2017年05月28日

丹波篠山三大山城(勝手に呼称)を攻める

朝から晴天。予定通り戦国倶楽部オフ会「丹波篠山三大山城(勝手に呼称)を攻める」に出陣。総勢七人、今日も真夏なみの暑さの中山城攻めに汗を流した。

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三大山城の堀切。 まずは八百里城跡

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ついで、細工所荒木城跡

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三つ目の籾井城跡

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三大山城の切岸。八百里城跡

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細工所荒木城跡

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籾井城跡

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いずれも、歴史、遺構ともに面白い山城ばかりで、何度、登っても新しい発見がありあきることはないのである。
一人、負傷のため途中でリタイヤされたが、残るメンバーは三大山城を制覇、オフ会は解散となった。

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その後、有志三人で懇親会、旨い酒に舌鼓を打ったのだった。
posted by うさくま at 07:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国倶楽部

2017年05月27日

木津城整備作業、第二回

丹波木津城址、整備作業第二ラウンドに出動。

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前回に作業した堀切、いい感じ


今日の作業は主郭西の帯曲輪から北尾根に続く曲輪群を切り開くため、ほとんど手の入っていない灌木類の伐採に精を出した。


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主郭西の腰曲輪


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北尾根曲輪から主郭方向を見る


もくもくと作業を続け、なんとか北尾根曲輪の北端までの往来を可能にできた。あと、次回に伐採を計画した西尾根曲輪の状態を確認して下山。


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雑木が生い茂る西尾根曲輪


作業中にマムシが登場、また帰宅後かゆいと思ったらダニにたかられていたのは、不安材料ではある。ともあれ、十一月の木津城見学に向けて整備作業も着々と進みいい感じである。次は六月中頃の予定。

posted by うさくま at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2017年05月21日

山名氏城跡保存会の舞鶴の山城見学会に参加。

今日の山名城跡保存会見学会の攻城地は、舞鶴西部に残る女布城と愛宕山城 & 愛宕山北城の三城。女布城はかねてより登りたかった山城、ガイドには舞鶴の山城調査を続けておられる廣瀬さん。廣瀬さんは。かつて綾部の歴史講演会において女布城について発表されたのを聴講、以後、時々メールでのやり取りをさせていただいている。
 
舞鶴のバザールタウンで集合したのち、ひとつめの女布城に向う。女布城は一色氏の被官・森脇氏が拠った山城といい、舞鶴でも最大級の規模を有している。登山口は城址南東に位置する村墓地から明確な登山道があり、迷うことなく城址へと攻め込めた。山道が取り付く虎口と思われる曲輪より城址は南北に曲輪が連なり、まず南西曲輪群を攻める。高い切岸をもつ曲輪が続き、南端部を高い切岸と大堀切が遮断している。

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虎口
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広い曲輪と切岸
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大堀切

一方、虎口より北東に続く曲輪群もしっかり造成されて、派生する尾根は堀切で遮断している。城址に関しては森脇氏のこと以外は不明とされるが、城の規模からみて単なる土豪が築いた山城ではなく、国人クラス、もしくは一色氏が拠点城郭として築いたものではなかろうか…と思われた。

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曲輪と切岸
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広い曲輪が続く
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北帯曲輪と切岸

女布城で弁当を使ったのち、二つ目の愛宕山城 & 愛宕山北城へ。城址へは。以前、墓ウォッチでお邪魔したことがある円隆寺より山上の愛宕神社への参詣登山道があり、こちらも迷うことなく登れるが急坂にアップアップとなった。何分、五月といいながら、今日の気温は三十度越えである。

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登りついた城址からは舞鶴の町と海が眼下に広がり、しばし休息をとったのち城址を探索。畝状竪堀は割愛して神社西方の尾根をシッカリ遮断する堀切群を踏査。

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愛宕神社で記念撮影
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本殿西直下の堀切
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尾根先の堀切

続いて、東方尾根に位置する愛宕山北城址を攻略。こちらは城址全体が深刻な藪化が進行中で、何とか堀切、畝状竪堀をウォッチしたものの疲労困憊であった。とはいえ、城址のある山中は、爽やかな風も吹いたりして気持ちよかった。

