2016年03月28日

ついに、ゲラが届いた。

ついに、ゲラが届いた。420ページを350ページにというオーダー (°_°) 文字校正は、一応のところはしていたが70ページの削減って・・・・。いま、途方に暮れているところですっていうか、まずは気力、根性をチャージしなければっ 、キツイ!かも(≧∇≦)。

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綾部、和藤合戦史跡ツアーに参加

戦国末期の八木城主・内藤宗勝が何鹿郡に進攻、甲ケ峰城主和久左衛門佐との間で合戦が行われたという。その合戦に活躍をしたのが、和久氏の被官・白波瀬肥前守で、計略をもって内藤宗勝を討ち取ったと伝えられる。その顛末を記したという『和藤合戦記』などの軍記物では永禄六年(1563)のことといい、合戦そのものについては史実かどうか「疑問が残る」というしかない。
地元の歴史研究会のお誘いを受けて、和藤合戦史跡ツアーに参加。内藤宗勝が陣を布いたという禅定庵跡、白波瀬肥前守の計略によって敗戦、討死したという宗勝の墓所をめぐった。史跡めぐりというよりは、山歩きというべきイベントだったが、よい汗を流させていただいた。
(蛇足ながら、内藤宗勝が討死したのは永禄八年の黒井城主・赤井荻野直正との戦いであったことが古記録から知られる。何鹿郡から天田郡の支配をめぐる内藤宗勝と赤井荻野直正との前哨戦があり、内藤氏の一族某が討死したことを伝えたものであろうか?)

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2016年03月26日

おもゼミ、国人編の取材行

波多野氏に属して「丹波鬼」の異名をとった荒木山城守、細工所城に拠って明智光秀の丹波攻めに抵抗、激戦のすえに降伏したと伝えられる。現在、荒木氏の後裔と伝えられる家が、旧多紀郡北東の一角に続いている。久しぶりに訪問すると、なんとも嬉しく!得難い!出会いが二件もあり、その歴史の一端にふれることができた。

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南山城の整備作業に参加

旧多紀郡の国衆であった波々伯部氏の支城、南山城の整備作業に参加。今日は立ち枯れしている松の木の撤去作業に従事、27年度の波々伯部氏山城群整備作業は本日をもって終了。来年はどうなるのだろうか?

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2016年03月21日

京都家紋研究会の集会のため上洛

京都家紋研究会の集会のため上洛

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2016年03月20日

たつの市立歴史文化史料館 に寄ってみた

田舎からの帰路、たつの市立歴史文化史料館 特別展「秀吉からのたより」を見る。小さな展示ながら、おもしろかった。特別展図録(二冊で1800円)と龍野城物語を購入、その中の「諸士具足図」は脇坂家に仕えた武士の家紋が読み取れる貴重な史料。以前、龍野城下町のお寺で探索した龍野藩士の家紋と共通している! が、史料の傷みで40家しか判然としないのが惜しいっ!


ついでにたつの城址をひっさしぶりに散策、高校の時以来になる本丸御殿入館(無料)も。昔の記憶が薄れているゆえにか、たつのは知らない町に来たような・・・旅人気分を味わえた(かも)。




高澤 貴重な史料ですね。全国諸藩こうして図録にして欲しいです(^^)


家紋 World おっしゃる通りです(≧∇≦) この史料は元来、左と右の二冊があったそうで、上級藩士が網羅されていたようです。火事の被害を受けたものを修復したとのことで、全くダメになっているものがほとんどとありました。完全は望めなくても、せめて80名分くらいあれば、市内に残る旧藩士の墓紋と照会していくと面白い調査ができるのですが、実に惜しまれます。

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2016年03月19日

彼岸の帰省

三連休の土日は、お彼岸と母の見舞いで播磨に帰省。丹波青垣経由で、播磨宍粟の生家に向かう。

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2016年03月17日

丹波金山城跡に登る

八上城の波多野秀治と黒井城の赤井(荻野)直正とを分断し、さらに毛利の東進に備えた金山城跡。


職場の同僚、ディスカバーの同人のみなさんをガイドするかたちでの久しぶりの登山だった。

城址、鬼の架橋など、丹波市側は手入れが行き届き過ぎるほど、木々が伐採されていた。
また、地元大山のみなさんが金山城跡と鐘が坂とを結び、さらに瓶割峠をつなぐテンプルコースという山道を整備されていた。ここでも、山城の存在が地元の整備作業のきっかけとなっている。山城ファンとしては、まことにありがたいことである。

