2019年09月04日

東播磨のお寺、墓地をめぐった

9月1日の日曜日、加東市滝野の光明寺、加西市の鶉野飛行場を訪ねた。かねてより行きたかったところで、それぞれの有する歴史を堪能した。また、移動の途中に見つけた墓地やお寺への寄り道もおもしろ楽しかった。

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加西市の道端で見つけた墓地に寄ってみると「志方」姓の墓地がずらり。『蔭凉軒目録』に「志方・中村・英保・神吉の四家は一姓で、源三位頼政の三男の後裔だと称していた」とあり、加古川には志方城(城主は櫛橋氏だった)があった。気になる名字として一時調べたことがあるが、まとめるまでには至らず、家紋調査も頓挫した。

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これほど志方名字が集まった墓地ははじめてで、早速墓石に彫られた家紋をウォッチすると、「剣酢漿草」「剣花菱」を多数派に「橘」が用いられていた。志方家以外には、長谷川さん「三つ巴」、友藤さん「蔦」、民輪さん「剣酢漿草」、佐々木さん「目結」らの墓石があった。

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播磨内藤氏が拠ったという馬渡谷城、この城と内藤氏も気になる存在だが今日は城攻めはスルーして近くの墓地に内藤家の墓石を探したが見当たらなかった。とはいえ志方姓の墓が多く、こちらの志方家は「橘」紋で、同じ墓地内の鈴木家、榊原家、奥畑家なども「橘」紋、こういう風に名字は違えど家紋が一緒というのも解釈に悩まされる。

鶉野飛行場で紫電改の原寸大レプリカ、滑走路跡、防空壕跡などの戦争遺跡を見たあと、おもしろいお寺があるので行きましょう、ということになった。

嘉吉の乱で滅亡した播磨守護職赤松氏、その再興を願った遺臣たちが後南朝の行宮を襲い自天王と忠義王を殺害、神璽を持ち去った長禄の変。その時、殺害された後南朝の皇子の首を祀ったという南帝山清慶寺(加西市中野町)。その真偽は分からないが、境内には仁尊親王と彫られた江戸期の宝篋印塔が建立されている。住職の方にもお話を聞いたが、そう伝えられているだけとのことであった。

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清滝寺は浄土宗のお寺で、寺名標石の竜胆車紋が西山派であることを示していた。また、境内には浄土宗らしく杏葉紋が散見し、抱き茗荷紋を付けた瓦もあったりして、なんとも興味を引かれたことだった。また、鎌倉時代のものという姿のよい宝篋印塔があり、宝篋部分に仏がレリーフされた珍しいものであった。住職さん曰く、近々、大学の先生が調査に来られる貴重なものであるとのことだった。

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南帝山清慶寺の西すぐのところに古い町並みがあり、杉玉を下げた立派な建物には三宅酒造とあった。界隈は今でこそ国道372号が通る雑駁な印象を受けたが、脇に入ると昔ながらの街道の風情を残すところであった。
長禄の変を起こした赤松旧臣の一人に中村氏がいた。清慶寺の住職さんもお話に、今も近在に中村姓が多いいといい、その墓所を教えてもらった。訪ねてみると、中村姓の墓石もあったが三宅姓の墓石がずらり!と並んでいる。

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家紋は見事に菖蒲紋で統一されているものの、その紋型は微妙な違いを見せているのだった。これだけの菖蒲紋(杜若と呼称されたかも)が揃った墓地、圧巻であった。おそらく先の酒造家の一族であろうと思われ、いつかお邪魔して呼称と謂れを教えてもらいたいものだ。

光明寺と合戦跡、鶉野飛行場、南朝ゆかりのお寺、墓地群での家紋ウォッチ、なんとも盛りだくさんな一日となった。山城抜きの東播磨歴史散策、十二分に楽しめた。
posted by うさくま at 08:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 家紋
この記事へのコメント
唐突のコメントお許しください。

私、生を京都府内とする谷垣姓を名乗るものです。
父の死去後、家紋を受け継ぎ、自身の出自についてまさに今探求をしているところであります。

WEB内を探求するにあたり、丹波国(表現の定かについて素人故お許しください)にかかる知見につきましては貴ブログが先鋭たると思い、ご連絡差し上げました。

私の家紋につきましても、まさに木瓜の花(周囲六角)であり旧大丹波国由来であることはうかがい知れるものの、旧来からの分布(離散)状況については既にうかがい知れない状況であります。

先生のお時間許すならば、ぜひご意見を伺いたいと思い、最新記事に投稿させていただきました。
唐突な投稿でありましたが、本件につきましてぜひご教授願えればと考えております。適切なご連絡方法がございましたら、ご提示くださいませ。

最後になりましたが、わたくしのような歴史弱者に対し斯様なブログを開設いただいております感謝とともに、資料整備のご苦労を労い申し上げます。
Posted by 谷垣某 at 2019年09月07日 03:25
谷垣 某 さま

書き込み、拝見しました。
木瓜の花(周囲六角)というのは、六葉木瓜なのか?
六角(亀甲?)に木瓜? なのか判断に苦しみますが
木瓜紋を用いられているということですね。

私が丹波市の墓地を歩きまわって調査したとき
氷上町で、 「違い鷹羽」「五本骨扇」
市島町で、「五本骨扇」
柏原町で、「違い矢羽」「違い鷹羽」
を使用される谷垣家の墓と出会いました。
「五本骨扇」は青垣の国衆、足立氏の影響を受けたもの
「違い鷹羽」と「違い矢羽」は同根異形と思われますので
山南の国衆、久下氏の影響を受けたものでは?と誰何しています。

一方、京丹波町の鎌谷入口の西方寺墓地で
「丸に三つ引」「対い鶴」の谷垣家の墓と出会いました。
こちらは山一つ隔てたところに残っている井尻城跡の城主が
谷垣氏といわれますから、それに所縁?かと推測しております。
いずれにしろ確かな文書などの裏付けがあるわけではなく
私の「そうであろう」という想定に過ぎませんが・・・。

ちなみに、谷垣姓は全国に分布しているようですが、丹波では
京丹波、福知山、氷上に多いようです。
福知山は未だ調査手付かず、京丹波も調査不足な状態。
これからも、折々に京都丹波方面の墓地巡りを目論んでいます。

谷垣 某さまも、情報をお寄せいただけましたら幸甚です。
まずは、家紋画像を拝見できましたら嬉しいです。
Posted by 播磨屋 at 2019年09月15日 15:08
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