城は二つの曲輪と櫓台、そして尾根筋を遮断する大堀切で構成された小ぶりな山城である。土豪の野々口氏が築いたと伝えられ、八上城主・波多野方の京都方面に備える出城であったろうな、と。埴生城は山麓を通る旧山陰道を押さえ、城址からは東は亀岡方面、西は八田越えの峠を見据え、実に要衝の地に構えられたことが実感された。
ちなみに八上城にも西蔵丸があり、野々口氏は早い段階で光秀に通じ波多野秀治の降服交渉にも活躍したいい、光秀が秀治を安土に送る途中この埴生城に立ち寄ったなどという話も伝わっている。
また、本能寺の変に従軍したという本郷惣右衛門は、野々口西蔵坊に属して出陣したという。西蔵坊は光秀が滅んだのちは、巧みに秀吉に通じるなど上手く立ち回ったというが近世には生き残っていない。どこかで、上手の手から水が漏れたのだろうか。

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野々口氏の墓石群

城址登り口にあたる最福寺の境内墓地には、
城主最蔵坊にゆかりの家であろうか野々口家の墓石があり、
刻まれた家紋はこぞって「三つ引両」であった。
篠山の東部にも野々口姓が分布し、挙って三つ引両紋、
乱世を生きた最蔵坊は「三つ引両」を旗印としたのだろうか。

・・・
下山したあと、先月末より横浜に遠出していた相方が帰還
亀岡駅まで迎えに行った。不自由で自由な日々も
今日でおしまい、以前の日常が戻ってきた。
posted by うさくま at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
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