2017年04月30日

丹波木津城、整備作業に登る

先月、有志での下見登山をすまし、公民館の担当者の方が地元の方への根回しもすまされ、いよいよお毎年のおもゼミ山城編の恒例となった整備作業を行うことになった。

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で、その第一回目の作業に着手、メンバーはガイドのTさんをリーダーに公民館のMさん、サポーターのDさん、Mさん、そしてわたしの五人。
登山道の邪魔な木々を伐採しながら山上の城址を目指し、一息入れてのち、まずは見所である南尾根の虎口と堀切の整備作業を行う。生い茂った雑木をひたすら伐採、五人掛でやると作業もはかどり土橋も明確になった堀切がスッキリ見やすくなった。

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雑木が茂る堀切

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一気に雑木を伐採

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主郭、帯曲輪の状態

続いて曲輪群に見学ルートを開け、次の作業計画の下見をしたのち下山、きょうの作業を完了した。今後、月一回のペースで整備作業を行うことになるが、何となく心躍ることだ。
posted by うさくま at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2017年04月29日

歴史ウォーキングで篠山の町&農村歩き に出動!

今日は篠山市四文化施設企画による「歴史ウォーキングで篠山の町&農村歩き」に裏方&ミニガイドとして出役。
今朝の天気予報「一時、山沿いで雷雨」というのが気になりつつ、篠山口駅集合の参加者を拾い、全員集合地である篠山城三の丸駐車場へ。今日の参加者は定員いっぱいの20人、時間通り、九時半に歴史ウォーキングがスタート。

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今日の行程
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ウォーキングの目的地は、伝統的建造物群保存(いわゆる伝建)地区に認定された福住集落、隠れ里として密かな人気の丸山集落、そして、国の登録有形文化財指定を受ける西尾家住宅と大山の里、それをつなぐバス移動の間およばずながら篠山の歴史ガイドをさせていただいた。

まず福住集落、地元のガイドさんによる案内で福住の街並みをそぞろ歩き、中世の山城・籾井城跡を見上げ、かつての篠山線の終着駅福住駅跡、そして、古い家並みが続く福住の町を歩き、先年、廃校となった福住小学校跡を訪ね歩いた。伝建地区としての整備は端緒に着いたばかりだが、これからどのように整備、発展していくのか楽しみなところだ。

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福住の歴史を拝聴
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福住の町をウォーキング

福住の町をウォーキング中にお日さんも出てきて、次の丸山集落のそぞろ歩きに期待が膨らんだ。途中、荒木城、車塚古墳、大売神社の紹介をしている間に丸山集落に到着。

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丸山集落をウォーキング
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丸山集落の再生と活性化に取り組まれ、いまの「集落丸山」運営の中心人物であるSさんのガイドで、山野草も咲きそろった懐かしい景色の集落内をウォーキング。ここで、雨女といわれる市担当のTさんと雨男という同僚のKくんが合流、すると好天だった空がにわかに曇ってきた!と言う間に雷雨となったから驚いた。

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雨宿りがてら山野草の花を拝聴

そんなことで。かつて篠山の水源地のひつとでもあった山麓の池までの野草見ながらウォーキングは中止として、公民館で丸山集落における野草群のお話を聞かせていただいた。しかし、せっかくなのでバスの中からでも自然にふれようということで、集落と池を往来したことだった。しかし、雨女・雨男の威力おそるべしであった。

丸山集落でお弁当を使ったあと、中世、東寺の荘園として全国的に知られる大山庄に江戸時代より続く旧家・西尾家住宅へ。
西尾家は俳人西尾武陵の生家であり、かつて酒造も営んだ素封家で、その門前を旧山陰道が通じている。その街道をはさんで鎮座する神田神社は式内社、古くは平安時代の国司、足利将軍、篠山藩主らが進行を寄せた篠山きっての古い神社。山陰道をはさんで西尾家、神田神社が響きあった光景は、近代以前のままではないかと思わせる癒しの風景であった。

