車折神社で御札を求めたのち
そのまま丹波篠山にユーターンした。
目的は、前から心にひっかかっていた
今田波多野氏の旧跡と墓所の探索だ。
そのまま丹波篠山にユーターンした。
目的は、前から心にひっかかっていた
今田波多野氏の旧跡と墓所の探索だ。
丹波立杭焼で知られる篠山市今田町の西方に位置する今田新田は、
高城山八上城主波多野秀治の後裔が新田開発したところ。
伝記によれば、秀治の遺児・甚吉は成長ののち源左衛門定吉を名乗り、
篠山藩主・藤井松平山城守忠国に仕え、
味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石の7カ村の代官に任命された。
高城山八上城主波多野秀治の後裔が新田開発したところ。
伝記によれば、秀治の遺児・甚吉は成長ののち源左衛門定吉を名乗り、
篠山藩主・藤井松平山城守忠国に仕え、
味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石の7カ村の代官に任命された。
荒廃いちじるしい波多野家旧居、いまなら改修が間に合い そうだが・・・
その子源右衛門が味間村から市原村に移住し、
今田新田、今田、芦原新田の原野開発に着手、
寛永三年(1626)開発を成就したという。
波多野氏ゆかりの西方寺、樹齢600年という山茶花で有 名
今田新田の風景(中央の杉の木のあるところが波多野氏旧 居)
源右衛門は、古刹金鶏山西光寺の塔頭を再興して「西方寺」を創建、
新田の開発に尽力するなど、今田の歴史に足跡を刻んだ。
かねてより、探していた今田波多野家の住宅、墓所、
やっと、今日めぐりあうことができた。
やっと、今日めぐりあうことができた。
西方寺後方の山麓、初代源左衛門以来の古式然とした波多 野家墓所
古い墓石に刻まれた家紋は「丸に十字(轡か)」紋
こちらは、十字の横棒が丸から突き出ている
新しい墓に彫られた「丸に出十字」紋
残念ながら住居は荒れるにまかされ、
西芳寺裏手の山麓にある墓所は荒廃の色を見せていた。
しかし、波多野氏が重ねてきた歴史は
十二分に感じることができた(合掌)
西芳寺裏手の山麓にある墓所は荒廃の色を見せていた。
しかし、波多野氏が重ねてきた歴史は
十二分に感じることができた(合掌)