2018年04月16日

近江湖西の山城群を攻める

戦国城友のM氏の誘いを受けて、近江は湖西の山城攻めに遠征。
そもそもは6日の予定だったが、悪天で延期したのだった。
今日の天気予報は「晴れ時々曇り」、まだ暗い朝五時、
いつものコンビニで待ち合わせて舞鶴道を小浜ICへ。そこから熊川宿を
経由して高島郡(現高島市)に攻め込んだ。

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まず、高島郡の北部に位置するマキノ町の田屋城跡。
すでに陽は昇り、気温も高くなく、山城攻めには打って付けの快晴。城址まで整備された九十九折れの山道を登っていくと、竪堀があらわれ折れをもった虎口を入ると城址であった。城址からはマキノの町から琵琶湖までが一望である。東屋があるところから、かつて(いまもか?)公園として整備されたようだ。

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横矢のきいた竪堀
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折れをもった虎口

田屋城址の石碑裏面には
森西の地、北陸道往還し、清原氏あり、
古より世々この地を治め来たれりと。戦国の世、
領主田屋山城守清原朝臣吉頼、稲山に塁を築き居城と為す
乱世にありて浅井氏と結び、織田氏と争う、
天運有らず廃城の憂き目に遭う(抄)

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土塁囲みの南曲輪
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南西尾根の堀切
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主郭の虎口から伸びる土塁

城址は土塁で区画した平坦地が連なり、一見、分譲地を思わせる縄張。緩斜面は竪堀を落とし、南西部の尾根筋は二重の堀切で遮断、高所の主郭であろう曲輪も土塁で囲繞され、折れをもった枡形虎口、北側に櫓台を思わせる高土塁が設けられている。

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主郭背後の大堀切
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大堀切の東斜面を防御する畝状竪堀

主郭の背後は自然地形に畝状竪堀を加えた堀切地形を呈し、その北の尾根は自然地形を活かした曲輪となっている。田屋氏一族が集住したものであろうか?と思われる縄張は解釈に悩まされたことだった。とはいえ、立地と浅井氏との関係を思えば、朝倉の技術が入っているのではなかろうか。

二つ目は日爪城、山麓に寺院跡という平坦地が広がり、根小屋として転用されたという。ねごや地蔵を目印に斜面を登っていくと、東曲輪群の横堀が尾根筋を遮断し、一面にオオイワカガミの群落が広がり可憐な花を見せている。

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東曲輪群南斜面の空堀
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城址一面にオオイワカガミ

城址の説明カンバンには
日爪集落の南西「城山」とよばれる丘陵上にあり
城址からは木津荘域、琵琶湖まで一望、五十川城、吉武城も望める
伝承では清水山城の出城ともいわれ、高島郡北部一円を眼下に収める
遺構は主郭と東曲輪群とに区画され、大きな土橋で結ばれている。
(抄)

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東曲輪群の土塁

横堀に設けられた土橋から枡形状の虎口を入ると東曲輪群、そこから土橋が伸び背後の尾根は二重の堀切と主郭に沿ってクランクをもった横堀、その先の尾根にも浅い二重の堀切が設けられている。

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主郭背後の二重堀切
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主郭切岸に沿って設けられた空堀

小さな山城で、山麓の根小屋を前衛に、主郭を詰めの城として機能したのだろうか。西方の尾根を厳重に遮断している縄張は、清水山の出城といわれる説にクビを傾げさせるものではあった。

201804_IMG_5408.JPG コンビニ前

コンビニで昼ごはんを購入したあと清水山城へ。今日、もうお馴染みになった獣防柵を開けて、城址へと車を乗り入れる。振り返れば、2006年7月に東京から京都本社に異動、京都に住してバタバタも一段落した8月17日に清水山城に登った。その日から関西の山城攻めが本格化し、十二年の歳月が過ぎ去っていたのだった。
その間に戦国ブームが到来、その影響を受けて戦国時代に築かれた山城が着目され、いまでは世をあげて戦国&山城ブームが続いている。

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大手道の大門跡
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土塁で区画された武家屋敷が広がる

十二年ぶりに再訪した清水山城は、記憶にあった草木は伐採、手入れされ、山麓の屋敷群は白日のもとに全容を見せていた。むかし訪ねたときは、高島家の歴史探索がメーンだったこともあって主郭周辺をザッと見ただけだった。