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神田神社
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歴史を感じさせる西尾家

西尾家は人数の制限により西尾家見学組と神田神社見学組の二班に分かれての見学となり、いわゆる時間調整の神田神社ガイドをやらせていただいた。
神田神社が古いことは先述の通りだが、見ものとしては丹波の寺社建築に腕を振るった中井権次一統の初代の彫り物が目の当たりにできることだ。昨年のウォーキングのときは生憎の雨だったが、今日はよい天気で彫り物をジックリと見ていただくことができた。

かくして、篠山の農村をめぐった歴史ウォーキングは、途中雨にたたられるということもあったが、無事、スケジュール通りに終えることができた。この企画は全五回を予定していて、次の出役は十二月初旬の「二つの城をめぐる」の裏方&ガイドである。
posted by うさくま at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山歩き

2017年04月24日

関ヶ原家紋豆皿をプロデュース

かつての篠山藩主・青山家がおこした藩窯である丹波青磁王地山焼、関ケ原合戦で活躍した西軍武将の家紋を描いた豆皿の試作品ができました (^_^)まずは、石田三成と島津義弘です。

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着手するに際して、SNSで「関ヶ原の合戦」に参戦した武将の家紋といえば、誰の家紋を思い浮かべますか? 石田三成? 徳川家康? ・・・ それとも・・・??と尋ねてみた。
いただいた結果は、島津義弘、石田三成、宇喜多秀家が三強で、それに大谷吉継、井伊直政が続きました。敗れた西軍側諸将に人気が集まったカタチとなりました。選ばれた武将たちは、三成憎しで家康に加担した豊臣子飼いの武将たちや本心を隠して戦場に身を置いた武将たちと違い、自分の思うところをズバッと戦場であらわした面々、それが選ばれた要因だと思いました。人間、進退は潔くありたいですね。 ちなみに、徳川に味方した大名のうち選ばれたのは先の井伊直政、小早川あたり、小早川はともかくとして直政は奮戦中に被った鉄砲傷がもとでのちに死去しました。やはり、武将は戦う姿にこそ真骨頂があるっちゅうことでしょうか。徳川家康は人気なかったが、それは勝ち残ったもののしたたかさといおうか、しぶとさがやはり重いのでしょうか。戦は勝ってナンボなのですが、人気というのは不思議なところで左右されるのですね ( ´ ▽ ` )

追記
その後、宇喜多秀家の「児の字」、青山家にちなむ「無文銭」もリリース。まずは「関ヶ原合戦家紋豆皿」3点セット(箱付)として篠山城大書院などで販売。売れると嬉しいのだが…。

mame_POP01.jpg 自家製のPOP

posted by うさくま at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋

2017年04月23日

西尾会長と金山城に登る

今日は、N 会長のリクエストに応えて金山城跡登山をアテンド。

9時半に登り口近くの追入神社で集合。好天に汗ばみつつ金山城へと登って行った。

聞けば、石垣を有する丹波の山城について講演を依頼されたとのことで、黒井城、金山城、岩尾城、八上城を踏査されるらしい。

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城址、馬駆け場へ
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虎口
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若葉の萌える主郭

園林寺跡から馬駆け場に遺る平坦地、虎口、土塁をチェック、鬼の架け橋経由で城跡主郭部に到着。まず、巻尺で主郭曲輪の寸法を測り、取り巻く帯曲輪、切岸、虎口周辺の石垣を測りながら西尾会長の解説を拝聴する。


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黒井城跡を遠望
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篠山盆地を見る

主郭で弁当を使い一休みしたあと金山城の見所である石垣の探索、会長いわく破城されているとのこと。石垣近くに遺る竪堀と竪土塁を軽々される会長の身の軽さには、毎度驚かされることだ。総じて山城研究者みなさんは、斜面も藪もなんのそのという人が多い。で、踏査した竪堀と竪土塁についての評価は微妙らしい。

