2019年03月25日

丹波氷上郡の山城をハシゴする

去る21日の春分の日に予定されていた丹波岩尾城を
城址北方にある応地峠から登るイベントが雨で流れてしまった。
楽しみにしていたイベントだっただけに残念!
それならばと一緒にイベント参加を申し込んでいた城友のSさんと相談
日を改めて登ろうということになり、今日、登ってきた。

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岩尾城跡を遠望
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屋形跡とされる親縁寺

岩尾城南山麓の親縁寺で待ち合わせ、登り口になる坂尻へ移動、
かつて坂尻と応地とをつないだ峠越えの旧道を登っていった。
峠道はいまも明確で、なんなく応地峠で旅人を見守ってきた地蔵様に到着。
そこから、岩尾城へと続く尾根筋へと踏み込んだ。

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応地峠のお地蔵様、城址へは右尾根に取り付く

おりから天気はまずまずの晴、暑くもなく寒くもない気候、
尾根筋の道なきルートは所々で展望が開ける快適な山歩きだ。

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尾根筋を歩く
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尾根筋を辿ると北の堀切があらわれる

迷うことなく岩尾城・土の城北方尾根を遮断する堀切に到着、
堀切を登ると北の曲輪、主体部となる曲輪へと至る。そして西方尾根側を
防御する二条の堀切、その先に続く尾根筋には
明確ではないが山城遺構らしき痕跡が認められた。

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北尾根曲輪の土塁と土の城主体部曲輪の切岸
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土の城と石の城を隔てる大土塁

土の城は戦国時代に明智光秀に滅ぼされた和田氏が築いたものといい
城跡のある蛇山の山頂には石の城が残っている。
両城は大土塁で区画されているが、和田氏時代にも石の城部分には
主郭ともいうべき曲輪が構えられていたことであろうと思われた。

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石の城部分の天守台
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見事な石垣が残る
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和田地区を睥睨する、遥か山の向こうは篠山
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石垣群を南より見る

そして、和田氏を滅ぼした明智光秀、光秀滅亡後に入った
豊臣秀吉の家臣佐野栄有の時代に蛇山の山上に石の城が構築されたのだという。
とはいうが、おそらく土の城の山頂部分を石の城として修築し、
石の城と土の城とは並存して機能していたのではないか。
久しぶりに岩尾城石の城跡に立ち、Sさんとあーだこーだと
城談義を交わす中でそのようなことを考えたことだった。

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井戸、水深は7mとか?
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南尾根筋を遮断する堀切

岩尾城を下山したあと、近世、和田一帯を領した鶴牧藩水野家の
陣屋跡を探ってみたが、いまいち特定はできなかった。さらに、
南東の尾根先に残る稲荷曲輪にチョイ寄りし、その足で柏原に移動
柏原新城といわれる柏原八幡をそぞろ歩いてみた。八万城跡は光秀時代の
遺構とするには城としての結構が希薄過ぎるように思われたのだった。

時計を見れば、まだ二時半過ぎ。日暮れまでにはまだまだ時間がある、
ということで母坪城に登ることに決定、登り口に移動した。

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北端の曲輪、かつてあった祠は基礎だけになっていた
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北曲輪群の平坦地と切岸

母坪城へは何年か前に北の絶壁から取り付きよじ登ったが
今回も同様に北端の曲輪へとよじ登った。曲輪からの見晴らしは抜群で
この場所に城が構えられてしかるべきではあるということが実感された。
以前、最後の城主という稲継壱岐守を祀っていた祠が朽ち果て
コンクリートの基礎だけが残っているのが今様に思われて寂しかった。

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北の堀切
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主郭部北の堀切を見下ろす

母坪城址は南北に伸びる尾根筋に曲輪群が構えられ、東西の斜面は絶壁
そして西方を加古川、東山麓を小川が流れる要害である。
北の曲輪から主廓方面に登っていくと登り土塁の向うに最初の堀切、
そこを越えると主郭部北端を遮断する二条目の堀切が切られている。

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主郭部曲輪と切岸
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意外に広い主郭

切岸をよじ登ると、主郭部の北曲輪が二つ、薮に覆われた広い主郭、
その南尾根に二つの腰曲輪が構えられ、最南部には土塁が築かれている。

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主郭部南尾根の曲輪群

その向うの尾根は急斜面となって、直下の尾根に広い曲輪が二段、
その曲輪の東西を力のはいった竪堀で遮断している。なかなかの構造である。

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主郭部南斜面のスゴイ竪堀、4条あり
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南尾根の堀切

記憶に残っている母坪城はもっとちっぽけなものであったが
ひさしぶりに登ってみるとなかなかの山城であった。

歴史的には細川氏の被官・赤沢氏が拠っていたところを
波多野秀忠が攻撃、激戦のすえに城は落ち、波多野氏は多紀郡から氷上郡に
勢力を拡大した戦が知られる。その後の歴史は分からないが
後屋城を本拠に高見城、三尾山城、黒井城などを構え
氷上郡から天田、何鹿までを支配した赤井一族の支城として
機能したものであろう。その時代の城主が稲継氏であったのだろう。
そして、明智光秀の丹波攻めによって落城、いまに残る遺構は
その当時のままの姿を伝えているとみていいのではないか。

思ったより満足度の高かった母坪城を下山したあと、
車をデポしている坂尻の公民館に舞い戻った。
分かれるとき、昨日、出石で聴講した丹波は青垣の山垣城と
周辺の山城に登ることを約束してSさんと別れたのだった。
posted by うさくま at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波の山城
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