2019年05月19日

久美浜の山城見学会に参加、プラス但馬の城攻め

今日は、今年はじめてとなる山名氏城跡保存会の山城見学会
ターゲットとなるのは丹後久美浜町に残る矢田八幡山城と佐野城。
両城が残る佐野の地は峰山と久美浜を結ぶ街道が東西に通じ、
南にある丹後山地の尉ケ畑峠を越えれば但馬国へと至る要衝の地である。

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天気は快晴、集合地になる久美浜町の佐野まで片道80km
ナビによれば1時間40分の行程。集合時間10分前に現地到着、
すでに50人ばかりの参加者がいらっしゃる盛況ぶり、聞けば
地元の皆さんが多くさんかされているとのこと。レジュメをもらい
今日のガイド役である石井さんの前説を聞いて城攻めが始まった。

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右手後方の山上に城址遺構が残っている

一つ目の山城は、矢田八幡山城址。
佐野集落の氏神である矢田八幡さん一帯が城跡で、ほんの最近まで城跡としては知られなかったことには驚かされた。
城址へは八幡さんの長い石段を登っていくことになる。やがて曲輪らしい地形、尾根を見下ろすと堀切、社殿のある平坦地は周囲を急峻な切岸、尾根筋に堀切、斜面に竪堀が築かれている。はたして、社殿のある場所が主郭であったのだろうか?

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八幡さんへの階段、曲輪切岸か?

城址遺構は社殿後方の尾根筋に続き、急斜面を登ると岩盤を切り割った大堀切、そこを乗り越えると小曲輪、そこから分岐する尾根ごとに堀切が切られている。

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一つ目の堀切、岩盤をガッチリ掘りきっている
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曲輪切岸と堀切
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北端の大堀切

小さな城だが力のはいった堀切で防御した遺構は見応えがあった。近年、八幡神社への林道が開かれ木々も伐採されたらしい。一部、林道の工事で堀切遺構が壊されているが、城址そのものは破壊を免れたのは僥倖であったといえそうだ。

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二重の堀切

八幡山城は、神社後方の遺構とは別に、南の尾根先に二重堀切と井戸跡が残っている。山麓にあった館跡を防御していたというが、館跡そのものは後世の土取場となり消失してしまったとのこと。残念だがやむなし!とはいえ、このように明確な遺構を残した城址が、ずっと見落とされていたとは、未だ陽の目をみない山城がまだまだ残っているのだろう。

二つ目の佐野城へは、夏を思わせる日差しの下を徒歩で移動。
国道脇の藪を分け入ると山道、段上に連なる畑跡?を横目に尾根筋に取り付くと明確な切岸と丁寧に削平された小曲輪が階段状に山上へ続く。

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曲輪切岸
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段状に続く曲輪群

佐野城址はピークを主体として、馬蹄型に延びる南尾根筋に段曲輪を構えた構造。最終段階に設けられたという櫓台を伴った枡形を呈する虎口、尾根筋に残る三重堀切などが見どころではあるが、印象としては平坦地を連ねた(畑跡に見えなくもないが、やはり曲輪か)大味な城址と見えた。そして、堀切で各尾根を断ち切る縄張りは先の八幡山城址と似ているようにも思えた。

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枡形虎口というが・・・、左は櫓台とか
60474760_2762902270446939_2052403989873426432_n.jpg 主郭北の堀切

二つの城の築城主体は丹後守護一色氏に使えた在地領主佐野氏という。石井さんによれば、両城の構築には時間差があるそうで、残された史料などからそれぞれの城を舞台とした合戦があったらしい。
ひとつは丹波が平定されたのち、細川氏が丹後に入部したときの戦いで八幡山城が舞台だった。ふたつめは本能寺の変後、八幡山城に代わって構えられた佐野城が舞台になったとのことだった。実際に歩いてみて八幡山城に比べると、佐野城の方が先進的に見えたように思われたのは、解説を聞いた結果かもしれないが・・・。
ともあれ、二つとも小さな山城ではあったが、そこにある歴史は地方と中央とがシンクロする興味深いものであった。

予定通りに午前中で見学会が終了したあと、せっかく丹後・但馬の境目に来ていることでもあり、一緒に参加していたSさん、Mさん、相方らと但馬東部では最大規模を誇る亀ヶ城跡に登ることにした。

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山名氏城跡保存会 西尾会長の手になる概略図

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亀ヶ城は二度目の訪問、城址は二つの郭群を有した、いわゆる二郭一城スタイルの山城。二郭は丁寧に削平が施された広い曲輪で、それを守るように高い切岸、土塁、虎口、竪堀、堀切、畝状の竪堀などなど見事な遺構群が健在。そして、街道からは見えない北方山麓の三方を飛び切り広い帯曲輪が囲繞している。

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東主郭の土塁、櫓があったか?
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東の主郭と西の主郭を分断する堀切

築城主体としては鎌倉時代の但馬守護職太田氏と伝えられるが、今に残る遺構群は戦国末期の改修になるものであり、山名氏の東方における拠点城郭と考えるのが妥当ではある。しかし、戦国末期における山名氏の権力は揺らぎをみせ、四天王と称される重臣らが割拠状態にあった。そのなかで最も勢力を有したのが垣屋氏であったが、垣屋氏は本家と分家に分かれて足並みは乱れていた。
そのような状況下、垣屋分家で竹野轟城主の当主豊続は毛利氏を背景として但馬最大の勢力を有する存在であった。それをふまえて亀ヶ城は垣屋豊続の改修になるという説がある。しかし、山名氏、垣屋本家らを横目に、いかに毛利氏を後ろ盾にしたとはいえ但馬東部にまで勢力を伸ばすことができただろうか?

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西の主郭南尾根を遮断する大堀切
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西斜面の畝状竪堀
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畝状竪堀を山麓の帯曲輪から見上げる

亀ヶ城に残る土塁、切岸、堀切、畝状竪堀などの遺構群を味わったのち、山麓三方を固める帯曲輪群を歩いた。畑に見えなくもないが、やはり、城兵の駐屯地であり糧食・武器を確保した兵站地(小屋掛があったか)であったと思いたい。

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山麓の帯曲輪、実に広い!
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帯曲輪と主郭とを隔てる切岸
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急斜面に落ちる竪堀をヘッピリ腰で撮影する

これだけの規模の山城、はたしていかほどの人数が詰めていたのか?築城主体が誰であったかを含め謎は深い。仮に垣屋豊続が改修したものであったとしても、豊続が常駐したというものではなく、配下の武将が城番として守っていたことであろう。それらを知ることのできる史料もないようだが、天正八年、毛利氏に与した垣屋氏ら但馬衆は羽柴秀吉に敗れ、亀ヶ城などの諸城砦は歴史を閉じた。
その後、丹後に入部した細川氏が境目の城として改修をしたなどといわれるが、はたして、亀ヶ城史はどのような歴史を秘めているのだろうか?

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今週、二回目の そば庄 さん

亀ヶ城を堪能したあとは、出石まで移動して名物の皿そばを食し、相方ら女性陣には申し訳のないことであったがビールで乾杯!さらに地酒まで味わってしまった。山城に蕎麦、そして地酒、今日も実に楽しい一日を過ごしたことだった。

posted by うさくま at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 山名氏城跡保存会
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