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主郭の石垣、破城が歴然
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伐採された木々が散乱する腰曲輪
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主郭を見上げる、スッカリk魏は伐採された

主郭部南腰曲輪から東曲輪群、そして大手の尾根へと移動。主郭の腰曲輪は伐採された木々がそのままで歩きにくい。東曲輪群は岩が散在し藪状態、しかし、櫓台を有した虎口をもち鐘が坂峠に下る東尾根に対する備えも技巧的らしい。

さらに大手の尾根は両側に土塁を築き、横矢も備えていただろうとの解釈。曲輪の要所をメジャーで測りながら聴く解説は分かりやすい。


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ヒカゲツツジが咲いていた
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曲輪を測る

一旦、園林寺跡に戻って小休止したのち、寺跡西方の小山に残る。

出曲輪を探索。寺跡一帯は兵糧などを備蓄していたものであろう帯曲輪が連なり、街道に沿って水曲輪であろう平坦地が築かれている。そして、小山上の曲輪の街道側は竪堀が落とされ、城跡には竪堀をよじ登ることになる。山上の曲輪は一面の笹薮、一応、メジャーで大きさを測量する。曲輪は山上の曲輪に小曲輪が付属したもので、西方の尾根は堀切でカットされている。


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出曲輪竪堀

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藪の中、城址を踏査


単純な造りではあるが、主体となる金山城の街道筋への弱点と補助曲輪群を固める位置を占め、重要な曲輪であることが実感された。ここで、ほどよい時間となり下山、今日の成果を話しながら駐車場へと降りついた。


次は、岩尾城登山を計画されているそうで、時間が折り合えばご一緒したい旨を伝えて、金山登山はお開きとなった。

posted by うさくま at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 篠山の山城

2017年04月22日

須知城オフ、京都丹波の中世城砦をめぐる

昨秋、文さんをコアとした山城登山グループの皆さんと企画した須知城跡と京都丹波の山城攻めが雨で流れてから半年、やっと仕切り直し登山を決行。
天気は快晴。集合は京都縦貫道丹波インターチェンジすぐにあるマーケスに10時、大阪、東北などから総勢10人での城攻めとなった。

須知城は中世の須知一帯領した国人・須知氏が築いた山城であり、丹波を平定した明智光秀が改修して石の城化、中でも主郭に残る高石垣は最大の見所となっている。

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0422_IMG_0075.jpg 丹波ICが眼下に

山上の城址からは眼下に丹波インターチェンジが見え、木々なども伐採されていて以前に登った時より眺望、城址の状態はよくなっている。石垣を有する主体部と堀切で区画された土の城とが並存しているのも特徴である。

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須知城に攻め込む
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主郭部の石垣虎口
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主郭部後方を防御する高石垣
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石垣をバックに記念撮影
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石の城と土の城を隔てる堀切
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土の城の切岸

上野山城と上野館は、須知氏の依ったところといい、詰めの城と日常居館とのセットであろうか。
上野山城は上野館に比べると小振りな山城だがシッカリ掘られた土橋付の堀切は美女山に続く尾根を遮断している。山麓の館方面に続く?と思われる山道があり、両者の距離感を確認したかったが今日はお預けとした。

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竪堀状の虎口
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曲輪と切岸
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土塁を伴った堀切

上野館は西方の曲輪群が破壊されているが、東方曲輪に残る土塁、大堀切は見応えがある。

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曲輪を区画する堀切(横堀とも)
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土塁と曲輪
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当時の石垣か

 
マーケスで、思い思いに昼ごはんをとったあと、日吉の大戸塩貝城跡へ。この城は尾根先の鍛治屋敷と称される土塁囲みの方形居館と、山上の山城遺構とがある。昨年、下見をかねて訪れたとき、地元の人が鍛冶屋さんが住んでいたことから鍛治屋敷と呼ばれるようになったおっしゃっていたが、チョッと信じられない。

