2015年04月12日

備前天神山城に遠征

宍粟城研恒例の山城探査会で備前に遠征。
今日のターゲットは浦上宗景が築いた備前天神山城跡である。
天神山城跡は四年ぶりの再訪、今回は前の訪問時に割愛した
西麓に存在する武家屋敷も訪れたい。さらに、宗景の重臣
明石氏が拠った北曽根城跡もターゲットとした。

宍粟市役所に八時半集合、今日のメンバーは七人
二台の車に分乗して市役所をスタート。新宮町経由で
山陽自動車道和気インターへ、一路備前天神山城を目指した。

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前回は田土から登ったが、今日は北麓の天石門別神社を取り付きとして、急斜面を見張り所、さらに急斜面を天神山城へとひたすら登る。いつも思うことだが、むかしの武士たちは粗食でありながら峻嶮な山上に築かれた山城を往来する頑健な体力の持ち主である。さらに合戦となると具足をまとい、武具を携行することになる。いや〜、たいしたものだ!というしかない。

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F会長のいつもの熱い解説を聞きながら城址を探索、本丸で昼食を摂っていると、さすが備前三大山城の一つだけにパラパラと登山者が登ってこられる。
昼食を摂ったあと、宗景が最初に築いたという太鼓丸へ。こちらも急斜面の激登りとなる。途中、登山者の方に出会い今回、踏査をあきらめた百貫井戸の写真を見せてもらう。う〜む!なかなか立派な遺構である。が、道なき斜面を下った場所にあるといい団体行動ということを思えば断念やむなしであった。太鼓丸はやはり旧い形態のもので、天神山城の出丸として機能したようだ。

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太鼓丸からふたたび天神山城本丸に引き返し、西麓の武家屋敷跡と結ばれる山道を下る。

天神山城は峻嶮な山上に築かれた曲輪群を詰めの城として、平時は山麓に居館を構え、家臣屋敷も形成されていた。それは、西山麓を流れる吉井川の天瀬と、東側の田土集落側に営まれていたようだ。
そして、田土より百貫井戸を経て桜の馬場に至る大手道があったといい、現地の古い案内板には田土側に根小屋と記されているのだった。おそらく、集落の営まれている田土側が主体的な武家屋敷群、西麓の天瀬側は吉井川を大動脈とする流通路を押さえる番所的武家屋敷群があったように思われた。

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天神山城の本丸から西麓の武家屋敷群に下る道は明確で、下りついた屋敷跡は想像以上に広いものであった。それぞれ削平も丁寧、中核となる主体部はもとより屋敷跡群は石垣が多用されている。雑木や竹が茂りダニが出そうなところだが、遺構群は十分に見応えのあるものだった。

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また、今回見落としてしまったが、さらに南の方にも石垣で区画し木戸跡などが残るもうひとつの武家屋敷群があるそうだ。
宇喜多直家の下剋上に潰え去ったとはいえ、最盛期は備前から美作に勢力をふるった浦上宗景の本城だけに、山上の曲輪群、山麓の武家屋敷ともに城砦としての結構は備わっていた。つぎの機会には田土の根小屋群、見落とした天瀬南側の武家屋敷跡を探索したいものだ。

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今日の山城攻めは、初老の城好き揃い、ゆっくり休み休みしたこと、城跡をジックリ探査したことなどもあり思った以上に時間がかかってしまった。次に予定していた北曽根城跡登山はあきらめて、宗景の嫡男で宇喜多直家に毒殺された与次郎宗辰の墓を訪ねた。

直家の下剋上に備前をおわれた宗景、その最期も不詳となっている。備前・播磨に覇を唱えた浦上氏の歴史を思えば、なんともはかないことではある。とはいえ、天神山城の本丸には後裔の方による立派な顕彰碑が建てられており、黒田家に仕えた一族が近世を生き抜いたようだ。また、山麓には浦上姓の家があり、いまも浦上氏の歴史は語り継がれていることが実感されたのだった


PS:
帰路、Facebookを見ると、太鼓丸で会った方が書き込みをされていた。なんと、Facebook上で友達関係にあるTさんだったと知った。山城は友達の輪も広げてくれます (^-^)/
posted by うさくま at 12:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 宍粟城郭研究会
この記事へのコメント
私も登城しました。見事に残っているのでびっくりしました。多人数で上るとどうしても行動制限がかかり、又、体力格差もあるので私は敬遠しています。寄り道大好きなので。
Posted by 播磨備前守 at 2021年01月29日 17:58
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