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舞鶴の海を眺望
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西端の堀切
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城址東端の切岸と堀切

また、いま悩んでいる丹後一色氏の家紋のヒントを得ることもできたことはラッキーだった。しかし、ガイドで頑張っていただいた廣瀬氏の顔をスッカリ忘れてしまっていて、車に同乗させていただきながら人違いをするという失態をやらかしてしまったのは情けなかった…かも。

追記

女布城登り口にあった村墓地、もともと山腹に営まれていたものだったようで、登山道に旧墓地跡が散在していた。高齢化により仕方がないこととはいえ、墓地の移動で古い暮石が打ち捨てられる結果となるのは残念というしかない。

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左) 肝付家  右) 芦田家

また、村墓地で見つけた「頭合せ三つ雁」紋。一つは芦田姓でおそらく丹波氷上郡ご出身の家、もう一つは肝付姓でこちらは遠く南九州の大隅ご出身の家と思われた。それぞれ同紋ながら、背負われた歴史は中世につながる奥の深いものであろう。家系や出身など遠く離れた存在の両家の墓が丹後の墓所で並んでいる光景は、なかなか興味深い。
posted by うさくま at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 山名氏城跡保存会

2017年05月20日

今田の山城と初田の酒井氏居館跡を探索

朝、ずーっと前から気に掛かっていた丹波立杭の小野原城攻めへ。
スサマジイ雑木藪を踏み分けてたどり着いた城跡は、ゆるい堀切で尾根筋を遮断し、街道側を低い土塁で防御した単郭の陣城的佇まい。城址には何やら獣の巣らしき洞穴が散在していたが、ナンジャロウか?。

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小野原城跡を制覇したあとは、大沢城主・酒井勘四郎が常の館とした初田館跡の探索。
探し当てた居館跡の東半分は舞鶴道の建設で消滅しているが、主殿があったという西側は残存、発掘調査がまたれる。勘四郎は明智光秀の丹波攻めに抵抗したが降伏、光秀に従って山崎の合戦で討死。かつて館跡には館四郎の首級を祀った酒井神社があったが、現在は初田集落の八柱神社に合祀されているとのこと。

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館跡に立つと詰めの城である大沢城が間近に見え、戦国気分をチョッピリ味わえたのだった。
posted by うさくま at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山歩き

2017年05月16日

赤松氏の紋を訪ねて書写山円教寺に登る

戦国末期、龍野城主・赤松下野守政秀が書写山円教寺開山堂の傍に寄進した護法堂の蟇股に刻まれた「二つ引両」と「三つ巴」を見に書写山円教寺に参拝した。

書写山円教寺は三十余年前、当時、勤めていた会社の社員研修というか研修ティストの社員旅行で来て以来のこと。改めて来てみると見どころがいっぱいあるではないか。

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せっかくなので鐘楼の「慈悲の鐘」を一突き

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書写算ホームページ : http://www.shosha.or.jp/ より

まずはロープウェーを降りてから山内の寺院をめぐる山道の寂び寂びとした佇まい、播磨征討戦に際して羽柴秀吉が本陣を置いたという歴史を語る曲輪跡であろう土塁を伴う平坦地、なによりも西の比叡山といわれるだけに豪壮な堂塔伽藍の数々。

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秀吉時代の曲輪跡か

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若干、荒れた空気も無きにしも非ずだが、よく整備されていて飽きることがない。円教寺の中核をなす大講堂・常行堂、食堂は映画やテレビ時代劇撮影のロケ地にも利用されたところだけに、中世のままといっても過言ではない佇まいと空気を漂わしている。

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さて、今日の目的である赤松下野守政秀の家紋に関する聞き取りをしたが、どなたもご存じないのであった。ともあれ、開山・性空上人を祀る開山堂を目指した。なるほど、開山堂の傍らに護法堂がある、


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0516_syosya05.jpg 赤松氏の家紋

逸る心で蟇股の裏側を覗いてみると「二つ引両」「桐」「三つ巴」紋が彫られているではないか。やっと赤松氏の唯一ともいわれる家紋の遺物と邂逅できた!のであった。

0516_syosya07.jpg クリンソウの花

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今日の目的を達し、ぶらぶらと書写山を歩いていると、沢のあたりに鹿の食害のなすものともいうべきクリンソウが咲いている。書写山中に営まれている松平家、本多家、まつだいら榊原家など姫路藩主であった大名墓、重要文化財指定を受けている建造物などを見ているとあっという間に時間が経ってしまった。
書写山円教寺、昼ごはんに食べた山菜うどんも含めて思いがけず堪能してしまった。
posted by うさくま at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史探索