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鍛冶屋敷の土塁
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尾根側より土塁を見る

城址へは、城主と伝えられる塩貝将監の墓として祀られる無縫塔より山道が通じている。チョッと迷った末にたどりついた鍛冶屋敷は、きれいに木々も伐採され見通しも利くように整備されていた。やはり、鍛冶屋の作業場というものではなく、山城遺構として意識されているのであろう。

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大戸塩貝城の切岸
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広い曲輪と高い切岸

大戸城は鍛冶屋敷から逆方向に尾根を登っていくとうすい堀切、そして城址西方を防御する大堀切と高さのある切岸があらわれる。切岸を登るとキレイに削平された曲輪と主郭の切岸、そして西側に帯曲輪を持った遺構の残存度は高い。主郭からの眺望は日吉駅方面が開けているばかりで、総じて見晴らしは望めなかった。大戸塩貝城は丹波守護代・内藤氏に属した勢力が拠った城というだけに、西方勢力への備えを意識していることが実感される縄張りだった。

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花蘇芳越しに野化館跡を遠望

塩貝城のつぎは同じく内藤氏に属したという日吉の土豪・宇野氏の居館跡・野化館を攻略。居館跡は江戸時代初期まで宇野氏が暮らしていたといい、一帯は宇野姓の家がいまも多く、たまたま声をかけた男性も宇野さんであった。居館跡は大きな主郭を主体に後方尾根、西方尾根に曲輪が設けられている。そして、主郭の後方を大堀切と土塁、前方を大堀切で遮断、北方の集落側は高い自然の崖で防御した要害であった。獣防柵代りの網、生い茂る雑草で城址の探索は難儀したが、大堀切と土塁の見事さは居館遺構を十分に堪能できた。

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尾根をガッツリ掘り切った大堀切
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土塁と堀切
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主郭土塁越しに集落を見る

さて、今日最後の訪問地となるのは亀田城。こちらは最近古文書が発見された小林氏が拠った城で、山城というよりは居館とよぶべきものだ。以前に訪れたときは植林が育ち、城址への谷も湿気がすごかったが、法面の木々は伐採され谷川もよく乾いている。

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斜面の木々が見事に伐採された亀田城跡

南西尾根筋の小曲輪より取り付き主郭へ、広い主郭の山側は土塁が築かれ、その向うの尾根は二重堀切で防御されている。堀切は大規模なもので、先の野化館を彷彿とさせるものであった。

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曲輪と切岸を登る
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主郭の山側は土塁で防御される
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堀切を歩く
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力の入った二重堀切

今回、訪ね歩いた京丹波から南丹の諸城砦は、それぞれ石垣、土塁、堀切など見るべきところが多かった。とくに、上野館、野化館、亀田城などは山城というよりは居館であり、構造も共通するところが少なくなった。うっすらと、城造りにも地域性があるのだろうと感じたことだった。
posted by うさくま at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の山城

2017年04月20日

高校生をガイドして三岳登山

今日は高校生の皆さんをガイドして、篠山の最高峰で修験の山・御嶽に登った。

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今年で三回目の出役となるこのガイド、昨年は雨の中、大タワで登って行った。今年はまずまずの天気で、三岳会館より火打岩より尾根に登り、そこから大岳寺を経由して岩場を登り山頂へ。

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そこから大タワをめざして危険な岩場を経て下山するというコース。ワイワイ、ガヤガヤ、楽しい山歩きができた(と思う)。

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怪我人も落伍者もなく無事に下山。高校生、チョッとおっちょこちょいな子、やんちゃな子もいましたが、おおむね素直な良いお子たちでした (*´?`*)
posted by うさくま at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 山歩き

2017年04月16日

木内さんらと感状山城に登る

先月、上月城登山にご一緒した木内さんからのお誘いを受けて、感状山城登山会に混ざってきた。集合場所の相生羅漢の郷に到着すると山名会のKさんら見知った顔が数人、なんといおうか山城好きの世界の狭さを感じたことだった。

