2019年09月01日

東播磨の中世と近代の史跡を訪ねる

先週、昨日と一緒した歴城友のS氏と、かねて予定していた
加西市鶉野の戦争遺跡跡をメーンとした東播磨の歴史散策を楽しんだ。

集合場所で落ち合い、S友Mさんの車に乗せてもらい
まずは、観応の擾乱における戦場となった光明寺を訪ねることになった。
その途中、中世、滝野庄の政所が置かれたという地に鎮座する
春日神社に寄り道。播磨の地を遊行していた法道仙人に、
武甕槌命が光明寺の建立をお告げし、仙人は光明寺を建立した。そして、
武甕槌命を祭神とする社を造営して光明寺の守護神にしたという。
その後、藤原氏の荘園として滝野庄が立庄されると、大和の春日神社から
藤原氏にゆかりの神々が勧請され春日神社に改められたと伝えられる。
あとで調べると中井権次の彫り物があったらしいが見落としてしまった。

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光明寺は春日神社後方の山中にあり、「播磨高野」とも称される古刹。
急坂を登っていくに連れ宗教的雰囲気が濃厚となり、
かつての僧坊跡であろう土塁を伴う平坦地が散在している。

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滝野城主阿閉佐兵衛重氏の墓所

光明寺には塔頭が四つあり、多聞院を過ぎると、遍照院、大慈院そして花蔵院と続く。いずれも、寂び寂びとした佇まいを見せ、よく手入れされた僧坊、庭園が好ましかった。

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大慈院は本邦唯一の善導大師の画像が伝来し、御影堂の屋根瓦には三つ葉葵の紋が打たれている。善導さんといえば浄土宗の教祖とされる人物、何ゆえに真言宗寺院である光明寺に?ということになる。由来をたずねると平安時代のはじめに奉じられたといい、かなり古くから光明寺に蔵されていたようだ。江戸幕府の将軍徳川家は浄土宗を信仰していたことから推して、この御影堂の建立に寄与したものであろうか?

なぜ、光明寺に善導上人の画像が?
善導上人の画像は天台宗の慈覚大師(円仁)がもたらし、善導上人ゆかりの唐の長安の光明寺に寺名、結構が似ている播磨の光明寺の大慈院の僧円心に画像を託し、常行堂に安置せしめたという。以後、都の上下より崇敬を集め、室町時代には将軍足利義教が補修を行い、江戸時代のはじめには後水尾天皇の叡覧に与り、中期には将軍吉宗の内拝を受けたという。そのとき、画像の損傷がひどかったため、将軍家息女竹姫が病気平癒を画像に祈祷、その効を得たことから、その報謝として画像を模写させ寄進したという。その後も、幕府や御三家が数々の寄進を寄せるなどして徳川家の縁を深めた。お堂の「三つ葉葵」の紋は、その証しとなるものと思われる。


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大慈院むかいの花蔵院は塔頭のなかで最も荘厳な雰囲気をまとい、ポツンと灯る明りが何ともいえない暖かさを醸し出していたのであった。

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塔頭群を過ぎると仁王門、そして、文殊堂、常行堂などを経て本堂に至る参道が続く。
光明寺の歴史に特筆されるのが、足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱における合戦場となったことである。観応二年、光明寺に陣取った直義方の石堂頼房に対して、尊氏は高師直、赤松則祐らが包囲攻撃した。そして、仁王門の前で激戦が行われたが直義が石堂を後詰したことで尊氏は兵を摂津に引いた。そして、打出浜の合戦において尊氏は惨敗、直義と和睦、結果、高師直と一族は直義方に殺害された。さらに、この合戦後、北朝は瓦解、足利幕府は一頓挫してしまった。文字通り、歴史の大きな転換となった戦い、それが光明寺合戦であった。

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さて、光明寺に布陣した石堂頼房の本陣は山上にあるそうで、登っていくのはいささか億劫だな?などと弱気であった。ところが本堂後方の丘がズバリ本陣跡で、何とも呆気なく本陣を踏破してしまった。雑木で視界は悪いが、木々の間から北方を見ると高師直が陣を布いた鳴尾山が見えた。また、本陣の西方に伸びる尾根を辿って行くと尊氏が陣を布いた引尾山へと続いている。両軍が指呼の距離でにらみ合っていたことが実感された。

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かつて本陣跡には「丸に二つ引両」の紋を描いた盾が並べられていたらしいが、その残骸が残るばかりで残念な姿を呈していた。盾の設営主体はわからなかったが、新調できないのであれば撤去すべきではなかろうかと。合戦に負けていないのに、漂う落城の雰囲気は歴史的にも惜しまれた。戦国や山城がブームというが、この現状を見る限り相当に偏向しているのだな??と思われた。

光明寺を下山したあと、道端の墓地に寄ったり、
昼ごはんに饂飩を食したり、
赤松政則の墓がある長圓寺に再訪したりしながら、
次の目的地である鶉野飛行場に向かった。

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政則の墓所というが、五輪塔の残欠を組み合わせたものであった

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鶉野飛行場は、姫路海軍航空隊鶉野飛行場、川西航空機姫路製作所鶉野工場の跡地で、戦争末期に建設されたところ。現在、加西市が戦争遺跡を後世に伝えるために整備、先日、鶉野で製造されていた紫電改が復元され転じされている。この春、伊予の愛南町に出張したとき、不時着した紫電改を海底から引き上げ展示している紫電改資料館で本物を見た。その後、むかし読了していた「紫電改のタカ」を改めて購入した。それだけに、鶉野で紫電改復元のニュースに接したとき「これは見に行かねば!」と思っていたところである。

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格納庫に鎮座する紫電改は愛南町のものに比べると、存在感の薄さはやむをえないが、実物大の迫力は感じられた。そして、格納庫の前に戦時中の飛行場の滑走路がズーッと延びている光景は何やら胸に迫るものがあった。復元された紫電改はまったくのレプリカだそうで、飛ぶことはもちろん、自分で動くこともできないそうで、いわゆる原寸大の模型であった。格納庫を出た紫電改がエンジン音を響かせて滑走路から飛び立つ姿を見ることはできないのは残念かも。

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紫電改をジックリと見たあと、鶉野一帯に残る戦争遺跡を見てまわった。防空壕の址、飛行隊の地下指揮所跡、敵機を迎撃した三連装の対空機銃(男たちの大和に使われた大道具らしい)、そして平和の塔などなど、よくぞ開発の波に呑まれることなく現代に残ったものである。とはいえ、地元の方がいわく自由に防空壕などが見てまわれた荒れたころに比べて、どこもかしこも立入禁止、行き過ぎた整備に疑問を呈しておられたことも理解できないことではなかった。今後、保存のための整備は続けられるそうだが、きれいに展示するだけではなく、戦争の実態が伝わるような形になることを期待したい。

念願の紫電改を堪能したあとは、南朝にゆかりという清慶寺、路傍の墓地で三宅姓の家紋をウォッチ、頃合を見て懇親会へとシフトチェンジした。
今日の懇親会は篠山と決め、一路、丹波方面に帰着。いつもの店に乗り込み麦酒で乾杯、楽しい時間は過ぎていったのだった。

posted by うさくま at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索
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