丹波篠山の大山下の山麓で、立派な佇まいの墓所を発見。何か由緒ありげな・・・と感じて、訪ねてみると篠山に多い名字の一つ長澤家の墓所であった。
どうやら墓所に林立する墓石は二家の長澤家のもののようで、刻まれた家紋を見ると「酢漿草」と「二つ引両」に分かれていた。
丹波篠山の長澤家の場合、「東寺百合文書」に頻出する中世の丹波国大山庄に勢力を有した中澤家(丹波篠山では中澤家・長澤家・中沢家・長沢家があり、もとは同族関係にあるようだ)にゆかりの家が多い。
築地塀で囲んだ墓所内にある墓だけに近しい一族なのだろうが、家紋が違うのは中世の家紋集として湯名な「見聞諸家紋」に掲載された中澤家の「三つ盛酢漿草に二つ引両」紋をそれぞれの長澤家が用いた結果のように思われたが、さて?
フェースブックから
高澤等 丹波の中沢氏の出自も面白いですね。
大山村史に「大山庄は、承久の乱後、武蔵国中沢郷の中沢左衛門尉基政が戦功により新補地頭として当庄に入部す」とあるので武蔵七党丹党かも知れませんが、どちらかというと信濃国伊那郡中沢郷の諏訪一族のような気もします。というのも長野、山梨県で梶紋、片喰紋が混在していて、中には鷹の羽車を用いるものがあり、井上氏とも近いのかなと感じるところがあります。
家紋 World 丹波多紀郡(現篠山市)の中澤(中沢・長澤・長沢)氏の出自は、不明なところが多いです。地元の伝承では、源義経の後胤といわれ、それを語る系図もあったそうです。実際、丹波多紀郡は義経が三草山経由鵯越のルートとしたことから、義経に関わる伝説が数多あり、奥州におちのびる前の義経を匿ったのは、多紀連山を行場とする丹波修験であったとも語り伝えられています。義経の後胤というのは、そうとう慎重に接するべき物語でしょうが、久下氏と同族だという説がいうところの武蔵七党の流れを汲む武家ではなかろうか?とわたしは思っています。また、多紀郡内には井上姓があり、その家紋は鷹の羽車が用いられています。江戸時代以前からのものか?あるいは維新後のものなのか?気になるところです。ともあれ、旧多紀郡は古い名字が結構残っているところです。
書き込みをありがとうございます。
丹波篠山市の旧多紀町域の大山、旧西紀町域の西谷には
長澤(長沢・中澤・中沢)姓が集中しています。
にしきトンネルのあたりにも長澤姓があり、西谷の
西谷寺という無住の寺には墓石が何基か祀られています。
書かれている墓所はそこではなく、山の中にあるのでしょうか?
「天正六年八月十五日没 紅雲院殿一天窓梅大居士」
と彫られた墓石、ぜひ、拝見したいものです。
墓参をされたとのこと、御先祖様も喜ばれていることでしょう。
墓石に彫られている家紋は「酢漿草」紋でしょうか?
系図、位牌も伝わっているとのこと、
写真画像がございましたら拝見できますと嬉しいです。
いろいろ情報、ありがとうございました。
機会をみて墓所を訪ねてみたいと思います。
観音像を見せていただいた。大先祖の位牌も祀られていた。西紀の墓から当時でも徒歩移動は可能。大山城付近には二カ所の長澤の墓がある。笑止城の墓など不思議な事が多い!
私は阪神大震災の翌年から、丹波の義経の伝説を訪ねて、以来10何年義経を追いかけて参りました。というのも義経のひこ孫が、足立家丹波二代目の足立政基の妻として輿入れしたという情報を得たからです。悪戦苦闘して漸く噂の全貌を手に入れました。いわゆる清和天皇から延々と昭和の御代までの其れは中西家の系図です。
有名な中澤家の譲り状の内、永正四年に道忍が書いた物が有ります。本名中澤四郎左衛門尉重忠、この人の嫡男・忠基が中澤の家督を嗣いで、次男の忠勝が応仁の乱の時、自軍の敗色濃厚になって紀州雑賀の中西家に陰れそこに入り婿して中西姓になったのです。その子孫は今も丹波篠山市に四〇軒あまり、一つの聚落に住でいます。
只、この一族は、長澤宏行さんの求めて居られる長澤家の先祖ては有りません。
紅雲院殿一天窓梅大居士、俗名「尊義」の先祖は美濃の土岐源氏の子孫です、今有るのか判りませんが柏原町下小倉の長澤みどりさん宅、ご子息は東京練馬区高松にお住まいの長澤孝明さん。044−5241−7210、・・・永くなりますので次回に長澤さんの先祖の話をいたします。必ず読んで先祖の供養として下さい。
書き込みありがとうございます。
中澤家の奥深い歴史の一端を
垣間見させていただき、感謝いたします。
送信日時:2005年5月19日木曜日け03
宛先: adachi¥くホームページ作成者)
件名: ホームページを拝見させて頂きました。
足立先生のホームページを開かせて頂きピックリ致しました。
大阪府守口市の大塚保と申すものですが、私の曾祖父は徳永中澤の膵右衛門近憲書の中の傳左衛門近正の三男中澤嘉吉郎です、
今迄は中世丹波大山庄中澤栄一なる人の丹波史を開いていましたが色んな場面で疑問に思った事が多々あり、他の大名のページを開いていますと先生の。畠山一族の滅亡を開きましたところ、長澤及び中澤等の祖がでて参りましたので、色々となれぬパソコンをあやつり行き着きましたのが『源義経との邂逅』でした他に九郎判官義経も見せて頂き本当に仰天致しました。勿論足立遠元様のページも見せて頂きました。そこで早速親類の何れも徳永中澤の人達で近正の三男中澤嘉吉郎の孫ですが、電話で其のことを教えますと皆様どの方も、先祖は大山庄の地頭職の中澤と思い、私が先生のホームページをコピーさせて頂き送ってあげ一度逢いましょうという事で逢いましたが、是又説明が大変です。皆様お年が80歳以上の方で、頭には地頭職の中澤しかないので、申し遅れましたが尼崎市常光専一丁目18・10の中澤修様は孫さんになる人ですが皇太神社の神職一級の位のお持ちの神職さんで、この方が徳永中澤の代表者のような方です。芦屋女学校の国漢教師あと幼稚園も経営しておられます。中澤家の人達は教師職の方が殆どです。神戸、西宮近辺に多数居られます本当に足立先生のページを見せて頂き世の中が変わったような気が致します、この5月の16日、中澤修さん中澤武さんと皆で丹波に行ってまいり、浄土寺をお参りし裏山の基地に登り先祖の芝大夫、傳左衛門、脾右衛門先祖の墓をお参りしてきました。本当に足立先生には感服致しております5月15日載せられましたページを見せて頂き本当に驚きです。何分頼りない私たちですので今までの系図で充分満足していたようです、どうか先生様には解らず仕舞いの私どもを今後とも宜しくお願い申し上げます。
上の中澤栄一さんは、徳永屋敷を畳んだ時、木戸シゲ子さんが長持ち一杯の顧問書を預けた町ノ田のふんけてです。
30年も前に亡くなった祖父から、お前は中澤うんぬん伯耆守重何とかの子孫で長男だから何代目の当主なんだよ、と小学生高学年の頃でしょうか、言われたことがずっと心に残っていました。真偽の程は確かめようもないのですが、武家家伝からここにいたり思わずコメントした次第です。