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登山に先立って木内さんのミニ山城講座を拝聴、木内さ んのトークはみう名人の域に入っていると言っても過言ではないおもしろさ。もっとも、木内説に異論を挟む山城ファンも少なくないが、長年、自分の足と目で見た探ってこられた山城を独自のスタイルで描かれてきた木内さんの山城談は説得力があった。

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虎口の石段
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虎口横の井戸跡

さて、数回目となる感状山城跡攻め、前城の虎口から城域に入り、木内さんの解説を聞きながら曲輪を巡り、主郭のある後の城へと攻め登った。前の城は広い曲輪が特徴的なのに対して、後の城は石垣が見ものである。
感状山城はその規模の大きさと近世城郭を彷彿させる縄張りを有した山城だが、その歴史はといえば不明な点が多い。また、主郭に残る礎石群から屋形建築が存在していたこと、腰曲輪に残る石垣で組まれた埋み門遺構など、大名クラスの持ち城であったと思われる。伝承では赤松氏が南北朝時代に築いたといい、その通りであろうが、今に残る遺構は備前の戦国大名宇喜多氏が播磨矢野庄を押える拠点城郭として改修したものと思いたい。

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曲輪切岸
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矢野庄を眺望
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主郭部への石積
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見事な石積−埋門

主郭で昼ごはんをとったのち、木内さんの感状山城の発掘に係る解説を拝聴、主郭西方に構えられた土造りの帯曲輪群を下り、石積みを残す井戸曲輪を経て前の城曲輪群にユーターン。

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本丸で解説を聴く
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主郭部の礎石

そこから南尾根を下ったが、出曲輪であったともいう岩山部が宗教的機能を有していた(葬送の場であったかも)という解説は、チョッと受け入れ難かった。

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土の城部分の切岸
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井戸曲輪に残る石組

ともあれ、感状山城の前と後の二つの曲輪群は、前の城は兵糧や武具などの兵站区、後の城は主殿を中心とした居住区として機能し、番城として部将が守っていたのだろう。その歴史は分かりずらいものだが、城址遺構は並ではない歴史を語り続けるに違いない。

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0416_IMG_0081.jpg 空風輪がチョッと変

下山したのち羅漢の郷を散策、なかなか見ごたえのある石仏、五輪塔などが散在、それなりに楽しめた。このあと、二つめの山城・下土井城跡に登る予定だったが、相方が足の不調を訴えたこともあって、今日は感状山城だけで木内さんらと分けれて帰丹した。
posted by うさくま at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 播磨の山城

2017年04月14日

篠山城下町、桜満開

昨日に続いて桜が満開の篠山城界隈を歩く。

王地山陶器所にお邪魔し、桜の風景をパチリ
ついでお堀端の貸しボート乗場へ
同僚の二人が気持ちよさそうに堀を回遊。

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今年の桜は、この週末まで頑張って咲いてくれるような。
ボートにお城、河原町では「春のれん」、大書院ではお抹茶も。

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城下町をブラリとするにはもってこいの季節だ。
お城周辺では夜桜も楽しめそうだ。

posted by うさくま at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2017年04月13日

桜満開、篠山城跡

仕事のついでに篠山城跡をぶらり、
おりから快晴、桜も満開。

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篠山城跡はかつて桜の名所として知られたが
大書院の復元などによって盛時ほどではなくなったそうだ。
しかし、石垣、堀に満開に桜はよく似合っていた。

ちなみに、大書院ではおまっちゃ体験が楽しめます (^ν^)
posted by うさくま at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2017年04月08日

篠山歴史ウォーキング に参加

篠山、桜が咲きました。この土日は「さくらまつり」です、が、天気が心配( ̄∀ ̄)
さて、今日は篠山総合スポーツセンター 一周年記念イベント「篠山歴史ウォーキング」に裏方として参加、なんば歩きで篠山の町をウォーキング。