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南東尾根の堀切
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南東尾根曲輪群の切岸
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盛りのツツジが見事

城址の説明カンバンには
西の佐々木氏とよばれる高島氏の本城。丘陵の高所に築かれた主郭を中心に南東、北西、南西の三方に伸びる尾根上に曲輪を配した連郭式の山城。
城址から南方に広がる斜面に城主、一族衆、家臣などの屋敷跡と思われる土塁で仕切られた平坦地が広がる。
中世から戦国時代にかけて、高島郡の中・南部を支配した高島七頭の惣領家にふさわしい規模を有している。
(抄)

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南西曲輪の堀切
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南西尾根の大堀切
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南西曲輪群の土塁

今日は山城探索が目的ということもあって、山麓の屋敷群から尾根筋を主郭部、南西尾根の曲輪群と堀切、主郭の御殿跡、北西曲輪群の畝状竪堀、堀切などなどジックリ、ネッチリと歩き回った。

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南西曲輪を区画する堀切
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主郭、琵琶湖が一望
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北西曲輪、北斜面の畝状竪堀
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北西曲輪群の大堀切
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北西先端部を遮断する堀切

時計をみると、なんと三時間もの間、城址をうろついていたのだった。高島氏は本家六角氏に代わって近江守護職に補任されたひとかどの武家勢力だけに、居城もそれにふさわしい規模のものであった


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田中城跡は上寺集落の後方山上にあり、すでに日は西に傾きかけていた。ここも獣防柵が設けられ、その前の城址石碑で記念撮影をしてのち整備された山道を登っていった。縄張図で見る限りお堂のある曲輪を中心として、曲輪群が連なり、背後の山に詰めの山城部が営まれている。道はお堂に向かって続き、道々に曲輪が続き、やがて正面にお堂への石段、右手に土塁で区画された曲輪群があらわれる。

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曲輪を区画する土塁と虎口
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切岸も高い

田屋城の縄張と似ているが、こちらは清水城の武家屋敷群と同様に寺院跡の平坦地を城郭に転用したものであろう。それぞれの曲輪は広く、土塁、切岸などしっかりしている。田中氏がどれほどの勢力かは知れないが、城址を見る限り相当の力を有していたようだ。あるいは、寺院勢力と並存していたのだろうか。

城址の説明カンバンには
上寺集落の西方に位置し、高島七頭の一人田中氏の居城と伝わる。
古代、山岳寺院・松蓋寺があったといい、その故地を城郭化したという。
土塁で区画した平坦地を連ね、要所に堀切を設けた縄張が特徴的。
天守台とよばれる曲輪からは琵琶湖が一望。
『信長公記』には浅倉攻めの途次織田信長が逗留したとあり、その後、
浅井氏の勢力下に入った田中氏は信長に攻められ滅亡した。(抄)

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天主曲輪の高土塁
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琵琶湖を望む
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北西尾根先の堀切

お堂後方の尾根筋の山城部は曲輪が階段状に連なるが、天主跡という曲輪以外は小ぶりなものであった。ここでもオオイワカガミの群落が可憐な花を見せ、当時もかくやと目を楽しませてくれた。天主曲輪は後方を土塁と堀切で防御、その先に続く細尾根のピーク部も大堀切で遮断していた。天主台曲輪からは琵琶湖が望め、城主気分が味わえるところだった。

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日暮れて薄闇が迫り、ぼろカメラはピントが甘かった

城址から下ると山麓に墓地を発見、お邪魔してみると小川家の墓地で「松皮菱に花菱」紋が打たれていた。あとで調べると田中氏の家臣に小川という武士がいたようで、その後裔にあたる家であったのかも知れない。

田屋城、清水山城、田中城はいずれも大きな山城で、それぞれ近江の戦国史に名を残したところだけに見応えがあった。縄張図を片手にM氏と「あーだ、こーだ」と蘊蓄をかわしながらジックリ探索したこともあって、いつの間にか夕闇が迫る時間となっていた。さらに予定していた打下城、大溝城は割愛、今日の近江遠征は四城の踏破で終わった。
折々に登る丹波の山城とは遺構、歴史、立地など一味も二味も違い、久しぶりに山城を堪能、片道160キロの道を駆けて行った甲斐があった。それぞれの城から琵琶湖が望めるというのも近江湖西の山城ならではの味わいであった。

posted by うさくま at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 近江の山城
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