2019年04月06日

二ヶ月連続、周山城に登る

先月、福島克彦さんのガイドで登った丹波周山城跡、
今日は戦国倶楽部のオフ会企画で登ってきた。
大々的に募集しなかったこともあって、参加者は
おなじみのメンバーM・S・Tさんら四人のミニオフ会となった。

朝九時、篠山口駅に集合、参加者の一人Tさんの協力で
Tさんの車に乗り合せて園部から日吉経由で周山に攻め入った。
道の駅ウッディ京北に車を停め
登る前に道の駅のレストランで鯖そばを食して腹ごしらえ
あれやこれやと周山城をネタに談合したのち登山開始。

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周山城跡は東方山麓を流れる弓削川の西岸、その西方に位置する黒尾山へと連なる山並みの弓削川側のピークに石の城、その西方の尾根先に土の城が構えられ、山中にそれぞれの遺構が残っている。

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※ 赤色立体地図:京都新聞のサイトから転載させていただきました

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城址へは東の登り口から取り付き、東北尾根曲輪の虎口部、そこから南東尾根曲輪を経て東の出曲輪へと登る。
途中、台風による被害で展望が利くようになった尾根筋から北に弓削庄、東に皇室領で知られた山国庄を遠望する。東山麓を南北に通じる京都と若狭小浜とを結ぶ鯖街道が眼下にあり、周山城が要地を占めていることが実感される。

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東の出曲輪の虎口、主郭部東の腰曲輪の虎口、それぞれ石垣痕があり、復元図によれば櫓門が構えられていたようだ。主郭部東の腰曲輪から主郭には登り石垣が築かれ、土塁が囲繞し、天守台であろうという謎の土塁が残っている。足元には瓦片が散在し、いわゆる織豊系城郭に分類される山城であることは疑いない。

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通説によれば、織田信長より丹波一国の支配を委ねられた明智光秀が築いたことになっている。周山という地名も、みずからを周の武王になぞらえて名づけたものという。おそらくベースとなる部分は光秀の手になるものだろうが、いまに残る遺構群は丹波衆の牽制を意図した羽柴秀吉の手が入ったのではかろうか。

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主郭でウダウダと周山城の歴史を語り合ったのち、主郭から南尾根に築かれた曲輪を探索。腰曲輪の石段を伴った虎口は、近江の鎌刃城を彷彿とさせる遺構である。その先には登り石塁を伴った遺構、そして、南尾根を登ってきた敵を防ぐ曲輪が築かれている。赤色立体地図によれば、山麓からこの曲輪群へと至る山道が見え、可能性として大手道はこのルートだったのではないか?

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南尾根曲輪より主郭西方尾根筋に築かれた曲輪へと移動する斜面は野面で築かれた石垣が続き、なかなかの見ごたえである。西方尾根の曲輪群と主郭とは折れを伴った登り虎口で石垣、石段がシッカリと残っているのだった。そして、西方尾根曲輪群は高い切岸で隔てられ、二段の高石垣、多聞櫓を支えていたのであろうか石塁が残っている。周山城における最大の見所である。

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残念なのは昨年の台風被害であろう倒木が片付けられないまま、曲輪に放置されていることである。このまま朽ちていくのであろうが、これだけの山城、整備されることを切望するところだ。

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石の城から西方へと続く尾根先にある土の城へは、力の入った堀切が二条、それを越えて急斜面を登ると土の城・西曲輪の切岸があらわれる。土の城は自然地形に土塁、切岸などの手を加え、西端部には折れを伴った土塁虎口が築かれている。遺構のメリハリはないが、見方によれば縄張り妙味を感じさせる佇まいでもあった。

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さて、石の城と土の城、二つの城は同年代に並立していたようだが、その造作はまったく異なったものというしかない。また、土の城は石の城に付属したものか、あるいは、石の城に対する付け城的なものだったのか。
たとえば、但馬八木城、丹波岩尾城など土の城と石の城が並存する山城はあるが、いずれも新旧の歴史が判明している。しかし、周山城の場合、新たに築かれた山城であることを思えば、土の城までを築く必要性が考えられない。
となれば、土の城は石の城以前に存在していたのか?といえば、いまの立地に山城を築く意味がわからない。やはり、石の城と土の城とはなんらかの相関性を有していたのだろうが、何度、現地に立っても土の城は謎の遺構のままである(わたしのなかでは)。

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土の城を分断する仕切り土塁の前で記念撮影

土の城から石の城へ戻り、主郭から北に伸びる尾根に築かれた出曲輪へと足を伸ばした。主郭東の登り石垣から城道があったようだが、すでに荒れ果てた斜面をたどるしかないデンジャラスな道行である。斜面はかつての城道を支えていただのであろう石積みが残り、たどり着いた曲輪にもシッカリと石垣が残っている。曲輪の削平もシッカリされていて建物もあったであろうと思わせる広さを有していた。

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ここで時計を見ると四時過ぎ、まだまだ城址を探索したいところであはあったが、懇親会の時間もあり下山に決定、ウッディ京北へと帰還していった。

帰路は来た道をそのままたどり、懇親会場へと予約時間をやや越えて帰着した。ここで、所用があるというTさんと別れ、残った三人で濃密な懇親会となった。いつもの Miyake トークが炸裂し、酔いが回るにつれ戦国談義は否が応にも盛り上がったのであった。 

posted by うさくま at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
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