2019年08月26日

備中、備前の山城攻めに遠征

昨年の台風水害で大きな犠牲をはらった岡山の真備町、
その水害によりかねてから計画されていた小田川、高梁川の
治水工事が急遽、進められることになった。
その結果、潰されることになったのが小田川と高梁川の合流点を
押える尾根筋に残る南山城で、この春より発掘調査が行われた。

城歴友のS氏が南山城現場事務所に見学申請を行い、
今日、いつもの四人組で南山城へと遠征した。それにプラス、
大阪からNさんが加わり、総勢五人で南山城見学会に臨んだ。

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見学会はわれわれ以外にも二組のグループが参加され、禿山と化した南山城へと登っていった。驚いたのは、以前、丹波の山城見学で一緒した近江のN田さんもいらっしゃっていたこと。
南山城は単郭といってもいい小さな山城だが、畝状竪堀群、西尾根の多重堀切、郭を区画する土塁など、山城パーツをコンパクトにまとった見どころの多い戦国山城である。それだけに注目され、平日の月曜日だというのに、遠く大阪、滋賀から、見学に来ようという気にさせるのだろう。

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南山城は木々が伐採され、遮るもない直射日光の下での見学会となり汗だくになりながら、畝状竪堀群を越え、横矢を巧みに掛ける曲輪、尾根筋を遮断する堀切などを登り下りした。学芸員さんいわく、備中を制圧した毛利氏の手になる山城といい、天正10年、織田と毛利が領国を区分したとき高梁川を境とし、その境目の城として築かれた。

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周辺の山城に比べて技巧に富んだ縄張りとなっているのは、織田方に対する境目の城、高梁川東部から西部に移らされた備中国衆に毛利の領国支配の本気を示すものであったのでは?などと解説された。
確かに、あれこれ山城パーツを駆使しているのは、単に防御に優れた構造を意図したものではあろうが、敵味方に対する展示城的な意味合いもあったのではなかろうかと思われた。実際、畝状竪堀、横矢、堀切など巧みに築かれているが、全体に防御は弱い小ぶりな構造に見えた。そういう観点からも、見せるために毛利が築いた城であったと思えば納得がいったのだった。

南山城を下山したあと、倉敷市街で昼食を摂り、昼からの山城攻めは常山城、時間があれば下津井城まで足を伸ばそうということになった。

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常山城はむかし、戦国同人のM氏と攻め寄せたが、管理道路の崩落で断念したところだ。
今回、リトライに際して管理道路の状態を調べたが「未だ開通せず」というもので、山麓から歩きで登ろうということになった。常山駅近くで登山ルートを確認し、炎天下、気合を入れて常山城にアタックした。ともあれ、車で行けるところまで行こうと登っていくと、なんと崩落場所は改修されていて山上の駐車場まで登りついてしまった。歩きでの登山も魅力ではあったが、この暑さ、車で城址まで登れたことはラッキーであった。

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常山城は電波施設が林立する常山(307m)の山頂に主郭を置き、北に伸びる尾根、東に伸びる尾根に曲輪を連ねた構造で、堀切、竪堀などのない単調な山城である。しかし、その規模は大きなもので、曲輪もそれぞれ切岸、削平などしっかりと造成されている。主郭の展望台からの眺めは抜群で、瀬戸内海、児島湾の干拓地、瀬戸大橋も一望である。

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一帯は常山公園として整備された時代があったようで(鉄塔を建てた見返りであろう)桜も植えられ、春の花見シーズンには多くの人が城址に登ってきて大いに賑わったという。しかし、次第に花見スポットとしては衰退、荒れるにまかされるようになったという。

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常山城は上野氏が築いた城砦といわれる。毛利氏と三村氏が戦った備中兵乱のとき、ときの城主上野高徳は室が三村氏であったこともあり三村氏に属して毛利氏を迎え撃った。上野氏はよく戦ったが劣勢となり城主高徳は自害、残された室三村氏は女軍を率いて毛利勢と戦い全滅した。いま、主郭から一段下の曲輪に常山女軍の供養塔が祀られている。そして、城址曲輪のいたるところに石仏が祀られ、なんともいえない光景を醸し出している。ネットなどで見ると、常山城は心霊スポットとしても有名で、なるほど女軍の供養塔、曲輪の石仏などを見れば、それもむべなるかなと思われた。

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さて、 常山城の概略図によれば主郭の切岸に石垣があるようで、鬱蒼と茂る夏草を掻き分けていくと、見事な石垣があらわれた。さらに兵庫丸の切岸にも高石垣が組まれ、探索には難儀したが見応えがあった。
東尾根曲輪群の先端の惣門丸にも石垣が描かれており、東尾根を下っていった。尾根筋の曲輪群を区画する切岸、削平地などを確認したいのだが、踏み込むのが躊躇われる竹薮、その合間から石仏が見え隠れする光景はなかなかのものではある。先端の惣門丸への道もは笹で覆われていたが、とにかくガムシャラに踏破。たどり着いた惣門丸からは児島湾干拓地から播磨の方までが見通せる絶景が広がっていた。そして、斜面に下り曲輪切岸を探ると、「お〜っ!」見事な石垣が曲輪を囲繞しているのだった。

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惣門丸から藪を漕いで北尾根曲輪群に移動、その谷間に「底無井戸」があった。なにやら水道施設として整備されてたようで、周囲はコンクリートで固められ、かつてあった建屋が崩壊、すさまじい状態を呈していた。しかも、水が腐っているのだろうか、なんともいえぬ悪臭が漂っている。この底無井戸、石仏群、女軍の供養塔、荒れた曲輪群、なるほど心霊スポットとしての道具立ては揃っているといえそうだ。

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常山城を隅々まで踏査したのち、ふたたび車一台がやっと通れる管理道路を下る。こちらの方が心霊云々よりリアルに怖かった。登り道まで降りたところで、二年前に殺人事件があったとのネット情報を得た。しかも登山口一帯には墓地が営まれ、なるほど、霊気を感じる人もいるのではかなろうか。

常山城でNさんと別れ、四人組は西脇方面へと急いだ。工事渋滞などもあったりして3時間で滝野に帰着、晩ごはんを兼ねた懇親会に臨んだ。店は先日と同様に「ばんしゅう港」、まず麦酒で乾杯、なんやかやと話は盛り上がりワイワイと時間は過ぎていった。
次は、鶉野飛行場跡と復元された紫電改を見に行こうということになった。これはこれで、かねてより目論んでいたこと、楽しみだ。
posted by うさくま at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 山城探索
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