今月に入ってから、青垣町の家紋ウォッチに勤しんでいる。
かつて西遷御家人として佐治荘に入部した足立氏、信濃から移住してきた芦田氏が拠った芦田荘を中心にお墓を訪ね歩いている。
足立、芦田ともに旧氷上郡の北部に集中する名字であり、青垣町から峠を越えた福知山市側にも足立姓と芦田姓が分布している。自動車のなかったむかしは、峠を挟んで人・ものが往来、婚姻も多かったことに由来するのだろう。また、両氏とも戦国期の負け組みに属しながら、よく名字が残っているのは一種、壮観ではある。
さて、今日は土曜日の振替休日ということ、天気も快晴、丹波市青垣から榎峠を越えて福知山へ、穴裏峠を越えて青垣、篠山を移動。目的は足立さんと芦田さんの名字と家紋の分布調査。
青垣町市原地区を振り出しに、中佐治から国道492号の榎峠を越えて福知山市西部の法用地区から談、畑中、垂水を経巡り、榎原の谷筋を通り抜け穴裏峠を越えて青垣町東芦田までの墓地をめぐった。
青垣町はもとより、榎峠をはさんだ福知山南西部における足立さんの広がりすごすぎ!いまでこそ兵庫丹波と京都丹波に分かれているが、むかしは丹波国西部で一括りだったわけで、なんら不思議ではないともいえる。
中世、足立氏は山垣城を本城として、一族が佐治荘内に支城を築き勢力があった。その勢力は福知山側の豊富荘から榎原荘にも及んでいたのだろう。一方、芦田氏は小室(芦田)城を中心に、芦田荘に広がり勢力があった。両氏とも一族はおおいに繁衍し、他姓も取り込んでおおいに広まった。いいかえれば、両氏はそれだけ魅力のある武家だったということかもしれない。
榎峠を越えて福知山に入った最初の山間の集落法用は、一村、すべて足立姓、家紋もこぞって「五本骨扇」であった。
つぎの談集落の松林寺の墓地でも足立姓が多数派で「五本骨扇」紋、ついで藤林(藤巴)・藤原姓が目立った。松林寺はおりから素晴らしい紅葉で、ちょうど帰ってこられた住職の方にお話を聞くと、福知山の足立姓は青垣の方から来たとのこと。
談のとなりの畑中集落の村墓地では、芦田(蘆田)さん、足立さん、大橋さん、榎原さんらが目立った。芦田さんは定番の「雁金」「二つ引」に「井桁に桐」と、丹波でいうところの株内ごとに家紋が違っていたが、足立さんは定番の「五本骨扇」紋、その揺るぎのない組み合わせは圧巻である。
青垣と山を接する垂水集落でも足立姓と芦田姓が多数派で、それに赤井姓が割り込むという形だ。そして、別の垂水の村墓地では、多田・井上・由良・赤井・安達・足立姓がそれぞれ割拠するかたちで墓域を占めていた。家紋は多田さんが「卍」、井上さんが「九曜」、由良さんが「三つ柏」、赤井さんが「檜扇」と名字ごとに染め分けられていた。
つづいて、穴裏峠を越えて青垣に抜けるルートになる榎原荘の墓地へと移動。こちらでは口榎原の村墓地で榎原さん、森田さん、藤原さん、牧野さんらが多数派で、足立姓は少数派であった。
墓地すぐの観瀧寺を経て奥榎原に移動、ここの村墓地では榎原さん、森田さん、大槻さん、そして足立さんがぞれぞれ墓域を占有していた。その家紋は榎原さんが「九曜」、森田さんが「笹竜胆」「山形に一つ星」、大槻さんが「雁金」、足立さんは定番の「五本骨扇」、気持ちがよいほどそれぞれの名字と家紋がドンピシャである。ただ不思議だったのは、穴裏峠の向うに勢力があった芦田姓が少なかったことであった。
丹波青垣町域に集中する足立姓と芦田姓、その広がりを辿ってみると、何やら中世の歴史、近世の歴史が浮かび上がってきた。さらに、現地に足を運ぶと、運んだだけの収穫があった。何よりも、まず通ることのないルート、道々いい秋の景色に出会えた。余談ながら「穴裏トンネル」は心霊スポットとのこと、霊感のない者にはまったく無縁の話、ノー天気に通り過ぎたことだった。
はじめまして川西市に在住しています
イッシーと言います。
趣味で山城跡を探索しています。
篠山市の高屋に高屋城跡があると資料で見つけました。
西紀小学校の前にある山と道路を挟んであるもう一つの山かなと個人的には思っています。
近畿の山城跡の資料で見つけました。
雰囲気的にはありそうな感じがします。
高屋城は山名小太郎の支城跡と
天天さんのサイトに書かれているところですね。
城があってもおかしくはないところですが
実は、まだ確かめていません。
いつかは登ってみたいですね。