2017年05月13日

丹波一宮・出雲大神宮の祭祀を担う七苗の家紋を探索

丹波国の一宮・出雲大神宮は、亀岡盆地の東部に立つ御影山の山麓に鎮座する古社。和銅二年(708)創建といい、旧称は『出雲神社』で「元出雲」とも称されている。明治維新まで出雲国の出雲大社は「杵築大社」を称し、「出雲の神」といえば丹波の出雲大神宮を指したといわれる。

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この古い神社の祭祀に関わったのは、出雲村の松崎・広瀬・谷尻、中村の谷尻・山田・西田・野々村・広瀬、小口村の名倉、江島里村の広瀬・野々村であったと資料で知った。それぞれ江戸時代には「四ヶ村侍惣中」と称されたという由緒を伝える古い名字である。とくに出雲村の松崎、広瀬は「両苗」と称され別格に扱われていたようだ。

さて、先日に続いて亀岡での家紋探索。今日はあらかじめ検索、チェックした出雲大神宮の南北に散在する氏子集落の寺院、村墓地を訪ね歩いた。
まず資料の出雲村にあたる出雲区の村墓地からスタート。「三つ鱗」の廣瀬家、「隅切角」の谷尻家、「横木瓜」の杉崎家をチェック。つづいて出雲区の極楽寺墓地、ここでも「三つ鱗」の廣瀬家、「隅切角」の谷尻家、「横木瓜」の杉崎家の墓石群。

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中村にあたる中区の村墓地では、「梅鉢」の野々村家、「九曜」の谷尻家、「横木瓜」の山田家。同じく中区の金光寺墓地では「梅鉢」の野々村家、「五三桐」の山田家、西田家「立葵」。

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江島里村にあたる江島里の蔵宝寺では、「梅鉢」の野々村家、「三つ巴」の廣瀬家を採取。そして、小口村にあたる小口の古刹・東光寺墓地で名倉家の墓石を発見、家紋は「月に立浪(大潮か)」というのだろうか初見のものであった。

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こうして、出雲大神宮の氏子という村々を訪ね歩くと、古い名字がよく残っていることに感動した。これまで馬路の両苗と三苗、保津の五苗、河原尻の五苗、そして、今日の出雲大神宮の祭祀に関わってきた名字群、亀岡の保津川北東部一帯は実に名字の歴史博物館ともえいるところだ。
ところで実際に足を運んでみると、資料に記された出雲区の松崎姓は見当たらなかった。杉崎姓が分布していることから、資料の記述は間違いで「杉崎・廣瀬・谷尻・山田・西田・野々村・名倉」の七つの姓(苗)が祭祀に関わっていたのであろう。

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また、真継「二つ巴」・川勝「立ち葵」・森川「三つ巴」・矢田「蔦」などの名字と家紋の組み合わせにも目を引かれた。

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余談ながら、出雲大神宮の神体山とされた御影山の中腹には、戦国期の山城・御影山城の遺構が残っている。
posted by うさくま at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年05月10日

丹波河原林、河原尻集落の五苗を探索

河原林町河原尻に鎮座する日吉神社は、嘉吉三年(1443)に近江国坂本から再勧請したとの記録があり、室町時代より宮座(宮の 党・長桟)が存し、かつては中世郷士の家柄である「五苗」が当番制で祭礼を行なっていたという。

五苗とは、資料によれば「茨木、湯浅、遠山、山田、八木」と言われる。そのなかの遠山家は美濃国の出身で、観応三年八月日「中津河秀家軍忠状写」で知られる中津川氏の子孫で遠山に改めた。そして、江戸期には旗本領の大庄屋や代官を勤めた旧家とのこと。今日は年休を取っていることだし、「家紋が気になる!」と止まらない。早速、遠山家を主体に河原林五苗の家紋を調べに出かけてきた。

