2019年02月02日

ふたたび播磨後藤氏の歴史探索で播磨遠征

今日も、相方の運転で後藤家の家紋探索に福崎へ遠征。
先日は本家筋にあたるらしい後藤家の墓所を訪ね
「下り藤」紋を用いられていることを確認した。
今日は、まず播磨後藤氏が拠った春日山城の登山からスタート
整備された登山道を登っていくと20分ばかりで山頂の城址。
説明カンバンに描かれた木内さんの概略図によれば主郭を中心に三段の曲輪となっているが、帯曲輪はブッシュがひどくて踏み込めない状態。
ともあれ、山頂の主郭部から360度の眺望を楽しみ早々に下山、城址山麓の白井家墓地にお邪魔した。白井本家の墓石には「後藤伊勢守の子孫ながら帰農時に白井を名乗った」とあり、墓地の一角に先祖・伊勢守の五輪塔が大事に祀られ林立した墓石に彫られた家紋は挙って「丸に桔梗」であった。

その後、春日山城が見える範囲に散在する墓地を訪問。
家紋採取に勤しんだ。おおむね名字・家紋ともにオーソドックス。そのなかで目をひいたのは内藤家の「下り藤に月に輪鼓」紋、中塚家の「違い面高」、藤田家の「五本骨扇に違い山形」あたりであった。墓地にポツリポツリとある後藤家の墓石には、「蔦」「橘」が刻まれ、本家一族が用いる「下り藤」紋は用いられていなかった。

さらに福崎東部の墓地を訪ね、加西市へと移動する。
加西市の畑町の墓地ではズラリ並ぶ安富家の墓石に「三つ星」紋、安富家の由来を誌した墓誌を探したが見つからなかった。すぐ近くの墓地は増田家が多数派で「鶴丸」紋、森家も同様、そして宮永家が「宮の字」紋。一つだけあった後藤家の墓石には「鶴丸」紋が刻まれていた。

ついで、今日の二つ目のターゲットである多可町中区森本に集中している後藤家の墓所を探索、訪ね当てた墓地は多可後藤氏が拠ったといわれる森本城跡が見えるところにあり、家紋は「立ち面高」を多数派に「剣カタバミ」の紋を用いる二つに区分されていた。ちょうど墓参にこられていた婦人に聞いたところ面高紋を用いる後藤家が本家筋とのことだった。

先日、春日山城主後藤氏の直系子孫という福崎の後藤本家を中心とした後藤家の墓所の調査では、中世後藤氏が用いたとされる「下り藤」で統一されていた。ところが、今日、諸所の墓地で見つけた後藤家の家紋は蔦、橘、鶴丸とバラバラであった。後藤氏が新補地頭として入部した多可町安田の後藤家も「立ちオモダカ」、「剣酢漿草」など、いずこでも播磨後藤氏が用いたとされる「下り藤」紋とは出会えなかった
また、春日山城主後藤伊勢守の子孫という白井一族は「桔梗」紋。同じく後藤氏の子孫で名字を改めたという吉識家の墓地でも「下り藤」紋はなく 三つ巴、抱き沢瀉、横木瓜、違い鷹羽 など家紋はバラバラだった。
これまで、名字は変わっても家紋は先祖の用いたものが踏襲され、家紋が遠い先祖の名残をとどめると思ってきた。しかし、後藤氏のみならず播磨の中世武家の流れを汲むという名字の家紋を調べていると、「家紋と名字は表裏一体」だといわれる関係は「中世においては」と修正されるべきか!と考えを改める必要性を実感したことだった。

posted by うさくま at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索
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