マゴゲン送り届けた帰り道、我が家の年中行事となっている「一陽来復」の御札をゲットするため、予定通り嵯峨の車折神社に移動。その途中、ふと路傍に珍しい神紋を発見、車を寄せて立ち寄って見ると「猿田彦神社」。
2017年01月31日
猿田彦神社、そして車折神社へ
マゴゲン送り届けた帰り道、我が家の年中行事となっている「一陽来復」の御札をゲットするため、予定通り嵯峨の車折神社に移動。その途中、ふと路傍に珍しい神紋を発見、車を寄せて立ち寄って見ると「猿田彦神社」。
2017年01月24日
今年は雪が多い
2017年01月22日
ささやま市民センターまつり2016
2017年01月21日
亡母の四十九日
2017年01月18日
長女と孫ゲンの帰省
2017年01月16日
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2017年01月14日
2017年01月13日
山城一揆、ゆかりの山城をめぐる
今月22日に予定されている「ささやま市民センターまつり」の振替休日を取って、山城一揆にゆかりの山城を訪ねてきた。篠山から南山城まで京都縦貫自動車道から大山崎ジャンクションを経て京滋バイパスから一般道をドライブすること約二時間、丹波と南山城は近くなった。
まず、井手城攻めからスタート。登り口となる「井手町高齢者福祉センター・いでの里」横の山道を登っていくと、「弥勒石仏」と書かれたカンバンを発見、ほどよい空き地に停車して磨崖仏をウォッチ。磨崖仏は井手の地に営まれた、橘諸兄の館建立に際し鬼門除けとして刻まれたものという。しかし、実際は鎌倉〜室町時代の戦乱に苦しんだ農民たちが心の平安を求めて刻んだものであろうとのことだ。いったん林道に戻り、竹やぶが生い茂るなかをテクテクと城址を目指す。
手持ちの地図を確認しながら、ここらあたりかな?と目星をつけた斜面を登っていくとドンピシャ井手城跡の竪堀が現れた。竪堀に接する曲輪を越えると堀切、そこを登れば主郭である。城址は主郭を主体に西と南に腰曲輪を構え、さらに西方尾根に数段の小曲輪が築かれている小さなものだ。雑木に邪魔されて眺望は利かないが、西方の岩清水八幡宮領石垣庄を見下ろす立地を占めている。
井手城のすぐ近くに橘諸兄相楽別業と呼ばれた館跡があり、その別業にちなんで諸兄は「井手左大臣」とも呼ばれた。整備された館跡には、立派な石碑、供養塔が建立されている。諸兄は別業に山吹を植えたといわれ、橘氏の流れを汲む武家が「橘」紋を好んで用いるのはそれに由来したもので、供養塔にも「橘」紋が刻まれていた。
二つ目は稲八妻(稲屋妻)城。戦乱に苦しむ応仁・文明の乱において国人を中心に自治支配を行った山城一揆。かねてより一揆のことは心に掛かっていて、狛氏、木津氏、椿井氏ら一揆を結んだ国人たちの歴史・家紋、寺院・館跡・城砦などの史跡を折々に訪ね歩いた。山城国人一揆の歴史のなかにおける稲八妻城は、一揆方が最後に拠って敗北、一揆解体の地となったところだ。ここは外せないと思っていた史跡である。
その所在地については諸説あるようだが、今回、郷土史家・奥田裕之氏の調査された資料(30年以上前のもので簡単な縄張り図がうれしい)を拠り所として、南稲八妻にあるとされる城跡を訪ねた。
曲輪と切岸
切岸と横堀?
目指す城跡は京奈和道で分断され、藪化が進んでいる。藪をかき分け城址であろう山に踏み込むと、なるほど山城に見える。逸る心で登るとシッカリ削平された曲輪に土塁、切岸など、間違いない山城であった。さらに城址を歩くと、曲輪群が連なり、堀切や塹壕状の横堀なども築かれている。
曲輪が連なる
竹に覆われた大堀切
縄張り図と見比べると、城そのもの規模は小さくなく、京奈和道で分断された西側にあたるようで、それだけでも相当な広さである。一揆勢が守護体制に最後の戦いを挑んだ場所にふさわしい山城であった。もっとも、いまに残る城跡は、一揆時代のものではなく後世の手が入っているように見えた。可能性としては南山城を制圧した松永久秀あたりが鹿背山城の出城として改修したと思われたが、当たらずとも遠からず…か?
三つ目は一揆の中心的な国人・狛氏の詰めの城ともいわれる東山城(高ノ林城)。上狛駅側にある「ぬくもりの里」そばの登り口に車を停め、軽トラや軽の4WDなら楽に入れそうな山道に踏み込んだ。
印象としては登り口からすぐのところにありそうな感じだったので、「あそこか?ここか?」と迷走を繰り返すも城址と断定できる遺構は現れない。 『まだか!まだか?』 と不安になる心を励ましながら明確な林道を40分以上歩いて、あきらめかけた頃に城跡への進入路の目印を発見。
ヤットの思いでたどり着いた東山城跡は、最高部の主郭をコアとして西方尾根を土塁で防護し、北東の桜峠に続く尾根は堀切で遮断、南に伸びる二つの尾根に曲輪を設けている。曲輪の削平も丁寧で切岸も高い、曲輪を堀切で区画し、しっかりとした井戸も残っている。規模の大きさかから推して、狛氏単独の詰め城というより一揆衆が共同で営み維持したものであろうと思われた。
東山城から下りてくると、駐車したすぐ近くの山側に「東山城こちら」のカンバンを発見。とはいえ、そのカンバンを頼りに行ってもアッサリと城址にたどりつけたかどうか?、うろうろと山道を歩いたことも城址探索には無駄でなかったと思いたい。
三つの山城をめぐった今日の遠征、思いがけぬ収穫の多さに大満足であった。来た道を帰っていくと、丹波に入ったあたりから雪がチラホラ。本格的な冬は近い。