2019年09月22日

昨日に引き続いてレジュメ作成、パワポ編集に勤しむ

昨日、あれこれ悩んで講座資料の作成に時間を費やした。
今日も引き続いて、誓願寺さんでのお話会の
パワーポイント編集を行った。昼過ぎに、ほぼほぼアップ。

外を見れば雨も上がっているので、覚山上人の墓地取材に出かけた。
覚山天誉上人の墓所に参るのは十年ぶりのこと、
初めていったときは夏草に埋もれていたが、
今日はキレイに草も刈られ、新しい卒塔婆も立てかけられていた。

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最近、思うところだが、一時期、その土地の歴史を語る史跡や人物がなおざりにされている感があった。ところが、平成の後半ごろから身の回りの歴史が見直されるようになり寺社仏閣、山城や石造物などの史跡や遺物、人物の発掘などが行われるようになった。
その原動力となっているのは「団塊の世代」と呼ばれた方々であろう。戦後の新教育を受け、日本の高度経済成長期を生き、まずまず恵まれた余生を手に入れた(異論はあろうが)。
田舎で第一次産業に従事し人生の多くを生まれた所で過ごした戦前の人たちに比べて、高学歴、広い視野を身に付け、第二の人生を迎えた団塊世代の人々は、おそらく父親世代までとは違った老後を迎えられたことだろう。医学の進歩もあって、余生の時間もかつてに比べると長い。その長い時間に何かをしようと思ったとき、なんとなく荒れた感のある故郷のために意を払い、郷土の歴史を後世に伝える活動に心惹かれた人が多かったのでは?
などと考えることです。ということは、団塊世代が高齢化によりその動きがやんだら、ニッポンの史跡群などは顧みられることもなくなり荒廃の途を歩むことになるのだろうか? うーむ、なんだか大層な話になってしまった。

さて、丹波誓願寺を開いた覚山上人は「永禄の変」で討たれた足利義輝の嫡男、危機を脱し、波多野秀治に庇護されたと伝えられる。その後、京の誓願寺に入り、秀治の支援を得て八上城下に誓願寺を開かれたそうだ。光秀の丹波攻めによって秀治が滅亡したのちも、八上城下に住まいされていたようだが、篠山城が完成したのち他の寺院とともに誓願寺も篠山城下町に移され、覚山上人は多紀郡で入滅された。享年61、世が世ならば足利十四代将軍になっていたかも知れない人物である。
もっとも、全てを史実と受け取ることは難しいようですが・・・。ともあれ、覚山上人にゆかりの浄土宗西山深草派の寺院が篠山市内の各所において法灯をつないでいることは紛れもない事実です。来年の大河ドラマで「永禄の変」は語られるはず、覚山上人のことはどうだろうか?

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ともあれ、レジュメの作成、パワポの編集もひと段落した。あとは推敲をして、修正を加えて当日に臨むことになる。講座の依頼を受けるのは浅学の身にとっては荷の重いことではあるが、否応もなく勉強せざるをえないことになる。それが、実に有難いのである。
posted by うさくま at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史講座
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