2019年10月05日

講座丹波学、第三講を拝聴する

今日は講座丹波学の第三講、
お題は『丹波赤井氏(荻野氏)氏の勃興』
講師は立命館大学講師の秦野氏であった。
講演会場は丹波の森公苑、孫ウーと次女、
相方も連れ立って出かけていった。

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来年の大河ドラマが明智光秀が主人公の「麒麟がくる」に
決定してからの本講座も丹波戦国史に係る話が多い。
本日の赤井荻野直正にしても織田信長が丹波攻めを進める
キッカケを作った人物と言っても過言ではないだろう。
直正は「赤井」・「荻野」と言われるように、赤井氏に
生まれ同族(一族)という荻野氏の養子になった人物。

まず荻野氏は南北朝期に登場、丹波守護仁木氏の守護代として活躍したが、仁木氏が勢力を失うと、荻野氏も勢力を失った。とはいえ、応仁の乱後の丹波国一揆などに加わり、戦国末期まで丹波の地に割拠した。

一方の赤井氏は、系図などによれば鎌倉時代から連綿と氷上郡に勢力を有していたようにあるが、歴史上で確認できるのは大永の神尾山合戦における赤井五郎が初出である。その後、波多野氏らと手を結んだり、対立したりしながら奥丹波の有力大名となった。

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赤井氏と荻野氏は同族関係とする系図もあるが、荻野氏は桓武平氏梶原氏の流れを汲むとも、武蔵七党から出た荻野氏の流れであるともいわれる。おそらく、丹波の地において赤井氏と荻野氏は同族化し、赤井氏系図に組み込まれたものであろう。もっとも、赤井系図そのものも古い部分は多分に創作されたものと考えられるが・・・。

赤井氏は丹波守護細川氏の内訌、いわゆる両細川の乱による混乱を好機として勢力を拡大した。そして、赤井荻野直正のとき、丹波奥三郡を支配下に置き、但馬にまで兵を出す勢いであった。結局、但馬攻めが仇となって織田信長の丹波攻めを呼び、明智光秀に居城黒井城を攻められた。
光秀の丹波攻めには波多野秀治ら丹波の国衆たちのほとんどが参陣、黒井城は落城間近となったところで、波多野秀治の寝返り(直正との連携があったとも)により明智光秀を敗走させた。以後、明智光秀の丹波攻めに対して、波多野秀治らと結んで抗戦を続けた。

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ということを秦野氏は縷々お話された。丹波の戦国史を通史的に語られたわけだが、なるほど、丹波守護の改替、両細川の乱、そこに登場する大名、属する丹波の国衆たち、実にややこしい。とくに、歴史の流れもだが、武士たちの名前の煩雑さは、聞くものにとっては理解が追いつかなかったのではないか。秦野氏の講座は時間切れとなり、最後のまとめを駆け足で話されたことも聴講者にとってきつかったのでは? そのせいであろうか、質疑応答の呼びかけにどなたからも手が挙がらなかったのも「むべなるかな」であった。
山本氏のお話は目新しいところはなかったが、講座を進めるという点で、資料のまとめ方、パワポの編集、そして話の進め方などは勉強させていただいた。感謝!
posted by うさくま at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 聴講録
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