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河原尻は亀岡駅の北方、中川・人見の両苗の家紋調査に訪れた馬路の南に位置した集落。まず、日吉神社を訪ね神社の駐車場に車を駐車、日吉神社は小さな神域だが、よく手入れされていていい雰囲気だ。河原尻集落もいい感じの佇まいで、古い家並もしっとりとして好ましいところだ。

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まず、超願寺の境内墓地にお邪魔すると、「隅切鉄砲角に算木」を刻んだ「山木」姓の墓石が林立し「剣唐花」の「八木」姓も。つぎの寶光禅寺の墓地では「茨木」姓が「州浜」、「遠山」姓が「二つ引両」、そして丹波ではおなじみ「湯浅」姓が「九曜」をそれぞれ刻んだ古い墓石が並び、彫られた家紋もほどよく風化してゆかしい。
さて、国の重要文化財にも指定されている遠山家住宅は?とネットで地図を検索すると、河原尻集落から離れた位置にあるらしい。で、移動したのだが見当たらない、で改めて検索すると先に訪れた超願寺すぐのところだった。

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訪ねあてた遠山家住宅は、長屋門、寂び寂びとした母屋など立派なもので、屋根の破風・瓦屋根を見ると「二つ引両」が打たれている。遠山家は美濃土岐氏の流れを汲むと伝えられているが、家紋を見る限り美濃東部から信濃北部に勢力を有した遠山家の流れであろう。

遠山家の家紋を確認したあと、さらに五姓の家紋を調べるため河原尻墓地をチェックし、勢いあまって保津村墓地まで足を伸ばした。
実際に現地を訪ねてみて、資料にあるところの茨木・湯浅・遠山・八木の四姓は発見できたのだが、山田姓は見当たらなかった。おそらく山木姓の間違いではないだろうかと思われたのだが、どうだろう? 

五苗の家紋

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茨木家・遠山家・湯浅家

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山木家・八木家

また、保津村墓地では河原尻の五苗と思しき名字の墓石はなかったが、保津五苗といわれる「桂」「長尾」「村上」などの墓石が多数派を占めていたの「然もありなん」であった。 

posted by うさくま at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年05月05日

恒例、多紀連山山開きにガイド出役

昨年より五月五日にフィックスされた「多紀連山山開き」
ルーチンとなった栗柄コースからの登山ガイドで出役。

いつもは十数人という少人数での登山だが
今年はありがたいことに30人近い大人数となった。

山登りの注意事項、主催者の挨拶などのセレモニーと
山歩きの会の方による準備体操で身体をほぐしてのち、0915栗柄の公園をスタート。

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まずは、修験道に係る伝承をもつ愛染窟までひた登り、小休止。
愛染窟からは滑りそうな山道をゆっくりゆっくり、途中にビューポイントで
疲れを癒しながら登っていく。どうしてもバラついてしまう参加者を
ポイントポイントで待ちながら、西の覗きを経て御嶽と西ケ嶽の
分岐点となる尾根に登り着いた。あっぷあっぷの登りであったが
ツツジやシャクナゲの花、若葉が匂い立つ木々の緑など、いい感じだ。

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愛染窟で小休止
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ビューポイントから春日町方面を見る
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鼓峠を見る

尾根に登ると、一気に視界が広がる。
右手に篠山盆地、左手に西紀から本郷に抜ける谷を見ながら
御嶽までの尾根歩きを堪能、天気も好し、いい山歩きであった。

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分岐に到着
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ツツジが鮮やか
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吹く風もサワヤカ

予定の時間を大幅に超えたが、全員、無事に御嶽を踏破。
ここで火打岩コースを登ってきたグループと合流。

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御嶽山頂に到着

昨年までなら御嶽山頂で弁当を使い、大タワまで下山したところで
一年の無事を祈る護摩焚きが行われるところだが、今年は中止とのこと。
理由は様々にあるのだろうが、一度、止めると再開するのは難しいのではないか。
色々な意味で残念なことというしかない。
御嶽山頂で弁当を使ってのち、1230西ケ嶽経由での下山をスタート。
案内役は、DSG山ガイドの先輩M氏。

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分岐を越えると若葉の尾根を歩く
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振り返ると、さっき踏破した御嶽
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岩場を登る、修験の山だ