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桜満開の中、二班に分かれて13:00にスポーツセンターをスタート、なんとなくマスターした気分のなんば歩きだが、ついつい歩き方に気をとられてギコチないウォーキングになる。
まずは青山歴史村に入館、昨年オープンしたデカンショ館も見学、庭は春の花が満開である。青山からは北の外堀沿いに王地山公園に向かう。その途中、今日からスタートした篠山城跡北堀観光ボートで頑張るスタッフと言葉を交わし、城下町をウォーキング。

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花蘇芳というそうな

王地山公園では、なんば歩きのミニ講習会が開かれ、その効能を学んだのだがいまいちコツが掴めない。そもそも、なんばウォークは昨今の西洋伝来の走り方に根ざした歩き方ではなく、着物を着ていた江戸時代の歩き方だそうで、着物の裾が乱れることなく歩けるらしい。そして、乗り物のない時代にあって、疲れの少ない歩き方らしい。マスターすれば楽しいウォークができるのだろうが、子どものころから身についた西洋風の歩き方は一朝一夕には抜けない。

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王地山公園近くの河原町では「春のれん」が開催中。王地山陶器所でもイベントに合せて「王地山カフェ」をオープン、王地山陶器所の見学、あるいはお茶で一休み。

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ふたたび堀端を歩いて大書院に登城。大書院でもウォーキングのおさらい、そして館内の見学。このころから、にわかに空が怪しくなり、スポーツセンターへ急ぎ帰る事になった。たどり着く前にピリピリと雨が落ち始め、最後は雨の中でスポーツセンター着となった。
おおむね天気が崩れることなく、途中で気分の悪くなる方、事故などもなく、無事、イベントは終了した。
posted by うさくま at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 街歩き

2017年04月01日

訳あり企画に乗っかって中道子山城に登る

中道子山城登山会に混ざって、登ってきました。素晴らしい城跡、それを史跡にも指定せず、災害用電波塔などといい加減なことを言って工事を強行するツクヅク阿呆な自治体やな??と思ったことです。ホントッ、もったいない !

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かつて、相方と次女と登ったときと、基本的に景色は変わっていない。と思って登っていくと、城址にたどり着いた途端、工事用の資材を運び上げる軌道が我が物顔に城址を横切っている。しかも切岸を踏み越え、曲輪を横断しているではないか。山城ファンとしてはチョッと受け入れがたい光景ではある。

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切岸、土塁などは破壊を逃れている。

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城址を進んでいくと、主郭の後方に建設されるらしい商業用(市は公共用と説明しているそうだが)電波塔の基礎部分がシッカリと造営されている。聞けば、仮に建設がノーとなったとしても、決められた契約期間、電波塔施設は城址に存在し続けるらしい。国指定史跡も視野に入った遺跡でありながら、この体たらく、言いたくないが加古川市の行政は文化度が低すぎると言われても返す言葉はないだろう。

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尤も、工事は電波塔建設はされるものの城址遺構に留意、遠慮をしながら進められているという。完成した暁には景観が相当そこなわれるだろう。しかし、主要な部分が残るのであれば、それはそれで救われたともいえそうだ。

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曲輪切岸もシッカリ残っている

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堀切もガッツリ残っている

アレヤコレヤ思いつつ、電波塔の建設が進む主郭部から離れれば、いまだ、当時の遺構がシッカリ残っている。残念なことになりつつある中道子山城だが、おおむね、中世山城としての存在は守られたといえそうだ。

山城は電波設備を置くには最高の場所、ではありますが、列島改造論が日本をメチャメチャにしたことをを経験した今の時代に、このようなことをやる。しかも、いい加減なことを言って市民をダマし企業にすり寄る行政、納税者をナメるな、見るべき方向を誤るな!と言ってもお役人さん方は市民の声を盥廻しするだけで知らんぷりなんでしょうね (*´-`) 。
posted by うさくま at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 播磨の山城