2014年08月03日

田路氏発祥の地、朝来田路谷を歩く

天気予報では「曇り」というが、ときおりパラっとくる不穏な天気。
予定通り、宍粟城研会長藤原さんと朝来田路谷の探索行に出陣。

丹波篠山から但馬朝来までは、何通りかのルートがあり
ナビは舞鶴道→中国道→播但道を推奨している。豊岡道を
知らないナビとしては最良の選択なのだろうが遠回りな上にお金もかかる。
青垣から銀山湖を横目に生野へ抜け、そこから北上という一般道ルートもあるが
道が狭い山道は避けたい。ということで豊岡道を選択、
会長との待合せ場所である田路谷口までは一時間半のドライブだった。
豊岡道は本当に安くて重宝な自動車道である。

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奥田路に残る田路城址を遠望

会長と無事合流。雨模様の田路谷をまずは田路氏の菩提寺であった祥雲寺へ。田路谷は思ったより深い。まだかまだかと思いながら走っていくと、前方に館跡?と思わせる石垣が現れ、そこが目指す祥雲寺だった。いまは無住となっているそうで人気はない。寺のすぐ前を田路川が流れ、後方に山を背負った位置にあり、館を構えるには格好の場所に思われた。
虎口を呈した石段を登り、境内にお邪魔すると古い瓦に「九曜」紋を発見。千葉氏流といわれる田路氏の菩提寺にふさわしいものだ。寺後方の山腹に田路氏のものという宝篋印塔が二基、住職の方々の卵塔群の傍らに田路氏百回忌の石塔が立っている。一帯に漂う寂び寂びとした空気は、小領主田路氏の歴史を語りかけているようだった。

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本日のメーンターゲットである田路城跡は、祥雲寺の西方に見える山上にあり、田路氏は祥雲寺を平時の館として田路谷の最奥部に詰めの城を構えたのであろうか。そして、田路城は但馬と播磨の境目の城、宍粟側にも勢力を伸ばした一族との繋ぎの城として機能したのだろうか。今日の田路谷探索の大きなテーマである。
たまたま、通りかかられた地元の方にお話を聞くと、いま城跡への道はないとのこと。そして「むかしから奥田路では口田路よりも山向こうの千町と通婚している」とおっしゃった。いまは自動車時代だが、むかしは峠を越えるのが当たり前であり、奥田路と宍粟の千町・三方とは隣の村であった。そして田路氏が紡いだ歴史を背景として、つい最近まで関係が続いていたようだ。

会長いわく、田路氏は田路谷から起こったことは間違いないが、境目の領主として但馬の山名・太田垣氏と宍粟赤松・宇野氏に両属する形で勢力を保った。やがて宍粟の三方庄に所領を得たことで、三方に新たな拠点を構えた。三方は田路谷に比べて拡張性も生産性も高いところであり、嫡流は三方城を本城として周辺に支城を構え、田路谷には庶流が残ったのでは?と。
『田路城跡に登れば、いろいろなことが見えるはずだ!』何はともあれ、国地院の地図と西尾さんの縄張図を頼りに城攻めを開始した。

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田路谷から宍粟側の千町へと続く林道に入って行ったが道が悪い、繁茂するミツマタの隙間から小鹿がこちらを見ている。人を恐れていないのだろう、なんとも野趣に富んだところではある。ひとまず引き返したところで田路家の墓を発見、家紋は「抱き茗荷」であった。傍らにあった西垣家も同紋で墓所は西垣家のものであるようだった。奥田路には西垣さんが多く立派な石碑も立っていた。いま、田路谷に田路姓はないという。軽軽にはいえないが、先の田路家は西垣家が起こしたものではなかろうか。

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田路城址があると目星をつけた山は、西垣・田路家の墓所からも見えた尾根が平らな山であろうと想定、取り付き場所を探しつつ林道に分け入った。ところが、行けどもそれらしき場所はない。結局、荒れた沢を渡り急斜面に取り付き、激登りしていったが、どうも間違っていたような。ひとまず下山して昼食を摂り、改めて国地院の地図をチェック。どうも地図を見誤っていたようで、先に分け入った千町へ続く林道の左手に伸びる尾根に目指す城址があると確信、ちょうど小鹿を見たあたりであった。そこも間違っていたならば、改めて出直そうということになった。

国地院の地図に記された点線ルートの谷から尾根筋へ攻め込もうと思っていたが、一帯はミツマタが群生地であった。ミツマタは天然の逆茂木となり、素手での前進はあきらめざるをえなかった。かくして、こちらも見上げるばかりの激斜面を直登することになった。

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気合を入れて尾根筋まで登り切り、稜線を歩いていくと緩やかな尾根となり、その先に曲輪と思しき地形が数段続いている。西尾さんの縄張り図と見比べると、間違いなく田路城址であった。
城址はピークの主郭を中核として、南北に曲輪を並べ、背後の尾根筋斜面に三条の堀切が切られている。主郭の周囲切岸と主郭すぐの堀切こそシッカリ造られているが全体的に自然地形を残した大味な印象である。

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城に登る前は田路谷(祥雲寺であろう)に日常の館を構え、詰めの城として築かれたものと思っていた。しかし、実際に登ってみると造りの甘さは措くとして、位置的に田路谷を押さえる城ではなさそうだ。藤原会長いわく、「田路氏は朝来側から発祥したことは間違いないが、やがて本拠を宍粟側に遷し一族を田路谷に残した。そして、宍粟の三方城を本城として、宍粟と朝来の境目と繋ぎの城として田路城を構えのたであろう」と。
その説を裏付けるかのように、田路谷には田路姓はなく宍粟側に田路姓は集中しているのである。加えて、奥田路は宍粟の千町との婚姻関係があったという話など、田路氏は宍粟と朝来とをまたにかけた武士であった。もっとも、田路の入り口にあたる集落には藤次という名字があり、「トウジ」と読み田路から変化したものという。根拠のない印象だが、田路谷においては田路氏の足跡を消そうとしているように思われたが、どうだろう。

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今日の田路城踏破で、田路氏の城砦群は一応制覇できた。
田路氏はまことに小さな勢力だが、地方史に浅からぬ歴史を刻んでいる。名字が起こった地を歩き、伝来する文書にふれ、山城を歩いたことで中世を生きた武家田路氏の意外な姿を垣間見ることができた。まことに小振りで地味な存在ながら、そのしたたかな生き様は、一所懸命に象徴される中世武家らしいものであった。
次に機会があれば、宍粟と朝来を結ぶルートを歩き、田路に残っている藤次さんの家紋を探ってみたいものだ。
posted by うさくま at 07:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 但馬の山城
この記事へのコメント
祖父は一時的に大徳寺檀家田路の養子ですが、その理由も不明で祖父の母が誰かも不明です。
父世良英雄[神戸市西区秋葉台民生委員]故郷が、宍粟市一宮町生栖梶原ですが、本家伯母に私が病人扱いされて、祖母白川家や本家周辺に電話する事を迷惑がられています。
私が田路血統者かどうか知りたいのですが…

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Posted by 世良 康雄 at 2015年07月26日 02:04
藤次はふじつぐと読みますよ。
とうじをふじつぐと変えたらしいです。
Posted by at 2017年09月27日 22:48
藤次は とうじ ではなく
ふじつぐ と読むのですね。
変えた理由が伝来していれば
ぜひ、ご教示ください。
Posted by 播磨屋 at 2017年09月29日 23:42
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