2019年10月29日

おもゼミに参加して、篠山のみ仏を訪ね歩く

丹波篠山市の公民館事業の人気コンテンツ「おもしろゼミナール」
2019年度おもゼミの第五講「古里にみ仏を訪ねて」に参加した。
講師は丹波篠山市内の文化財に精通され文化財保護審議委員の一人、
教育委員会時代には篠山城大書院の再建に尽力された今井さん。

丹波篠山市内には戦前は国宝指定を受けていたが
戦後、重要文化財指定となった仏像が数多伝来している。
普段なら見ることが難しい重文仏像群の鑑賞と有する歴史
それを今井さんの解説で見てまわる、素晴らしい企画である。

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朝の9時 集合地の四季の森でバスに乗車、おもゼミツアーがスタート。

一番目の訪問地は、今田町下小野原の弥勒堂。
本尊である弥勒菩薩坐像は平安時代後期の作で、全体に簡単な造り、丹波の仏師の作になる田舎仏、ひょっとして丹波の正倉院といわれる達身寺にゆかりがあるものか?脇仏は、左が毘沙門天、右が増長天。当時の岩絵の具を用いた彩色が残っている。弥勒は釈迦入滅後56億7千万年後の未来に現れ衆生を救済する仏さまといわれる。

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お堂はこれまで何度も見ていたが、その中にこのような見応えのある本尊と脇仏が祀られているとは知らなかった。おそらく、もっと大きな寺院に祀られていたものが、寺院は衰退、残された仏さんが大事に守り伝えられているものであろう。

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このあとの仏像ウオッチに先立って、そもそも神国であった日本に仏教が伝来したのち、神さんと仏さんが一緒に祀られるようになった。いわゆる神仏混淆で、インドの仏が日本に来て神さんと習合、そして、神さんには本体となる仏さんがあるとする本地垂跡の話をされた。
あとで弥勒菩薩のことを調べると、蔵王権現に垂跡したとあることを思えば、お堂の仏様たちは修験系の寺院に祀られていたものではなかろうか。

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二つ目の訪問先は、二老山和田寺
和田寺さんは何度かお邪魔しているが、来るたびに霊園墓地が広がっているような。庫裏に入れてもらうのは二度目のこと、昨年、普山式をすませ新住職に就かれた若住職による寺の歴史解説を拝聴。
古い歴史を有する寺だけに、新住職の話も長かった。興味を引いたのは庫裏に祀られる厨子と阿弥陀三尊像の話で、厨子は後水尾天皇の典侍で霊元天皇生母である新広義門院の寄進になるもので扉には菊の御紋が打たれていた。また、和田寺は天台宗寺院であり本尊は千手観世音菩薩である。それゆえに、阿弥陀三尊仏が祀られているのは興味深いところである。

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和田寺には数多の寺宝があり、中世文書も伝来、それらを惜しみなく庫裏に展示いただいた。それらのなかでも丹波守護で幕府管領を務めた細川政元が文明十四年に発給した禁制の本物を拝見させてたいだいた。実際に掲示したものと、控えのものとが一対で残っているのは全国的にも珍しいものであり政元の花押に見入ってしまった。

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三つ目は松尾山文保寺
文保寺さんでは仁王門と先年に修復された仁王像の鑑賞。住職さんの歴史解説を拝聴し、今井講師の追加説明をうかがう。仁王像の修復に際して作像時期が判明、胎内文書なども発見されるなど寺の歴史を裏付ける発見があったとのこと。

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修復なった像は妙に新しく、かつての枯れて寂び寂びとした風情が失われていると思ったのは生意気であったろうか。ふと見ると、新しい墓地が造成され、寺離れ、墓離れなどが進む現代、寺院経営を続けるうえで墓地分譲も止むなしなのだろう。もっとも、先の和田寺さんに比べると、その規模はまことにささやかなものではあったが・・・。

午前は多紀郡西部の仏像を廻ったわけで、午後からは東部の仏像めぐりとなる。
城東公民館で弁当を使い、小休止をしたのち、昼の部がスタートした。

先ずは、公民館からすぐ南のところにある磯宮八幡神社
宮司の畑尾さんによる日本の神道の始まりについての話。磯宮さんはむかし五十宮とかかれ、そもそもは弓月神社であったという。弓月神社は八上城東北麓にも鎮座し、北方にある泉集落の鎮守八幡さんも弓月神社であったとのこと。弓月神社は半島から渡来した神で磯宮さんを中心としたあたりは弓月族が開いたところで、弓月の神を祀り、収穫が終わると神に感謝して皆で米を食した。いわゆるみんなで一つの味を食す、そこから一味という言葉が生じたそうな。

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さらに、神様にも流行り廃りがあり、のちの世に神宮皇后の三韓征伐の故事から八幡さんが受け入れられ、霊験あらたかであるとして流行すると多くの神社が八幡さんを祀るようになったという話などはおもしろかった。磯宮八幡さんの場合は、京の石清水八幡宮の分霊を勧請したものだという。ということは、磯宮八幡の氏子が住まう地域が石清水八幡宮の荘園ということでもないので、八幡さんの本家に石清水八幡宮がなったのちに勧請されたことになる。

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仏教が伝来したのちの神仏混淆が受け入れられようになると、神宮寺が置かれ、京都仁和寺の末となった。明治維新の神仏分離令により神宮寺は廃されたが、本尊(大日如来)と天部である四天王のうち多聞天と持国天が残され天部の二体はドッシリとした造形が平安時代の特徴をとどめ重文指定を受けている。