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2016年03月16日

近畿の城郭Vが届いた

やっと、届いた。U のときに比べて、「届いた〜!」という感動は薄い、かも (^^) これからも W、X と、出てくるらしいけど、玉石混交とはいわないが、どうなんやろ? ただ、資料として買って蔵書にすべき?かな。

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2016年03月13日

篠山子ども狂言「早春発表会」が無事終了

篠山子ども狂言「早春発表会」が無事終了した。心配していた天気もまずまずで、子どもたちも稽古の成果を十分に発揮する素晴らしい舞台となった。
残念だったのは、インフルエンザの流行で四人の子供たちが無念の欠席となったこと。一年間、積み重ねた稽古を本番の舞台で披露できなかったことは残念だったが、人生こういうこともある。来年の発表会に、今日の悔しさをぶつけてほしいと願う。

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2016年03月11日

「篠山子ども狂言」、最後の稽古が終了

平成27年度「篠山子ども狂言」、最後の稽古が終了。あと残すのは、13日(日曜日)の本番「早春発表会」ばかりとなった。天気予報では、雨は回避できそうな・・・、まずは一安心。子どもたちには、一年間積み重ねてきた練習の成果を思いっ切り出してほしいと願う。

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2016年03月06日

綾部の舘で家紋ウォッチ

城友Mさんと綾部の舘城跡に再訪。城跡近くに村墓地があり、以前にも家紋探索をしたとろだが改めて訪問。舘城跡のあるあたりは大槻さんが多く、墓地も半分ほどが大槻さんで家紋はこぞって丸に結び雁金。
大槻さん以外には村上さんの上げ上文字紋、伊藤さんの丸に横木瓜紋、永井さんの一文字に三つ星紋などが・・・。いずれもセオリー通りの組み合わせで、妙に安定感があったかも。いずれにしても田舎の村墓地では、名字はおっ!と目をひくものがあるが、オーソドックスな家紋が多いことが特徴的だ。それが田舎ぶりということなのだろう。


民家の蔵に「雁金」紋

式内社・赤国神社

赤国神社の神紋「桜」

村墓地の大槻家「雁金」紋

同じく大槻家の「雁金」紋、微妙に表情が違う

伊藤家の「丸に横木瓜」紋

村上家の「丸に上げ上文字」紋

永井家の「一文字に三つ星」紋

あぜ道にタンポポの花

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2016年03月05日

大山下に中沢家の墓所

丹波篠山の大山下の山麓で、立派な佇まいの墓所を発見。何か由緒ありげな・・・と感じて、訪ねてみると篠山に多い名字の一つ長澤家の墓所であった。どうやら墓所に林立する墓石は二家の長澤家のもののようで、刻まれた家紋を見ると「酢漿草」と「二つ引両」に分かれていた。
丹波篠山の長澤家の場合、「東寺百合文書」に頻出する中世の丹波国大山庄に勢力を有した中澤家(丹波篠山では中澤家・長澤家・中沢家・長沢家があり、もとは同族関係にあるようだ)にゆかりの家が多い。築地塀で囲んだ墓所内にある墓だけに近しい一族なのだろうが、家紋が違うのは中世の家紋集として湯名な「見聞諸家紋」に掲載された中澤家の「三つ盛酢漿草に二つ引両」紋をそれぞれの長澤家が用いた結果のように思われたが、さて?



フェースブックから


高澤 丹波の中沢氏の出自も面白いですね。

大山村史に「大山庄は、承久の乱後、武蔵国中沢郷の中沢左衛門尉基政が戦功により新補地頭として当庄に入部す」とあるので武蔵七党丹党かも知れませんが、どちらかというと信濃国伊那郡中沢郷の諏訪一族のような気もします。というのも長野、山梨県で梶紋、片喰紋が混在していて、中には鷹の羽車を用いるものがあり、井上氏とも近いのかなと感じるところがあります。

家紋 World 丹波多紀郡(現篠山市)の中澤(中沢・長澤・長沢)氏の出自は、不明なところが多いです。地元の伝承では、源義経の後胤といわれ、それを語る系図もあったそうです。実際、丹波多紀郡は義経が三草山経由鵯越のルートとしたことから、義経に関わる伝説が数多あり、奥州におちのびる前の義経を匿ったのは、多紀連山を行場とする丹波修験であったとも語り伝えられています。義経の後胤というのは、そうとう慎重に接するべき物語でしょうが、久下氏と同族だという説がいうところの武蔵七党の流れを汲む武家ではなかろうか?とわたしは思っています。また、多紀郡内には井上姓があり、その家紋は鷹の羽車が用いられています。江戸時代以前からのものか?あるいは維新後のものなのか?気になるところです。ともあれ、旧多紀郡は古い名字が結構残っているところです。

posted by うさくま at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 家紋