尾根筋をアップダウンしながら1340西ケ嶽に到着。
山頂付近には石楠花、つつじなどの花々が見ごろ
360度の展望は望めないが、下界ウォッチを楽しむ。
みんなで記念撮影をしてのち1354栗柄へ下山開始。

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山頂で記念撮影
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いい感じの斜面を奥だって行く。

ひたすら下っていくこと一時間余、
1508栗柄集落に無事下山。そこから集合場所・運動公園まで最後の一踏ん張り
運動公園に帰着したのは1530、約六時間の山歩きを楽しんだ。
参加者にけがもなく、今日のガイドミッションを無事に終了できた。
posted by うさくま at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2017年05月03日

戦国倶楽部オフ会「明智越えの道を歩く」。

今日は戦国倶楽部のオフ会の先達として出陣。
丹波亀岡と京の清滝とを水尾・愛宕経由で結ぶ「明智越えの道」を踏破しょうという企画、一度、倶楽部オフ会の俎上にのせたが参加者のあまりの少なさに頓挫したこともあった。
明智越えの道は明智光秀が信長の宿泊している本能寺に兵を進めたルートの一つと伝えられる山道、明智ファンならずとも戦国好きには歩いてほしい歴史の道だ。とはいえ、正直、何人の参加者があるのか?ひょっとして二、三人での山歩きになるのかな?と思っていたら参加者十一名。意外な多さにチョッとびっくり。
ともあれ、亀岡駅に9時半集合、登り口となる保津集落へタクシーに分乗して移動。丹波亀岡より京の清滝まで、ひたすら山歩きとなった。

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コース行程マップ

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レジュメを配布

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亀岡駅より明智越えを見る

明智越えに踏み入る前に参加者十一人、元気な状態の記念撮影。おそらく5時ごろには清滝に着けるであろうと想定、気合いを入れて保津集落をあとにした。

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登山前、全員で記念撮影

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明智越え登山口に残る保津城址

登り口は「スズメ蜂注意!」と書かれたカンバンが目印の細〜〜い山道。分け入ったとすぐのところに、南北朝時代、中津川氏が軍功をあげた文書に記載される保津城址である。曲輪、切岸、堀切などなど、意外に山城パーツがしっかり残っている。保津に残る五苗と呼ばれる中世武家の系譜をひく家々が拠ったと想像されるが、確証はない。京都の山城などに取り上げられることにない山城だが、見ごたえのある山城だ。

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雑木が適度に日陰を作ってくれる快適な山道が続く

保津城址からはシッカリとした山道が続く。途中、清和天皇にゆかりの史跡ともいう峰の堂、明智越えを越えていった明智軍が渇きを潤したという土用の霊泉などをウォッチしながら、山道をひたすら歩く。

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丹波と山城の境目に存在する水尾集落が見えた

亀岡を出て、まずは水尾集落に下り、そこで一休みしてのち愛宕山を目指して登り続け、京側からの愛宕山登山道入り口になる清滝へと下っていく。水尾は清和天皇陵、清和源氏の祖経基王ゆかりの寺、清和天皇をまつる清和天王社などがあり、柚子の郷としても知られたところで、ひなびた中に漂う優雅な気配がゆかしいところだ。

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清和天王社、おりから祭礼の当日であった

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水尾から愛宕神社へ

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ひたすら登っていくと愛宕山分岐に到着

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落雷で避けた杉の木の根元に祀られた祠

水尾の郷から愛宕神社分岐まで、ひたすら大味な林道を登る。はたしてこの明智越えを明智光秀が本能寺に駒を歩ませたのか?実際に歩いてみてその可能性は低いと思わざるを得ないが、まったく否定もできない。確かなことは、本能寺の変を前にした光秀が愛宕神社に参拝し、連歌の会を開いたこと。そのおりには、この道を登って行ったことであろう(もっとも、当時に林道はなかったであろうが)

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清滝に到着、改めて記念撮影

こうして、落伍者もなく明智越えの道を踏破。なんとも酔狂ともいえる歴史ウォークであった。この酔狂さが戦国倶楽部らしさともいえるが、どうだろう?
posted by うさくま at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国倶楽部