つぎは廃寺となった西光寺に祀られていた重文仏の収蔵庫。
西光寺は昭和20年代の末まで庵主さんが守っておられたが、亡くなられたのちは荒れる一方となり、戦前は国宝指定をうけ戦後に重文指定となった仏さんたちも盗難の危険にさらされた。昭和47年、国の予算で収蔵庫が建てられ、本尊の薬師如来、四方を守護する四天王などの仏像が収納されたとのこと。

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ご本尊は舟形光背に化仏、頭光を付した坐像、四天王立像は桧の一木造りに腕を矧ぎつけたもので、いずれも丹波仏師の作になるらしい。ご本尊はドッシリとした重量感が迫ってくる仏さま、四天王像はいずれもスッキリとした立ち姿で、とくに柾目が通った多聞天像は見応えのある姿であった。

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現在、これらの仏さんと収蔵庫を14軒の家々で守られているそうで、少子高齢化などもあって相当の苦労をされているようだ。それもあって、入館料ではないが幾許かの志納金を納めて仏様への感謝の思いをあらわした。思えば、このような貴重な文化財、公的資金を有効活用して守っていけないものかと義憤を覚えたことだった。

三つめは西本荘の大日如来堂。
本荘郵便局近くにバスを止め、下車。本荘は里山工房くもべ や洞光寺の紅葉、山城・墓地めぐりなどでなどで何度も訪れているところだが、大日如来堂の存在ははじめて知った。
参道の石碑には「大日如来 飼い牛守護 不動明王 交通安全 祈願所大日堂」と刻んであり、そのかたわらに空家であろう立派な古民家がある。今井さんに聞けば、かつて小畠正宗という銘柄の酒を造っていた酒屋であった。むかしは二つか三つの集落に造り酒屋があり、ハレの日ならずともおおいに酒が呑まれていたそうな。第二次大戦中の企業整備令により多紀郡内の酒造屋は統制さ多紀酒造となり、戦後は鳳鳴酒造と名を改めて現代に至った。

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大日如来堂は見応えのあるお堂で、堂内には護摩壇があり本尊として大日如来が祀られている。お堂は無住、管理されている慈眼寺さんから預かった鍵で堂内に入ろうとしたが、なんと鍵が開かないのであった。ということでご本尊は見えないまま、境内でお堂にかかる歴史話を拝聴した。大日如来を祀っているということは顕密系の寺院があり、時の流れのなかで衰退したのち鎌倉仏教に転宗となった。いま管理されている慈眼寺さんは曹洞宗のお寺である。
お堂の後方を見ると鳥居があり、春日神社が鎮座しているとのこと。大日如来堂といい春日神社といい、まったく知らなかった。今井さんいわく、篠山東部の場合、篠山川をはさんで北に春日神社、南に八幡神社が祀られているという。北はカスガ族、南はハチマン族がいたのでは?とのことだったが話半分であろう。

今日、最後の訪問地は小原の大日堂。
小原は丹波修験にゆかりの山、八ヶ尾山の山麓に位置する集落。丹波修験道の行者は筱見四十八滝で水垢離をし、八ヶ尾山の大日堂に参り、そこから小金ヶ嶽の福泉寺から御嶽の大岳寺までの金剛界、大岳寺から栗柄の不動堂に下り不動の滝で水垢離を為す胎蔵界を踏破した。

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むかし、小原の大日堂は八ヶ尾山にあったものが里に移されて祭祀が続けられていると聞いた。今日、はじめて大日堂に入る機会を得て、祀られている大日如来にお会いすることができた。今井さんの解説では、大日堂の大日如来は智拳印を結ぶ金剛界の如来様で、平安時代中期の特徴をもつ仏像らしい。大日如来は遍照金剛ともいわれ世界を遍く照らす仏様、神仏習合においては天照大神と同一視される。また、怒りを発すると不動明王に化身、衆生を守り導いてくれるという。お堂に祀られる大日如来は大きな像ではないが、端整な姿のもので、県の指定文化財となっている。

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大日如来を守られている小原集落の自治会長桑形氏が資料とお茶を配られ、小原の歴史について話をされた。そのなかで、奈文研の技師の方が大日如来像を見られて、西暦1159年±10年ごろの作で、京の仏師の手になるものだろうと鑑定されたそうな。ということは平安時代後期の作ということになるが・・・。加えて、お堂の建築様式も貴重なもので大日如来と同様に重要文化財の指定を受けていないのが不思議だと語られたという。
知らなかったのだが、大日如来は牛を守護する仏様でもあり、1月28日の縁日になると多くの博労さんが参拝し大いに賑わったという。そういえば、西本荘の石標にも「飼牛守護」とあった。むかしは牛が農作業に活躍、また育てた牛を売買して収入とするなど、農家にとって牛は貴重な存在であった。大日如来さんは人だけではなく、牛までも遍く照らしておられたのであった。
最後にお堂より北東にある山は毘沙門岳と呼ばれ、その中腹に毘沙門洞があり、毎年、正月の寅の日には毘沙門堂の奥に祭られた像に朝日が当たるという、なかなか神秘的な光景が現出するらしい。身体が元気なうちに、その光景を目の当たりにしてみたいものだ。

かくして、おもしろゼミナール第五講は、予定通りに古里を訪ね仏像をめぐることができ、まことに得がたい貴重な勉強をさせてもらった。丹波篠山は篠山城や祭礼が注目されるが、それだけではない奥の深いところであることを改めて実感したツアーだった。いやいや、眼福にあずからせていただいた。

posted by うさくま at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山歩き
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