2018年03月23日

佐用郡本郷谷に遠征

今日は年休をとって、宍粟城研のTさんと誘い合わせ、
かねてより心に引っかかっていた佐用郡本郷谷へ遠征。
本郷谷は赤松円心の長子・範資の子・直頼が入り本郷を称し、
子孫は船曳を名乗ったと伝えられ、今も船曳姓が多い。

宍粟城研としての城攻めは二年前の八上城登山以来のことになり
メンバーのFさんにKさん、竹田城ボランティアガイドの一人Tさんも参加され
総勢五人で本郷谷の戦国史跡巡りに汗を流した。

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朝九時半、宍粟市役所で待ち合わせ、Tさんの車に相乗りさせてもらって
志文谷に移動、Fさん、Kさんと合流、一番目の徳平城に取り付いた。

徳平城は赤松一族・得平氏が築いた城というが、実際に登った印象としては、ほぼ自然地形、かつて祠があったという平場があるばかり。ただ、西側を通る街道を押える場所であり周囲に残る字などから城があって然るべきところではあった。

徳平城登山で軽く足慣らしをしたのち、本郷谷に移動。

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大内谷城を見る

まず、本郷谷に入った直頼が築いた城といわれる大内谷城から攻めた。登り口の住宅は船引さん、山麓には船引家の墓所もあった。船引家の裏が登り口で、そこから狭い尾根を登っていくと、途中に見張り所だったという平場があった。そして、城址の南部を防御する横堀と土塁があらわれ、城址遺構へ攻めこむことになる。

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大内谷城の横堀
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大内谷城の主郭切岸

城址は広い曲輪を主体としてピークに主郭、西方に帯曲輪が設けられている。尾根筋に堀切?と思われる地形があったが、堀切と断定できるものではなかった。大内谷城は全体に削平も甘く自然地形というしかないが、帯曲輪側、主郭の後方尾根側に切岸は確認できた。また、東側にも曲輪と思われる平坦地があり、それらを城址とすれば、相当な広さの山城だ。

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大内谷城の切岸
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大内谷城、意外と広い

城址は全体に雑木が茂っているが、南に本郷谷の入口をにらんでいる。おそらく、山麓に居館を構え、いざというときに詰める城として築かれたのだろう。いま、大内谷は袋小路状になっているが、かつては、本郷峠で宍粟郡と結ばれていた。大内谷城は、本郷谷を押えるともに、宍粟の赤松氏勢力とのつなぎの役目も持っていたのではないか。

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船曳家の古墓地

下山後、船引さんが墓守をされているという城址谷向かいの山に営まれている船曳(墓所に刻まれた名字)家の古い墓所に案内いただいた。江戸時代の古い墓が並び、船曳氏らしい「尚」を通字とする諱も彫られている。残念だったのは、期待した家紋は未だ刻まれていなかった。

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立派な小笹家住宅と天神山城址

大内谷城のつぎは、山名氏の部将・小笹氏が拠った天神山城。天神山城の山麓に立派な屋敷があり、表札には「小笹」とあり後裔にあたる家であった。城址は小笹家の後方より取り付き、城址に祀られる天神さんへと登っていく。墓地を過ぎたあたりに曲輪、切岸を登ると天神さんの祠が立つ櫓台と思しき高台、高台の周囲には横堀状の窪地、そして広い削平地が広がる。

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天神山城曲輪と主郭部切岸
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前衛曲輪と主郭部の切岸
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主郭部曲輪と切岸
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主郭部曲輪と切岸

さらに、城址は後方尾根上にも数段の曲輪を構え、帯曲輪、腰曲輪を伴っている。そして、西方へと続く尾根筋を力の入った大堀切で遮断している。先の大内谷城と比べると城とていの規模も大きく、造りもシッカリしている。何よりも、大堀切の立派さは山名氏の城を感じさせるものであった。

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後方尾根を遮断する大堀切
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南斜面の帯曲輪

天神山城址は天神さんを祀る前衛部と、その後方尾根に築かれた主体部の二つで構成されていた。主体部は山城の雰囲気をまとい、前衛部は居館と言うべきたたずまいで、本郷谷を支配する政所的な城砦居館だったと考えたい。

さて、本郷谷の歴史を振り返ると、嘉吉の乱で赤松氏が没落したのち、播磨守護職に任じた山名氏が赤松一族本郷氏系船曳氏に代わって配下の部将・小笹氏を本郷谷に配した。小笹氏は本郷谷の拠点的城砦として築かれたであろう天神山城に拠って本郷谷を支配したが、応仁の乱で赤松氏が復活すると船曳氏によって天神山城を落とされ、本郷谷はふたたび船曳氏が支配するところとなった。
おもしろいのは天神山城を夜襲した船曳氏は天神山城とは谷ひとつへだてた仁増構に拠っていた。その規模は、しかっりとした構えの天神山城には遠く及ばないものである。船曳氏は宍粟の宇野氏、近い関係にある江見氏らの支援を得たといわれ、本郷谷の最奥に構えられた大内谷城に援軍をいれ、挟み撃ちをして小笹氏を屈服させたものであろう。
さらに、おもしろいのが船曳氏に一敗まみれた小笹氏はその後も本郷谷に居住し、江戸期には庄屋もつとめる旧家として続いた。いまも天神山城の南山麓に小笹家の広大な家があり、立派な門構えに白壁が取り巻き、敷地内には多くの建物が並んでいる。そして、小笹家は本家を中心に、一族が分住しているのであった。

l29512650_1949223621814812_4712499999171854069_n.jpg 小笹家の家紋

天神山城の南斜面に小笹本家の墓地があり、お邪魔すると「井筒に違い鷹羽」の紋が刻まれていた。改めて、小笹家の広壮な住宅の門、白壁の屋根瓦を見ると「井筒に違い鷹羽」が彫られている。そして、小笹家の分家筋は「丸に違い鷹羽」を用いているとのことだった。小笹の名字にちなむ「笹」紋であろうかと勝手に思っていたが、想像はアッサリと裏切られたことだった。

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仁増構の曲輪削平地
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船曳氏後裔の家に伝来する古瓦の家紋

さて、小笹家の山城に登ったあとは、船曳氏が拠った仁増構に登った。当時にはなかった神社が鎮座し、後世の改変もあったのだろう、城址の遺構、範囲を特定するのは難しかった。そもそも、居館的なつくりだったようで、天神山城と比べるとその粗末さは隠しきれないものがあった。それゆえに、先にも書いたとおり、小笹氏と船曳氏の抗争に不思議の感をいだくのである。おそらく、北郷谷において山名系小笹氏と赤松系船曳氏とは友好的な関係を築いていたのであろう。応仁の乱における夜襲も山名氏の支援を期待できない小笹氏が、船曳氏の下風に立つためのセレモニー的な意味合いがあったのではないか。
宿命のライバルとして角突き合わせた赤松氏と山名氏、それぞれの部将が中世以来のゆかりの地である播磨の一角にともに存続する。その背景に思いをいたすと、地方の小さな歴史ながら得も言われぬ妙味を感じたことであった。

posted by うさくま at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 宍粟城郭研究会
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